Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

2021-10-01から1ヶ月間の記事一覧

Blog21・「太平記」が語る憂鬱/加速する未来なき諸個人

大内弘世(おおうちひろよ)は長く南朝方の武将として動いていた。その間、周防(すおう)・長門(ながと)へ軍事侵攻し両国(今の山口県)を制圧、意気揚々と武威を振りかざし偉人を気取っていた。ところがしかし何を思ったのか幕府方へ帰順する。この時期…

Blog21・「太平記」における「魯酒薄而邯鄲圍」

「大元軍(たいげんいくさ)」の条に語らせる「太平記」。 「相如(しょうじょ)が破壁(はへき)、風寒くして夜の衣短く」(「太平記6・第三十八・十二・P.128」岩波文庫 二〇一六年) 「史記・司馬相如列伝」からの引用。 「梁の孝王はかれを諸士たち…

Blog21・「太平記」に出現した「マナ」の交換

細川清氏(きようじ)が従弟(いとこ)の細川頼之(よりゆき)の陽動作戦に乗せられ自滅に至った経緯。「太平記」は「大元軍(たいげんいくさ)」の条を設け回想させ、両者の同一性を強調する。 「大器(たいき)は遅くなると云へり」(「太平記6・第三十八…

Blog21・「太平記」の充実と空虚な中心

細川相模守清氏(ほそかわさがみのかみきようじ)もまた佐々木道誉の計略に乗せられて南朝の後村上帝方へ寝返り復讐欲(劣等感・ルサンチマン)に燃える武将の一人。一方、清氏の従弟(いとこ)・細川右馬頭頼之(ほそかわうまのかみよりゆき)は足利義詮将…

Blog21・「太平記」は生き延びつつも加速しない

諸国(しょこく)宮方(みやかた)蜂起(ほうき)の条。山名時氏(やまなときうじ)・師氏(もろうじ)父子、足利直冬(ただふゆ)らが兵を挙げるがしばらくして敗退する。 「先んずる則(とき)は、人を制するに利あり」(「太平記6・第三十八・三・P.80…

Blog21・「太平記」が語る楊貴妃の周囲7

方士は玄宗と楊貴妃の二人だけが知る何らかの証拠を持たせて頂きたいと願い出る。 「しからずは、臣忽(たちま)ちに新垣平(しんえんぺい)が偽りを負うて、身鈇鉞(ふえつ)の罪に当たらん事を怖る」(「太平記6・第三十七・十・P.68」岩波文庫 二〇一…

Blog21・「太平記」が語る楊貴妃の周囲6

方士の前に現れた楊貴妃。侍女が付き従っている。 「左右の児侍(おもとびと)七、八人、皆金蓮(きんれん)を冠(かぶり)にし、鳳舄(ほうせき)を帯(たい)して相従ふ」(「太平記6・第三十七・十・P.67」岩波文庫 二〇一六年) 陳鴻「長恨歌伝」から…

Blog21・「太平記」が語る楊貴妃の周囲5

玄宗は楊貴妃のことが忘れられない。述懐が続く。 「春風桃李(しゅんぷうとうり)花の開く夜、秋雨(しゅうう)梧桐(ごとう)葉の落つる時、西宮南苑(せいきゅうなんえん)秋の草多く、宮葉(きゅうよう)階(はし)に満つれども、紅(くれない)掃(はら…

Blog21・「太平記」が語る楊貴妃の周囲4

安禄山の乱は制圧され長安の都に日常が戻ってきた。蜀に退去していた玄宗は長安へ戻る途中、楊貴妃殺害の現場となった馬嵬に至ると忘れられるはずもない昨年秋の風雲急が思わず込み上げてきた。 「馬嵬の道の辺(ほと)りに鳳輦(ほうれん)を留(とど)めら…

Blog21・「太平記」が語る楊貴妃の周囲3

殺害された楊国忠。しかし元はといえば玄宗が楊貴妃に耽溺して朝政さえ放置しだしたことがクーデタを勃発させた要因にある。だがこの場合、臣下たちは皇帝を他人と置き換えることはできない。とすれば楊貴妃を何とかしなければならない。 「后妃(こうひ)の…

