Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

2021-09-01から1ヶ月間の記事一覧

Blog21・婆娑羅的一騎討ちの中の漢籍

観応二年(一三五一年)、足利義詮(よしあきら)は桃井直常(ももいただつね)が越中から上洛したと知り一時退却するのが良策だと考える。 「義は宜(よろ)しきに順(したが)ふに如(し)かず」(「太平記4・第二十九巻・二・P.386」岩波文庫 二〇一…

Blog21・南朝=直義同盟成立

北畠親房は項羽と劉邦とによる漢楚合戦について縷々反復しつつ述べていく。こうある。 「項王(こうおう)、自ら義なくして天の罰を招く事、その罪一つにあらず」(「太平記4・第二十八巻・九・P.368」岩波文庫 二〇一五年) 「史記・高祖本紀」からの引…

Blog21・項羽と劉邦の弁証法

足利直義が吉野の後村上帝に上げた書状をめぐり二分した意見をまとめなければいけない立場にある北畠親房。漢と楚との長年に渡る合戦の故事が改めて反復される。 「沛公、項羽相共(あいとも)に、古(いにし)への楚王(そおう)の末に孫心(しん)と云ひし…

Blog21・引用と反復から剰余が生じる「太平記」

引用される箇所はまた反復されることが大変多い。 「足利又太郎(あしかがまたたろう)が治承(じしょう)に宇治川(うじがわ)を渡り」(「太平記4・第二十八巻・三・P.332」岩波文庫 二〇一五年) 「平家物語」から。 「下野(しもつけ)国の住人(ぢ…

Blog21・「太平記」後半の流行語「下剋上」

京都では合戦が盛んだが同時に歌舞音曲など芸能もまた盛んに行われていた。新座(しんざ)は南都・奈良の田楽、本座(ほんざ)は京・白川の田楽、という区別があった。その新座に「閑屋(しずや)」という名の田楽師の芸風の面白さが上げられている。 「新座…

Blog21・足利直義(ただよし)を煽る妙吉侍者(みょうきつじしゃ)

高師直(もろなお)・師泰(もろやす)兄弟に対する讒言。足利直義(ただよし)に告げようと妙吉侍者(みょうきつじしゃ)が出してきた例は秦の高級官僚だった趙高(ちょうこう)のエピソード。 「始皇帝、自ら詔(みことのり)を遺(のこ)して、御位(みく…

Blog21・始皇帝と蓬萊山

高師直(もろなお)・師泰(もろやす)兄弟に対する讒言は上杉重能(うえすぎしげよし)と畠山直宗(はたけやまただむね)ばかりが率先して勧めたわけではない。その一人が、天竜寺開山の任務につき一躍有名となった夢窓疎石の同僚だった妙吉侍者(みょうき…

Blog21・引き出しで充満する「太平記」

高師直(もろなお)・師泰(もろやす)兄弟に対する上杉重能(うえすぎしげよし)・畠山直宗(はたけやまただむね)両人の嫉妬に満ちた関係は険悪になっていくばかり。ここではその逆のケース・「刎頸(ふんけい)の交わり」の故事が引用される。 「この玉、…

Blog21・「夜光(やこう)の壁(へき)」への導入部

吉野の賀名生(あのう)に作られた仮宮の様子。次の比喩が用いられている。 「虞舜(ぐしゅん)、唐堯(とうぎょう)の古(いにし)へ、茅茨(ぼうし)斬(き)らず、柴椽(さいてん)削らざりし淳素(じゅんそ)の風」(「太平記4・第二十七巻・一・P.24…

Blog21・吉野炎上

次の文章。 「稲麻(とうま)の如くに打ち囲んだり」(「太平記4・第二十六巻・七・P.214」岩波文庫 二〇一五年) 見覚えがあると思う。京中に足利勢が充満していた時の文面はこうだった。 「稲麻竹葦(とうまちくい)の如く打ち囲みたる大勢(おおぜい…

