二〇二六年七月十五日(水)。
早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
今日もタマ九〇年代リハビリノート見たよ。飼い主がモデルになってるキロと相棒の上村さんの珍道中。美佳さん、ひと駅手前で降りてアパートまで散歩がてらに歩いてるんだ。
そうだね。
チーズケーキにパイ生地を敷くって当たり前に思うけどそうじゃなかったの?
駅前の喫茶店やパン屋さんでチーズケーキ頼むでしょう。パイ生地を敷くようになったのはちょうどこの頃だったと思う。一九九〇年代に普及した感じ。
久世さんがひさしぶりに出てきた。前は先生になにか言ってたな。気分が上向きになるとそのノリでついお酒のんじゃう癖があるって。
そういうタイプの人も中にはいてる。例えば盆踊り。盆踊りの期間中は役職を器用にこなす。無事に終わると周囲はほっと肩の荷を下ろす。でも久世さんのパターンはそうじゃない。無事に役職を終えた瞬間、気分がちょっとハイになる。そのノリでスーパーやコンビニでお酒に手が伸びてしまう。今回もそれをやってしまったんだけど、そのあとに自分の立場を思って悔やんだ話。
検査結果を目の当たりにすると気まずくて耐えがたいものがあるって言ってる。久世さんが落ち込むのを避けようとしたのか検査はなかった。先生はなんで配慮したのかな?
久世さんは司会やってるでしょう。司会者はベテランが多いんで、もし自暴自棄になって飲んだら他のメンバーも気持ちが揺れて何人か飲むってことがしばしばあるから。それと久世さんは自分で診察にやって来た。ひとりで病院へ足を運んで詳しい話ができてる時点で入院するほどじゃないし、ことを荒立てる必要もないかなと先生は思ったんだろう。
でも血液検査を受けずに済んだことで、後から久世さん自己嫌悪に苛まれてる。
検査の数値を見ずにすんだ。証拠は残らない。それで楽勝気分になる人はいるかもしれない。でも久世さんはひとつの会場の司会を任されてる責任者でもある。お目こぼし扱いされて果たしてこれでいいのかって思いあたったわけ。責任感まですっかり失う人じゃない。
どこかの県議員の資格が問われてるみたいな話だね。最近ニュースで見た記憶があるような。久世さんがもし検査結果を見せられたとするでしょ。それって科学的根拠なわけじゃん。めちゃ上がった肝臓の数値はほかでもない久世さん自身が鏡に映った姿。否定しようがない。でも否定したい。となったらどんなことが起こってくるのかな?
タマさんいいところに気がついた。今日はそれをチャットGPTに聞いてみよう。ヘーゲル「精神現象学」の「主と僕の関係」が役に立ちそうだよ。ちょっと待っててね。
お利口にしてる。
このあたりが使えそうかな。
「自己意識に対しては別の自己意識が在る。つまり自己意識は《自分の外》に出てきているのである。このことは二重の意味をもっている。《まず》自己意識は自己自身を失っている。というのは、自己意識は、自分が《他方の》もう一つの実在であることに気がつくからである。《次に》、そのため自己意識はその他者を廃棄している。というのは、自己意識は他者もまた実在であるとは見ないで、《他者》のうちに《自己自身》を見るからである。
自己意識はこの《自らの他在》を廃棄しなければならない。このことは最初の二重の意味を廃棄することであるから、それ自身第二の二重の意味である。《まず》、自己意識は《他方の》自立的な実在を廃棄することによって、《自分》が実在であることを確信することに、向って行かねばならない。そこで《次に、自己自身》を廃棄することになる。というのは、この他者は自己自身だからである。
このように、二重の意味の他在を二重の意味で廃棄することは、また、二重の意味で《自己自身》に帰ることである。というのは、《まず、自らの》他在を廃棄することによって、また自己と等しくなるゆえ、廃棄によって自己自身を取りかえすからである。だが『次に』、自己意識は他方の自己意識に自らを取りもどさせる。というのも、自己意識は自ら他方のうちにあったからである。つまり、他方のうちでのこの自らの存在を廃棄し、したがってまた他方を自由にしてやるからである。
