落ちない肌(15)
初瀬が葵に教えてもらった木場町の料理店はもう十年以上続いている隠れ家的な雰囲気のイタリア料理店。ということは八〇年代バブルの頃に「イタ飯」という俗語が流行っていた頃にできたことになる。バブル全盛期の繁華街がどんな顔をしていたのか。チャも初瀬も葵もまだ高校生だった頃でよく知らない。流行が終わると多くのイタリア料理店がばたばたと消えていった。東南アジアやインド料理の店も幾つかできたがそれも一時の流行で終わりほとんどははやばやと姿を消したらしい。だがこの店は基本的なスタイルを変えることなく続いている。客層もほとんど変わらないという。
ビルのテナントは入れ換わり立ち換わりめまぐるしく回転しているというのにこの店の中に入るとそんな忙しなさを忘れさせてくれる落ち着きがある。最初に付いた客層というのが斜め向かいの大型書店へよく顔を見せる大学教授や講師でその研究室の院生らが利用するようになり開店当時の院生が今は准教授や講師として入ってくる流れができたようだ。
チャはいう。
「何か頼んでいいかな」
「いいんじゃない?というか、まだほとんど何も食べてないよ」
「イカ墨のパエリア」
「それスペイン料理じゃん。リゾットじゃなくていいの?」
「でもメニューに載ってる」
「じゃ、あたしもそれもらおう」
チャは今の仕事にはひと通り慣れたつもりだが女性患者に対する声かけということになると途端に苦手意識が出てくる。女性の場合体質的に男性よりアルコール耐性が弱い。かつてのキッチンドランカーともまた違っている。ただ単に台所周りに酒が多いとか暇を持て余すとかいった時代の依存症者とは随分事情が異なる。
「初瀬さ、亜美さんの話何度か聞いたことあるって言ってたよね」
「あるよ。キャメさんとかすだちさんとかのことも」
「うん。あたしにはキャメさんやすだちさんのケースはわかりやすいんだ。学習会で図式化して考えられるっていうか。でも亜美さんのことになると女性患者ではよくあるトラウマだけじゃなくて、もっとずっと奥のほうに何か触れちゃいけない謎の生きものがとぐろ巻いて居座ってるようなそんな感じがあって。どこか怖い。日頃は平気そうな顔でなんでもないって明るく振る舞ってるだけになおさら」
「チャさあ、学生時代にジェンダー習った?」
「習った」
「研修でもやったと思うんだけど、ん~何ていうかなあ。あたし研修中に違和感というか引っかかっりを覚えたところあったんだけど今も引っかかったままなんだ。チャはどう?」
「どうって言われても研修中も実際に病棟勤務になってからも最初はマニュアル通りにやって、それからだんだん患者さんひとりひとりの違いがわかってきてその違いに応じて臨機応変」
「まあそうだよね。ちなみにあたしがジェンダーと医療の授業で引っかかったところっていうのは、女性は罪悪感や恥の感情を抱きやすい傾向にあるってとこ。看護学科時代の授業ではそこのところはそういうことなんだって感じでそのまま次の話に進んでいくんだけどあたしはそこで一瞬止まったんだ。女性は罪悪感や恥の感情を抱きやすいという点がひとつ。もうひとつは自殺企図とか多量服薬とかで顕著な自己攻撃衝動とか自罰傾向を持つと。このふたつは女性がもともと持ってる体質というのとは違うんじゃない?って」
「どういうこと?」
「女性はあらかじめ罪悪感や恥の感情を抱きやすい、じゃなくて、女性は罪悪感や恥の感情を抱きやすい生き方を太古の昔から強いられてきたってことなんじゃないかって。自己攻撃傾向も自罰的になりやすいってこともさ、家庭内で何か面倒なことになると女性に責任があるっていうことで話がすいすい通ってしまう社会全体の空気がそもそも問題なんじゃないの?って思ったんだ。アルコールや薬物耐性ってことではなるほど男性と比較すれば凄く差があって、たった四、五年とか早い人だと一、二年で生活が立ち行かなくなっちゃうってのは確かにあると思うよ見てて。まだ三十歳になったばかりなのに幻覚見て暴れる患者さんいるでしょ。犯罪歴なんてひとつもないし思春期に問題行動があったわけでもない女性で大学も出て結婚もして。でもこの結婚生活の内情というところが問題になってきてるんだけどね。家庭内暴力の凄まじさって地域の民生委員が家へ駆けつけた時すでにリビングの床が血の海ってよく聞くじゃん。けど特に女性ばかり自己攻撃衝動とか自罰感とか希死念慮に襲われるってのは持って生まれた体質より生まれ育った周囲の環境要因が随分大きいと思うよ。この傾向って世界でも明らかに極東アジア周辺地域で集中的に見られるわけでしょ?」