Blog21・吉野金峯山寺炎上前夜

恩賞が与えられる場面。なかでも奇怪なのは「剣」。次のように形容される。 「周(しゅう)の代に宝鼎(ほうてい)を掘り出だし」(「太平記4・第二十六巻・四・P.194」岩波文庫 二〇一五年) 「史記・五帝本紀」から引かれたエピソード。 「官名は、黄…

Blog21・「太平記」後半が問う最下層階級とその実力

康永一年(一三四二年)四月、脇屋義助は伊予に到着。盛大な歓迎を受ける。だが翌月の五月には発病、七日後に死去。四国にいた南朝方はいきなりどん底に叩き落とされたような衝撃を受けてしょんぼり。「太平記」はこう語る。 「宮方(みやがた)の大将軍にて…

Blog21・連戦の《あいだ》の静寂

漢籍からの引用が多いのは最初からだが、「太平記」では後醍醐帝亡き後、とりわけ次の箇所は兵法に関する引用で埋め尽くされている。 「それ教へざる民を以て戦はしむ、これ、これを棄つ」(「太平記4・第二十三巻・五・P.49」岩波文庫 二〇一五年) 「論…

Blog21・「太平記」と噂の疾走

「太平記」では馬を褒める言葉の中に「項羽(こうう)が騅(すい)」とある。 「項羽(こうう)が騅(すい)にも劣らぬ俊足(しゅんそく)」(「太平記4・第二十三巻・三・P.44」岩波文庫 二〇一五年) 「史記・項羽本紀」から。劉邦の大群に包囲された項…

Blog21・高師直/血と花の管弦

暦応二年(一三三九年)、八宮(はちのみや)義良(のりよし)親王が吉野で即位。御村上(ごむらかみ)帝となる。だがまだ幼少のため実質的に政務をとりしきったのは北畠親房(きたばたけちかふさ)・洞院実世(とういんさねよ)・四条隆資(しじょうたかす…

Blog21・アジテーション〔檄文〕としての吉水法印宗信(よしみずのほういんそうしん)

後醍醐帝の遺体は吉野の金峯山寺蔵王堂(ざおうどう)付近に築かれた円丘に葬られた。随行してきた人々の様子はこう描かれている。 「土墳(どふん)数尺(すしゃく)の草に一径(いっけい)涙尽(つ)くるとも、愁(うれ)へ未だ尽きず」(「太平記3・第二…

Blog21・「太平記」折り返し地点に出現する「今昔物語」的エピソード

自害した新田義貞の首は京へ運ばれ獄門にかけられた。大勢の車馬、老若男女が足を止めて義貞の身の不運を嘆いた。その中に義貞の妻・匂当内侍(こうとうのないし)の姿があった。もっとも、匂当内侍が実在した証拠はない。「太平記」の中では義貞の寵愛を一…

Blog21・イデオロギーとしての「犬死(いぬじに)」

蜀の劉備が諸葛孔明を招くに当たって述べたとする言葉が「太平記」の中に出てくる。 「残(ざん)に勝つて殺を捨てん事、如何(いかん)がそれ百年を待たん」(「太平記3・第二十巻・八・P.370」岩波文庫 二〇一五年) もともとは「論語・子路篇」に見え…

Blog21・新田方と延暦寺との檄文同盟

新田方から延暦寺へ送られた同盟への書状。続いてこうある。 「牖里(ゆうり)の囚(とら)はれに遭(あ)ひ」(「太平記3・第二十巻・四・P.355」岩波文庫 二〇一五年) 殷の紂王(ちゅうおう)が周の文王(西伯)を囚(とら)えて獄入りさせた事件を引…

Blog21・南北朝期のアジテーション成立の背景

檄文になるとやおら奈良時代初期から平安時代初期にかけて大いに輸入された漢籍に載るステレオタイプな引用が連発される傾向について述べた。檄文。アジテーションである。日本ではすでに南北朝期頃までには非常に形式性の高いアジテーション様式が成立して…