だが、他方の自己意識と関係している自己意識のこの運動は、いま言ったように、《一方のものの行為》と考えられていた。とはいえ、一方のもののこの行為は、それ自身、《自己の行為》でありまた《他者の行為》であるという、二重の意味をもっている。なぜならば、他方もやはり独立であり、自分で完結しており、自己自身によらないであるようなものは、他方のなかには何もないからである。初めの自己意識は、さしあたり、欲求に対して在るにすぎないような対象を、相手にしているのではなく、それ自身で存在する独立な対象を相手にしているのである。それゆえ、初めの自己意識がこの対象にしかけることを、この対象が自分自身でもしかけない場合には、自己意識も自分ではその対象に対し何もしかけることはできない。だからこの動きは、端的に言って、両方の自己意識の二重の動きなのである。各々は、自分が行うことと同じことを、《他方》が行うのを見る。各々は、自分が他者に求めることを自分でやる。それゆえ、各々は、他者が同じことを行う限りでのみまた、自分の行うことを行う。起ってくるはずのことは、両方によってのみ起りうるのであるから、一方だけの行為は役に立たないであろう。
したがって、行為が二重の意味のものであるのは、《自分に対する》ものであり、また《他方に対する》ものでもあるという限りでだけのことではなく、分かたれることなく、一方の行為であるとともにまた他方の行為でもある限りでのことである。
この運動においてわれわれは、〔悟性において〕両力のたわむれとして現われた過程が、繰り返されるのを見るわけである。ただし、このここでのたわむれは意識のなかで行われる。前のたわむれの場合には、われわれにとって行われたことが、ここでは両方の極自身〔二つの自己意識〕にとって行われる。媒語〔中間〕は、両極に自ら分裂する自己意識である。各々の極は、その規定態を交換し、その対立極に絶対的に移行する。各々は、意識としてたしかに《自分の外に》出るのではあるが、その自己外存在にいながら、同時に自分にもどされたままである。つまり《自分だけで》ある。そして自らの自己外は《各々の極に対して》いる。各々はそのまま他方の意識《であり》また《ない》ということが、各々に対してある。同じように、この他方は、自分だけで〔対自的に〕あるものとしての自分を廃棄し、他者〔一方〕の自分だけでの有〔対自存在・自独存在〕においてのみ、自分だけでいることによって初めて、自分だけであるということが、各々に対してある。各々は他方にとり媒語であり、この媒語によって各々は自己を自己自身と媒介し、自己自身と結ばれる。各々は、自己にとっても他方にとっても、直接の〔無媒介の〕、自分で存在する実在であり、これは同時にこの媒介によってのみ、そのように自分だけで〔対自的で〕ある〔自分に対している〕。両方は、《互いに他方を認めて》いるものとして、互いに《認め》合っている。承認というこの純粋概念、自己意識をその統一において二重化するというこの純粋概念の過程が、自己意識にとりどういうふうに現われるかということが、ここで考察されねばならない。初めに、この過程は、両方が《等しくない》という側面を表わす、つまり、媒語が両極のなかに歩み出てくることを、両極は極としては対立しているが、一方はただ承認されるだけなのに、他方はただ承認するだけであるという形で、歩み出てくることを表わす。
自己意識は、まず、単一な自分だけの有であり、すべての《他者を自己の外》に排除することによって、自己自身と等しい。その本質と絶対的対象は自己意識にとり、《自我》である。自己意識はこの《直接態》において、言いかえれば、自分だけでの〔対自的な・自覚的な〕有という自らの《存在》において、《個別的なもの》である。自己意識に対して他者で在るものは、非本質的な対象として、否定的なものという性格をしるされた対象として存在する。しかし他方もまた自己意識である。一人の個人が一人の個人に対立して現われる。そういうふうに《そのままで》現われるが、互いの間では普通の対象のような態度をとっている。