「そうみたいだけど」
チャは両親の祖国韓国のことが頭をよぎる。ソウル大や延世大では女子学生の集まりに武装した男子学生が殴り込んでリンチにかけるという事件がしばしば起こる。どさくさ紛れに連れ去られた女子学生が集団レイプに遭ってもなかなか声を上げることができない。被害学生の家族は家の恥だとして被害届を出さないし出したとしても警察がそれをまっとうに受け取ってくれるかどうかもわからない。多くの被害女性たちが今なお表に出ることなく沈黙を強いられ内向的になりますます自罰的な自己攻撃衝動に見舞われるという悪循環が繰り返されている。
「初瀬、女性に多い希死念慮とか自罰的内向性について亜美さんとかはどう思ってるのかな。聞いたことある?」
「そういう言葉は使わないけどね。亜美さん、お子さんと離れて暮らしてるんだけどお子さんは亜美さんに付いていきたかったらしい。それが離婚の時に別れた元夫が無理やり自分のほうへ引き取る形にさせられた。お子さんが四歳くらいの時に夫婦で夕食取った後に夫さんと一緒にお酒飲んだら夫さんが急に怒り出して子どもがまだ四歳だってのになんで子育て中の母親が女だてらに酒飲むんだっていきなり殴られたのが始まりだったみたいよ。へんてこな理屈だって頭ではわかるんだけど押さえ込まれちゃう、夫さんの言葉に。子育て中の大事な時期に母親が夫と一緒に酒飲んでお前馬鹿じゃねえのって言われるとなんだか急に自分のほうがとんでもない罪悪に手を染めたかのような気持ちで一杯になっていっぺんにへこんだって」
「表にぐいっと出せないと逆にますます自分の内面を自分で攻撃することになる、そういうことでいいのかな?」
「多分そういうことだと思うよ」
「でも初瀬はなんで結構確信ありげにそう言えるの?」
「あれ?チャはキロさんの担当なのに知らないの?」
「キロさんってあたしたちと同学年くらいのあのキロさん?」
「そう。あたし勤務は昼間だけどちょっと前に一度夜勤頼まれて病棟のベランダの出入口から入ってきたんだ。下の自動ドアはもう閉まってるし。階段を三階まで上がって一番端のドア開けて入ってくると消灯時間過ぎた病棟の廊下歩いて詰所まで来ることになるじゃん。そんときなかなか寝付けない患者さんばかり廊下のベンチでいろいろおしゃべりしててその前を通ってくるでしょ?早く通り過ぎようと思ってたら誰か忘れたけど声かけられて聞かれたの。何かに堰き止められて表に出せない本能はその壁にぶちあたって今度は逆に自分自身の内面を攻撃するようになるって本当なのかって。あたし返事に詰まっちゃってどう言ったらいいんだろうって困った。そんなこと聞かれたらどう答えるかってマニュアル見たことも聞いたこともないし。それがね、たまたまベンチで座ってたキロさんが言ったんだ。キロさんも鬱でなかなか眠れない患者さんのひとりだし。本能とか外へ出たがってるエネルギーが大きな壁で堰き止められたら逆流して自己破壊衝動や自殺企図へ変貌するってとっくの昔にニーチェが言ってますよって」
「ニーチェ?」
「らしいよ。読んだことないけど」
「けどキロさん男性だよ?女性患者の話してんのに何でわかるの?」
「そんなこと言ったら高木先生も安西先生も男性じゃん」
「言われてみれば―」
もっと女性医師が増えてほしいとチャは思う。精神医療に特化したソーシャルワーカーの国家資格制度もできたばかりでここにもそういう女性が来てくれればと思う。けれども一方今のままの家父長制社会の論理のもとで医師になった女性の場合は理解できそうにない話だろうとも思う。
「なに考えてんのチャ?」
「ん?そんなことがあったのかあって」
「そろそろカラオケ行かない?ふたりとも明日休みだし」
「そうだね。そろそろ気分変えよう」