Blog21・「太平記」が語る楊貴妃の周囲2

玄宗の寵愛を一身に集めた楊貴妃。その姨(しょうと=一族)はどんどん宮廷の高位高官に取り立てられていく。 「光彩(こうさい)の栄耀(えいよう)門戸(もんこ)に溢(あふ)れて、服用(ふくよう)は皆大長公主(だいちょうこうしゅ)に均しく、富貴(ふ…

Blog21・「太平記」が語る楊貴妃の周囲1

志賀寺上人(しがでらしょうにん)が住んだ「志賀寺(しがでら)」はそもそもどのような環境にあったのか。今の滋賀県大津市滋賀里にかつて存在した「崇福寺(すうふくじ)」を指し、もはや「崇福寺跡(すうふくじあと)」が残されているばかり。周囲は古代…

Blog21・「太平記」が上げる権力意志の諸様相

大将選出に当たって引き続き過去の事例が論じられる。平常時なら敵側から降参してきた有能な者を高位高官に登用することの利益があると述べられた上で、まだ世の中が落ち着いていない時期は必ずしもそうとばかりは限らないという認識に立って古代中国の歴史…

Blog21・「太平記」が参照する戦時中の軍指導者と戦後の軍指導者

異例の長期に渡る南北朝の動乱。軍の大将はどうあるべきかではなく、それ以前に、どのような大将を選んでおくべきかが問われる。 「管仲(かんちゅう)は、小伯(しょうはく)が寵人(ちょうじん)たりしかども、斉(せい)の桓公(かんこう)これを賞せられ…

Blog21・終わりの見えない「太平記」/不可避的闘争諸条件の乱立

一三六一年に今でいう南海トラフを中心に発生した「正平(康安)地震」に関する記述。「太平記」は軍記物語であり日記ではないが、巨大津波が阿波(徳島県)に押し寄せたことや大坂の四天王寺の金堂倒壊などについての言及がある。 「聖徳太子(しょうとくた…

Blog21・「太平記」の突出と引用箇所の強迫神経症的反復

三人の学者の一人はいう。 「埋もれ木の花開(さ)く春を知らぬやう」(「太平記5・第三十五・八・P.386」岩波文庫 二〇一六年) そもそも人材発掘・逸材登用の方法に問題があると。この箇所は七十歳後半になりようやく見出された源頼政(みなもとのより…

Blog21・王権崩壊の加速

楊貴妃に溺れきって破滅した玄宗皇帝の例。形容詞は前回と同じ。 「金鶏障(きんけいしょう)の際(きわ)」(「太平記5・第三十五・八・P.382」岩波文庫 二〇一六年) 白居易「胡旋女」からの引用。 「金雞障下 (書き下し)金鶏(きんけい)の障下(し…

Blog21・デジャ・ヴとしての「太平記」

北野天満宮に寄り合った三人の学者の議論は続く。 「如夢幻泡影(にょむげんほうよう)」(「太平記5・第三十五・八・P.378」岩波文庫 二〇一六年) 国政に携わる者が当然心得ているべき基本的認識として述べられた仏教用語。「金剛般若経」にある。「一…

Blog21・二つの帝王哲学

三人の学者の問答は続く。唐の太宗皇帝のエピソードが語られる。 「己れを責めて、天意(てんい)に叶(かな)ひ、民を撫(ぶ)して、地聖(ちせい)を顧(かえり)み給ふなり。則ち知りぬ、王者の憂楽は衆と同じかりけりと」(「太平記5・第三十五・八・P.…

Blog21・「太平記」に見る軍事行動神格化依存症

風一つ吹いていないにもかかわらず、或る時、住吉大社の大楠がぽきりと折れた。折しも「楠=楠正成」という語呂合わせに過ぎない言語的アナロジーが、とりわけ南朝方にすればもはや神格化されて久しい時期。どうしよう。慌てだした。 一方、源氏物語成立以前…