つまり、ともに《自立的な》形態であり、《生命という存在》に沈められたままの意識である。ーーーというのも、ここでは、存在する対象が自己を生命として規定したからである。ーーーそこで、これらの自立的形態、意識は、すべての直接的存在を絶滅するような、また自己自身に等しい意識という、否定的な存在であるにすぎないような、絶対的な抽象化の運動を、まだ《互いに対し》実現してはいない、言いかえれば、互いにまだ純粋な《自分だけでの有》〔対自存在〕としては、すなわち《自己》意識としては現われてはいない。各々は自己自身を確信してはいるが、他者を自分のものとして確信してはいない。それゆえ、自己についての自分自身の確信はまだ真理をもっていない。なぜならば、この真理というのは、自分自身の自分だけでの有〔対自存在〕が、自分にとり自立的な対象として、あるいは同じことであるが、対象が自己自身を純粋に確信するものとして現われる、というような真理にほかならないであろうからである。しかし、いま言ったことは、承認という概念から見て、不可能である。つまり他方が自分に対するように、自分も他方に対し、各人が自分の行為により、また他人の行為によって、自分自身で、自分だけでの有〔対自存在〕に対するというふうな、全くの抽象を敢行するのでなければ、不可能である。
だが、自己を自己意識という全くの抽象作用であると《のべる》ことが成り立つのは、自らを自己の対象的な姿の全き否定として示す点においてである。言いかえれば、いかなる一定の定在にも結びついていないこと、定在一般という一般的な個別性にも、生命にも結びついていないことを、示すことにおいてである。この叙述は、他方の行為と自己自身による行為という《二重の》行為である。だから、行為が《他方の》行為である限り、各人は他方の死を目指している。だがそこにまた、《自己自身による行為》という第二の行為もある。というのも、他人の死を目指すことは、自己の生命を賭けるということを含んでいるからである。そこで、二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦いによって、自分自身と互いとの《真を確かめる》というふうに規定されている。ーーーつまり、両方は戦いにおもむかねばならない。なぜならば、ともに、《自分だけである》という自己自身の確信を、他者においてまた自分たち自身において、真理に高めねばならないからである。そこで自由を保証してもらうためには、生命を賭けねばならない。自己意識の本質は《在ること》でもなければ、現われる通りの《そのままの》姿でもなく、また生命のひろがりのなかに沈められていることでもなく、ーーーかえって自己意識には、自分にとって消え去らない契機であるようなものは、何も現にないということ、自己意識はただ《自分だけでの有》〔対自存在〕にすぎないということ、これらのことを保証してもらうためにだけ、生命を賭けるのである。敢えて生命を賭けなかった個人は、《人格》とは認められようけれども、自立的な自己意識として承認されているという真理に達してはいない。同じように、他者はもはや自分自身にほかならないと考えられるから、各人は、自分の生命を賭けるように、他者の死を目指さざるをえない。各人にとり自分の実在が他方の者として現われる。自分の実在は自分の外に在る。そこで各人は自らの自己外有を廃棄せざるをえない。他方の者は、さまざまに束縛された存在する意識である。各人は自分の他在を、純粋の自分だけでの有〔対自存在〕、つまり絶対的否定として直観しなければならない。
