Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

Blog21・「太平記」の突出と引用箇所の強迫神経症的反復

三人の学者の一人はいう。

「埋もれ木の花開(さ)く春を知らぬやう」(「太平記5・第三十五・八・P.386」岩波文庫 二〇一六年)

そもそも人材発掘・逸材登用の方法に問題があると。この箇所は七十歳後半になりようやく見出された源頼政(みなもとのよりまさ)自害の際に詠んだという辞世の句が本歌。「平家物語・宮御最期」にこうある。

「埋木(ムモレギ)のはなさく事もなかりしに身のなるはてぞかなしかりける」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第四・宮御最期・P.247」岩波書店 一九九一年)

次に、仲の良かった土岐(とき)三兄弟がそれぞれの立場の違いから対立する二つの立場へ分裂する場面。

「浮世(うきよ)を秋の霜(しも)の下に朽(く)ちなん名こそ悲しけれ」(「太平記5・第三十六・一・P.408」岩波文庫 二〇一六年)

武士がいったん刀(秋の霜)を抜けば、その瞬間、抜いた者の立場は決まる。後戻りもやり直しも訂正も不可能。「和漢朗詠集」の一節を踏まえる。

「雄剣在腰 抜則秋霜三尺 雌黄自口 吟亦寒玉一声

(書き下し)雄剣(ゆうけん)腰(こし)に在(あ)り 抜けばすなはち秋の霜(しも)三尺(さんじゃく) 雌黄(しおう)口よりす 吟(ぎん)ずればまた寒玉(かんぎよく)一声(ひとこゑ)」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・将軍・六八六・源順・P.258」新潮社 一九八三年)

そしてまたもや何度も出てくるキャッチ・フレーズ。

「会稽(かいけい)の恥を雪(きよ)めたりし後(のち)」(「太平記5・第三十六・一・P.410」岩波文庫 二〇一六年)

やられたからやりかえすという単純な発想だけでなく、むしろ敗北したことが逆に次の戦闘へ向けた「大義名分」を出現させる根拠となる。その点で「太平記」のあちこちに出てくる軍事的報復行動のための「大義名分論」はずっとのちの明治維新から皇国史観成立に寄与し、さらに場所や思想信仰的条件が異なっているにもかかわらず、現代ではそっくりそのままアメリカの「9.11」テロの軍事的報復をどこまでも正当化する根拠を与えている。奇妙な一致と言わざるを得ない。「史記・越王句践世家」からの引用。

范蠡(はんれい)は越王句践(こうせん)に支えて、身を苦しめ力をあわせ、句践と深くはかること二十余年、ついに呉を滅ぼして会稽の恥を報い、北のかた兵を淮水に渡し、斉・晋に臨んで中国に号令し、周の王室を尊崇した。かくて句践は覇者となり、范蠡は上将軍と称して、国に帰還した」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.295』ちくま学芸文庫 一九九五年)

また次に、以後「禍根を残す」ような手法は避けるべきとする当然の発言。

「虎を養ひて自ら患(うれ)ひを招く風情(ふぜい)」(「太平記5・第三十六・一・P.411」岩波文庫 二〇一六年)

とはいうものの、その箇所も「史記項羽本紀」からの引用。

「漢は天下の大半を保有し、諸侯もみな漢に味方していますのに、楚は兵がつかれ糧食が尽き果てています。これは天が楚を滅ぼそうとするのです。この飢えに乗じて天下を取るのが上策と思います。いま放置して撃たないのは、いわゆる虎を養って自ら禍根をのこすものでしょう」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.229』ちくま学芸文庫 一九九五年)

しかし「太平記」は「源氏物語」と違って、のちに明治維新、日清日露戦争、太平洋戦争と、なぜ死と美とを結びつけることになったのか。軍記物語だからというだけでは理由にならない。というのは軍記物語なら他にも「保元物語」、「平治物語」、「義経記」、「平家物語」など、いろいろあるからである。「太平記」だけがどうして圧倒的存在感を放つことになったのだろう。次のよく似た二つのフレーズに注目したい。第一には楠正成(くすのきまさしげ)自害に際しての辞世。第二に塩谷高貞(えんやたかさだ)自害に際しての辞世。

(1)「七生(しちしょう)までも、ただ同じ人界同所(じんがいどうしょ)に託生(たくしょう)して、つひに朝敵をわが手に懸けて亡ぼさばやとこそ存じ候へ」(「太平記3・第十六巻・十・P.81」岩波文庫 二〇一五年)

(2)「師直(もろなお)に於ては、七生(しちしょう)までの敵となり、思ひ知らせんずるものを」(「太平記3・第二十一巻・八・P.462」岩波文庫 二〇一五年)

いずれも自害に際しての辞世だがヘーゲル弁証法による区別を用いれば明らかなように、(2)の塩谷高貞の側は個別的報復の誓いに過ぎないのに対し、(1)の楠正成の側は普遍的報復の意味で言われている。「朝敵」というたったひとことが普遍的に用いられる限りで、明治維新、日清日露戦争、太平洋戦争までも正当化されてしまうのである。だから「太平記」研究は言語研究と切り離して考えることはけっしてできないと言える。

BGM1

BGM2

BGM3