Blog21・「太平記」と「史記」の公開粛清

矢口(やぐち)の渡(わたり)については以前に述べた。一度目の新田義興暗殺に失敗した片沢右京亮。二度目に成功。無惨この上ない自害の描写が「矢口の渡」怨霊亡霊伝説を生んだ。ただ単に暗殺に成功したというだけで怨霊亡霊伝説は生まれない。《騙された…

Blog21・皇帝/ミスコン/斬殺

俗にいう「東寺(とうじ)合戦」の後、京の様相は次のようでもあった。 「朝餉(あさげ)の煙(けぶり)絶(た)えて後(のち)、首陽(しゅよう)に死する人多し」(「太平記5・第三十三・二・P.230」岩波文庫 二〇一六年) 「史記・伯夷列伝」からの引…

Blog21・「東寺(とうじ)合戦」と《健全な》矛盾

俗に「東寺(とうじ)合戦」という。南朝方が京の東寺に本陣を置いたことからそう呼ばれる。その陣営を「太平記」の記述に則ってみると「京より南、淀(よど)・鳥羽(とば)・赤井(あかい)・八幡(やわた)に到るまで」とある。一方、将軍方は「東山(ひ…

Blog21・「平家物語」と白居易の「神南(こうない)合戦」

後光厳帝が二度目の都落ち。ほぼ同時に足利直冬(ただふゆ)が入洛。ただ、直冬を総大将とした山名時氏(やまなときうじ)らの入洛について「太平記」では後光厳帝が近江へ落ちたのと「同じき年」となっているが、史実は翌年の文和四年(一三五五年)が正し…

Blog21・尊氏・直冬「親子対決」と二人の天皇

文和二年(一三五三年)、後光厳帝を奉じた足利義詮軍だったが、その夏頃から劣勢に陥り、近江へ退却。今の滋賀県大津市坂本付近へ一旦落ち、秋冬にかけてさらに東近江へ落ち延びた。坂本のすぐ北の堅田・真野・和邇(わに)の合戦で佐々木道誉の子・秀綱(…

Blog21・政治と「荒(すさ)び」との両立可能性

「太平記」の中で最もしつこく繰り返されるフレーズがある。 「会稽(かいけい)の恥を雪(すすぐ)」(「太平記5・第三十一巻・二・P.111」岩波文庫 二〇一六年) 越王匂践(こうせん)に二十年以上仕えた范蠡(はんれい)の言葉として有名。「史記・越…

Blog21・境界線上の賀名生(あのう)

北畠親房が始めから決めたように南朝と足利直義との和睦はほんの一時的な便宜上の謀略に過ぎない。ところが直義の死去は想定されていない事態だった。それはそれとして全国各地で武装蜂起は続く。距離の遠さにもかかわらず諸々の現場の側であればあるほど政…

Blog21・讒言を鵜呑みにして死んだ足利直義

足利義詮に関する藤原有範の讒言は淡々と続く。直義は黙って聞いている。しかし有範による讒言の元種は次のようにことごとく古代中国春秋時代の故事ばかり。 「周(しゅう)の文王(ぶんおう)、未だ西伯(せいはく)にておはしけるが、ひそかにこれを見て、…

Blog21・尊氏・直義・義詮、あっけない再会

足利尊氏、直義、義詮、それぞれの部下を率いて久々の再会。尊氏・義詮父子は尊氏の弟・直義と合戦した後だったため再会とはいえお互いかなり気まずい。家臣らもまた、ついさっきまで互いに殺し合っていた関係だけにぎくしゃくしている反面、和睦という点で…

Blog21・「太平記」/軍記物語の二重性

高師直・師泰兄弟が今さら出家してみても命が助かる可能性は万に一つもない。勘違いもはなはだしいと「太平記」は例を上げる。 「越後中太家光(えちごのちゅうたいえみつ)が、木曾義仲(きそよしなか)を諫(いさ)めかねて自害をしたりし振る舞ひ」(「太…