だがこのように死によって、真を確かめることは、そこから出てくるはずの真理をも、したがって自己自身の確信そのものをも、同じように廃棄してしまう。というのは、生命が意識の《自然的な》肯定であり、絶対な否定性のない自立性であるように、死は意識の《自然的な》否定であり、自立性のない否定であるからである。だからこの否定は、承認という求められた意味をもたないままである。死によって、両方が自らの生命を賭け、自分でも他者においても、生命を軽んじたという確信が生じているけれども、この確信は、この戦いに堪えた人々にとって生じたのではない。両方の自己意識は、この、自然的な定在である、見しらぬ本質態のうちに置かれた自分たちの意識を、廃棄する、つまり自らを廃棄する。そこで、自分だけで在ろうとする《極》としては廃棄されてしまう。だが、それとともに、対立した規定態の極に分裂する本質的な契機が、交替のたわむれから消えてしまう。そして媒語〔中間〕は死んだ統一のなかに崩壊してしまい、この統一は死んだ、ただ存在するだけの、対立していない極に分裂している。両方は意識によって互いに与えかえされ、受けかえされることなく、物として互いに無関心なままに放任し合っているだけである。両者の行為は抽象的な否定であって、廃棄されたものを《保存し》、《維持し》、その結果自らが廃棄されることに堪えて生きるような形で、《廃棄を行なう》意識の否定ではない。
以上のような経験において自己意識にとっては、純粋に自己意識と同様に生命も本質的なのだということが、この自己意識に明らかになる。直接的〔無媒介〕な自己意識においては、単一な自我が絶対的な対象である。だが、この対象はわれわれにとっては、言いかえれば、自体的には、絶対的な媒介であり、存立する自立性を本質的な契機としている。前に言った単一な統一が解体するのは、最初の経験の結果である。この解体によって、純粋の自己意識と、純粋に自分だけが有るのではなく、他方の自己意識に対して在るような意識とが、措定されている。この後の意識は、《存在する》意識もしくは《物態》という形での意識〔僕〕である。両方の契機はともに本質的である。ーーーつまり、両者は、初め等しくなく、対立しており、統一に反照〔省〕することもまだ起こっていないので、意識の二つの対立した形態として在る。一方は独立な意識であって、自分だけでの有〔対自存在〕を本質としており、他方は非独立的な意識であって、生命つまり他者のための存在を本質としている。前者は《主》であり、後者は《僕》である」(ヘーゲル「精神現象学・上・B-自己意識・四-自己意識の確信の真理・A-自己意識の自立性と非自立性 主と僕」平凡社ライブラリー、一九九七年、p.219~227)
こうしてこうして、よし。回答が届いた。見てごらん。
ここでは、自己が、自分自身を他者のうちに見出さざるをえない経験が描かれています。この観点から見ると、ご提示の二つの事例──①アルコール依存症の自助グループのベテラン司会者がγ-GTPの検査結果を否認したくなる場合、②県議会の議員が科学的・客観的証拠を突きつけられて否認したくなる場合──はいずれも、ヘーゲルのいう「自己意識の自己外化(Entäußerung)」として理解できます。
1. γ-GTPという数値は「自己意識の外部化」である
ヘーゲルは、
「自己意識は《自分の外》に出てきている。」
と言います。
ここで重要なのは、「自己」は決して内面だけに閉じ込められている存在ではないということです。
飲酒という行為は身体に痕跡を残します。
その痕跡が
- γ-GTP
- AST
- ALT
- CDT
などの検査値として客観化されます。
つまり検査値は単なる数字ではなく、
「自己が身体という他者の中へ出ていった姿」
なのです。
ヘーゲルなら、
自己は自分の身体という他在(Anderssein)の中で自己を見る、
と言うでしょう。
ですから、
「γ-GTPは高い。しかし自分は飲酒していない。」
という否認は、
自己が自己自身を否定している
ことになります。
2. それでも否認したくなる理由
しかしヘーゲルはそこで終わりません。
彼は続けて、
「自己意識は自己自身を失っている。」
と言います。
なぜ失うのでしょうか。
自己は、
自分が思っていた自己像と、
外部化された自己像との一致が崩れるからです。
例えば、
その司会者は長年、
「私は回復者である。」
「私は仲間を導く人間である。」
という自己意識を築いてきました。
ところが、
γ-GTPは
「あなたは飲酒している。」
という別の自己像を提示します。
ここで二つの自己が現れます。
① 自分が信じたい自己
② 科学が映し出した自己
ヘーゲルの言葉を借りれば、