Blog21・「太平記」作者の不在

建武二年(一三三五年)、北条高時の次男・時行(ときゆき)は「中先代(なかせんだい)の乱」を起こし北条家はまだ滅亡していないことを世間にアピールしたが敗北。諸国を転々と流浪・潜伏していた。ところが金ヶ崎城落城後も新田義貞・脇屋義助の軍が越前…

Blog21・様々なる臣下

足利尊氏が征夷大将軍になると足利方に立って戦った武士らはみんな一段と高い位を狙い論功行賞を待った。その様子。 「象外(しょうがい)の撰に当たり、俗骨(ぞっこつ)忽(たちま)ちに蓬莱(ほうらい)の雲を踏み、或いは乱階(らんかい)の賞によつて庸…

Blog21・宮家と武家/夢窓疎石のダブルバインド

一宮(いちのみや)尊良親王の自害というより、一宮の恋愛譚はなぜこのようにドラマティックに描き立てられたのか。 「昔、漢(かん)の李夫人(りふじん)、甘泉殿(かんせんでん)の病(やまい)の床(とこ)に臥(ふ)してはかなくなりたりしを、漢の武帝…

Blog21・金ヶ崎城落城

十月も二十日を過ぎれば越前の寒さは身に沁みるようになる。北国落ちしていく新田勢の中には凍死者も出はじめた。一宮(いちのみや)尊良親王を含む一行は旅の疲れをねぎらおうと金ヶ崎(かねがさき)の海上で管弦の宴を催す。金ヶ崎は今の福井県敦賀市。す…

Blog21・「太平記」引用箇所とその脱中心的重層性

一方で比叡山に集結した後醍醐方が兵糧攻めに合う形となり、もう一方でそれを見た足利尊氏は後醍醐帝に京へ還幸することを勧める。せっかく集まった後醍醐方だったが山の上で籠城しているうちに二十万人の兵士のみならず貴族公卿らとその家族さえ食っていけ…

Blog21・精神を改造する言語の系列

尊氏を罵る延暦寺の文書はこう続く。 「朝錯(ちょうそ)を仮(か)つて逆謀(ぎゃくぼう)を挙ぐ、劉濞(りゅうび)が亡ずる所なり」(「太平記3・第十七巻・八・P.146」岩波文庫 二〇一五年) 「史記・呉王濞列伝」から二箇所引用されている。 (2)…

Blog21・檄文化する「太平記」

兵庫生田(いくた)付近の戦いで足利勢と新田勢が衝突。とはいえ楠正成討死の衝撃は大きく新田勢はいったん京へ落ちていく。その時新田義貞が着ていた鎧(よろい)にこうある。 「薄金(うすがね)と云ふ累代(るいだい)の甲(よろい)」(「太平記3・第十…

Blog21・新田楠最後の会話

後醍醐帝勝利の功労者の一人だった赤松円心。だが円心だけがなぜか論功行賞とはほど遠い立場に追いやられた。中傷や讒言が飛び交った最中なのでそうなったのかもしれないが円心にすれば足利尊氏や楠正成とまではいかなくても名和長年と同等の取り扱いがあっ…

Blog21・多々良浜の足利尊氏

山門(比叡山)と三井寺との合戦になったところで「竜宮城」のエピソードが差し挟まれる。三井寺の鐘の由来が語られる形になる。そこで俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)が竜宮城に招かれる箇所。その景観。 「玉の甃(つみいし)暖(あたた)かにして、…

Blog21・反復される都落ち/都入り

竹ノ下、山崎、大渡、と勝利してきた足利軍の勢いをおそれた後醍醐軍は新田義貞・義介らが到着するのを待たず、京を出発し山門(比叡山)へ退去した。それを知った勅使河原(てしがわら)親子三人は足利方の捕虜になるよりはと、三条河原(さんじょうがわら…