2019-03-01から1ヶ月間の記事一覧
レイチェルはまたもや「ナイフ」を登場させる。めくるめく揺れ動く幻覚の中で、なのだが。しかし幻覚を見ているレイチェルにとって幻覚は確かな現実だ。そしてウルフは常に事物と事物の《あいだ》において小説家の実感としての真相を語ってはこなかっただろ…
レイチェルはテロリストに《なる》。ウルフはレイチェルに関して実に幅広い感受性を与えている。それはしかし、ヒューウェットがレイチェルに向かってこういうからではない。「きみはまるでぼくの脳みそを吹き飛ばしそうに見える」「もしも岩の上に立ってい…
「エリザベス」。懐かしい名だ。 「エリザベス女王の時代以降その川を見た者はほとんどなく、エリザベス朝の航海者が目にした景色を変えるようなことはその後何も起こらなかった。エリザベス朝から現在までの時間は、水がこの両岸の間を流れ始めた時からの年…
レイチェルにとって余りにも馬鹿馬鹿しいと考えるほかない礼拝が終わった。そして「高所に辿り着い」ている。彼女は「山上のキリスト」に《なる》。ただし、その一日を巡って罵りと反省の場所を得たというに過ぎないが。意識ははっきりしている。 「やがて彼…
次のセンテンスはよく見かける光景ではないだろうか。 「木立は美しく、大きく枝を広げ、そこに座って話をしている間中ヘレンは、木漏れ日のまだら模様や葉の形、白輪の大花が緑の中のあちこちに座している姿に目を向けていた。半ば無意識に見ていただけだっ…
レイチェルは歌にも《なる》。 「レイチェルはいま、心身全体が何とも説明できない歓び、たいていその原因がわからぬままに、あたりの土地全体、空全体をも包み込んでしまうような歓びに満たされ、何も見ずに歩いていた。夜が昼に侵入し、前の晩に演奏した曲…
ヒューウェットは反論しない。できないから反論しないわけではない。もともとの考え方が違うからだ。小説中の設定ではケンブリッジ大学を「二学期で退学」したあと、どこかはっきり説明はないが、ともかくしばらく旅行していたようだ。「放浪」とある。ヒュ…
ダロウェイ夫人の夫=リチャード・ダロウェイ。彼はイギリスの議員である。レイチェルの伯母(ヘレン)からねぎらいの言葉をかけられてこう答える。 「『この世の中で、自分が自分の身体の奴隷となっているのを知るときほど恥ずかしいことはない』」(ヴァー…
認識できるものなら何でも認識してきたしこれからも認識し続けていけるに違いないと錯覚しながら生きていくことはいつも「幸せ」なことなのだろうか。それとも「いつも」そうとは限らないのだろうか。もちろん「いつも」そうとは限らない。錯覚によってしか…
資本論序文から。 「起きるかもしれない誤解を避けるために一言しておこう。資本家や土地所有者の姿を私はけっしてばら色の光のなかには描いていない。しかし、ここで人が問題にされるのは、ただ、人が経済的諸範疇の人格化であり、一定の階級関係や利害関係…
個人的にはフェミニズムというものをどれほど理解しているかは定かでない。が、反差別の立場から、見るに見かねて述べておきたい。大学医学部入試女性差別問題について。といっても、いきなり引用から始める。 「ヨーロッパなどの外国の人たちの観察の方法と…
生産(メーカー)はいいけれど投機はいけない、などと言う資格がどこの誰にあるのだろうか。それ以前に、生産と投機(商人資本)とはそんなに違ったものなのか、と問う必要がある。 「たとえば、今日、市場経済の調整機能を讃美していた人たちは、それがうま…
右翼は万人によって求められることを自ら欲し、左翼は万人によって愛されることを自ら望む。かつても民を愚昧ならしめるためにマスコミが最も狭き宿命に緊縛されたことがあった。今や事実と技術とを特権階級の独占より奪い返すことはつねに日和見的なる民衆…
カントはいう。 「一般に観念論の主張するところはこうである、ーーー思考する存在者のほかには、いかなるものも存在しない、我々が直感において知覚すると信じている他の一切の物は、この思考する存在者のうちにある表象にすぎない、そしてこれらの表象には…
カントによる次の文章は、あらゆる物事について批判するばかりではなく、批判しつつ批判を「限界内に制限する」こととの両立を宣言している。 「三個の認識能力の批判は、これらの能力がそれぞれア・プリオリに成就し得るところのものについて行なわれるが、…
ちなみに言っておくと、マゾッホは今も俗世間で言われているような、「マゾヒズム的野獣」としての人間とは当然のように違っていた。簡単に例えるとすれば「啓蒙家」。とはいえマゾッホならではの特徴もある。ロシア・東欧に押し寄せる近代化の波を、より一…
生の各瞬間は一度きりだ。反復されることで細部は抹消され、反面観念的なイメージばかりが記憶に温存され、そしてほんの些細な部分であっても大事なことが瞬間的に記憶から脱落するということが起こってくる。重要なのは、「本質的に反復されないもの」=反…
たとえば「アル中患者」がよく口にする決まり文句がある。「これで最後の一杯だ」。しかしアル中患者にとって問題なのは、いったいどの一杯が本当に最後の一杯なのかということではない。その曖昧さが問題の核心なのではない。そうではなくて、「最後の一杯…
ヘーゲル弁証法による商品の対立的関係は、ただ二項対立的関係だけを説明するに過ぎない。それはまだ商品ではなく仮に「労働生産物」といいうる諸々の物同士の関係を二つに対立させて描き出すことに成功した、というに過ぎない。しかしマルクスは間違ってい…
なるほどそれは確かにいえることだ。というのはーーー。 「思考するということはひとつの能力の自然的な〔生まれつきの〕働きであること、この能力は良き本性〔自然〕と良き意志をもっていること、こうしたことは、《事実においては》理解しえないことである…
前回こう述べた。「だからヘーゲルはもう読まなくていいのか。そうではない」と。しかし以下の部分は道元の言語論から余りに離れ過ぎてしまっているきらいががあるため、ここでいったん節目を織り込もうとおもう。そして改めて続け直しておきたい。 だからヘ…
道元の言語論はすでに多くの人々のあいだで知られている。 「哀れむべきだ、彼らは念慮というのが語句であることを知らない、語句とは思惟を場としての句に移して伝えるものだ、語句はさらに思惟からも離脱することを知らないのだ、思惟を現成するのが語句で…
煩悩はまず何より言語という形を取って問いかけられる。そして煩悩に関する問いは即座にパラドクスに陥る。 「煩悩を断除すれば重ねて病(やまい)を増す。ーーー病を断ち除こうとするまさにその時、その智の作用は煩悩である。このように断除と煩悩とは同時…
道元は認識ということについて徹底的に考え抜いた仏教者の一人である。 「人の認識には障りがあることは明白である。一つの現象もそのままには認識することはない、物自体とは何も認識しえないものだと疑い惑っていてはならない。ーーー空は隠れもない、山も…
分割してよいもの《と》そうでないもの=或る時刻・或る一日・或る季節・或る一年・気候・風・霧ーーーという「一つの個体性」としての<此性>。ここでの問題は分割してはいけないもの、<此性>としての後者だ。道元はいう。 「山水とは山と水ではない、山…