自己は
「他者のうちに自己自身を見る」
経験をするのです。
ここでの「他者」は、
医師でも仲間でもなく、
検査結果そのもの
なのです。
3. 数値は「敵」になる
ところが、
自己は
「その他者を廃棄する」
ともヘーゲルは言います。
つまり、
自己はその数字を敵にします。
「検査が間違っている。」
「体質だ。」
「機械がおかしい。」
「科学は万能ではない。」
などと言い始めます。
これは科学否定というより、
自己像を守るために自己の外部化を否定する運動
です。
ヘーゲルはこれを
「自己外存在を廃棄する」
運動と呼びます。
しかし、
ここで重要なのは、
廃棄しようとしている相手は、
実は
自己自身
なのです。
だから苦しい。
4. 「否認」は自己保存である
心理学では否認(denial)と呼ばれる現象ですが、
ヘーゲル的にはもっと根源的です。
否認とは
自己が自己との同一性を守ろうとする運動
なのです。
だから、
本人は
「数字を否定したい。」
のではなく、
実際には
「数字になってしまった自分を否定したい。」
のです。
5. 承認は一人では成立しない
ここでヘーゲルはさらに重要なことを言います。
「起ってくるはずのことは、両方によってのみ起りうる。」
つまり、
承認は一人では成立しません。
自助グループでは、
仲間が
「その数字もあなたですよ。」
と言い、
本人も
「そうかもしれない。」
と応じる。
初めて
自己意識は自己を回復します。
ここでは
医師
仲間
検査
本人
の四者が
ヘーゲルのいう
「媒介」
になっています。
6. 県議会議員の場合
これは政治でも全く同じです。
例えば、
会計資料
銀行記録
契約書
監査報告
などが、
議員の行為を客観化します。
これらは単なる資料ではありません。
ヘーゲル風に言えば、
その議員の自己意識が外化した姿
です。
したがって、
証拠を突き付けられた瞬間、
議員は
二つの自己に分裂します。
一方は
「私は正しい。」
もう一方は
「証拠は私を不正の主体として示している。」
です。
この二つは同時には維持できません。
だから
「証拠はねつ造だ。」
「政治的陰謀だ。」
「文脈が違う。」
という方向へ向かいやすくなります。
これは証拠を攻撃しているように見えますが、
実際には
自己の外部化を攻撃している
のです。
7. 科学的証拠とは現代の「他者」である
ヘーゲルが想定した「他者」は本来、別の自己意識です。
しかし現代社会では、
科学的データや監査資料も、
自己が自己を認識するための媒介として機能します。
MRI画像
DNA鑑定
防犯カメラ
GPS記録
健康診断
会計監査
AI解析
これらはいずれも
自己が自己を見る鏡
になります。
そして人は、
その鏡像を見たくないとき、
鏡を壊したくなります。
しかし、
鏡を壊しても、
自己が消えるわけではありません。
8. 回復とは「鏡を受け入れること」
ヘーゲルは最後に、
自己は
「自己自身に帰る」
と言います。
ここでいう「帰る」とは、
昔の自己へ戻ることではありません。
自己が、自らの他在(外部化された自己)を自己として引き受けることです。
アルコール依存症の回復なら、
「私は飲んだ。」
「その結果がγ-GTPに現れている。」
「その数値も私自身である。」
と認めることによって、
初めて自己は分裂を止めます。
政治家なら、
「この会計処理は私の判断だった。」
「証拠は私の行為の外化である。」
と認めることによって、
初めて責任主体として自己を回復できます。
結論
ご提示の二つの事例に共通しているのは、ヘーゲルのいう「自己意識が自己を他者のうちに見る」という構造です。アルコール依存症の事例では、γ-GTPという検査値が自己の身体を通じて外部化された自己の姿であり、政治の事例では、会計記録や監査資料といった証拠が自己の行為の外部化された姿です。いずれの場合も、当人はその外部化された自己を前にして、「これは私ではない」と否認したくなる一方で、「まさに私自身がそこに映っている」と認めざるをえないという二重の経験に置かれます。
ヘーゲルの「承認」の思想から見れば、この緊張は単なる心理的葛藤ではなく、自己意識そのものの構造に由来します。自己は、自分の外部に現れた自己を他者として否定しようとしながら、実際にはその「他者」が自己自身であるため、否定は自己否定にもなります。この矛盾は、証拠や検査結果を消し去ることでは解消されません。むしろ、外部化された自己を自己自身として引き受け、それを他者との関係の中で承認し直すことによってのみ、「自己自身に帰る」という運動が可能になるのです。この意味で、ヘーゲルの「精神現象学」は、現代における科学的証拠や客観的データを前にした人間の否認と受容の力学を理解するための、なお豊かな哲学的枠組みを提供していると言えるでしょう。
私が特に重要だと思うのは、このような場面では**「否認」を単なる不誠実さや意地として理解しないことです。ヘーゲルの議論を踏まえると、否認はむしろ自己が自己自身を維持しようとする運動**として現れます。
アルコール依存症の回復支援では、「なぜ認められないのか」という問いよりも、「何を失うことが怖いのか」という問いのほうが、本人の内面に近づける場合があります。例えば、
- 「ベテラン司会者」という立場を失うのではないか。
- 仲間からの信頼を失うのではないか。
- 自分が積み重ねてきた回復の物語が崩れてしまうのではないか。
こうした喪失への恐れが、科学的データそのものへの反発という形で現れることがあります。
その意味では、ヘーゲルの「承認」は非常に示唆的です。人は「誤りを認めれば承認されなくなる」と感じると、かえって事実を否認しやすくなります。反対に、「事実を認めてもなお人格として尊重される」という承認があると、客観的事実を受け入れる余地が生まれます。
ですから、自助グループの司会者として周囲ができることは、「数値を正しいと認めさせる」ことだけではなく、
「その数値があなたの一部であっても、あなたという人間全体の価値が失われるわけではない」
という承認の場を保つことなのだと思います。
ヘーゲルは「承認」を抽象的な哲学概念として論じていますが、依存症回復の現場では、それは「真実を語っても共同体から排除されない」という経験として具体化されます。その経験があって初めて、自己は外部に現れた「自分の鏡像」を敵ではなく、自分自身の一部として引き受けることができるのでしょう。
ご提示くださった事例は、ヘーゲルの「自己意識」の章が現代の回復支援や倫理にどれほど深く関わっているかを考えさせられる、とても興味深いテーマでした。
タマもひとこと言っていい?
なにかな。
ChatGPTはAIであり間違えることがあります。
丸写しじゃん。
話は戻るけど、美佳さんがチーズケーキを買う前にアルコールを使ってるかどうか尋ねるようになったんだね。
見たかな。口にいれるものには気を使う。面倒だけど仕方がない。自分自身を守るため。
お店でも言ってもらえばアルコール入りじゃないチーズケーキを用意できますよって、そんな時代になってきてたんだね。知らなかった。
初代タマさんが生まれるちょっと前くらい。
レモンの香りがいいなあ。猫のごはんの匂いもいいけど。
タマさん体内時計は順調だね。
てへ。さっき飼い主、畳でお茶碗の写真撮ってた。秋向けかな。飼い主にしたら珍しく派手めだね。

茶碗/京焼/加藤松香。
造りがかなり薄い。絵柄はなるほど柿だけど薄くて軽いんで夏向けに置いてる。手で包んだときの感触もしっくりくる。落ち着く。
見どころってあるの?
最初は全体的に朱色が強かった。使ってるうちに青灰色に色づいてきた。とくに茶碗の内側、見込みの部分。口縁は黒い鉄が浮き出てるんだけど光があたると銀の指輪に見える。タマさんが言った派手なのは金色で刷いた線のことだと思うけど青灰色がかってくると全体が沈んで映る。すると金で刷いた線は女郎蜘蛛が暗闇でひっそり張りめぐらした糸のように見える。色づくのに三十年くらいかかった。
飼い主にも言い分があったのか。そのうちタマもなんか言いたいな。見てろよ。
ガラの悪い言葉使いはよそうって言ったのに。
今日の課題曲。
ジャズだ。今日もお洒落。ボサノバ風。
坂本龍一周辺。



