Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

Blog21・王権崩壊の加速

楊貴妃に溺れきって破滅した玄宗皇帝の例。形容詞は前回と同じ。

「金鶏障(きんけいしょう)の際(きわ)」(「太平記5・第三十五・八・P.382」岩波文庫 二〇一六年)

白居易「胡旋女」からの引用。

「金雞障下

(書き下し)金鶏(きんけい)の障下(しょうか)

(現代語訳)金鶏(きんけい)の屏風のもと」(「胡旋女」『白楽天詩選・上・P.137~139』岩波文庫 二〇一一年)

次は中国で古代から連綿と続く記録の伝統について。

「天子の傍らには、太史(たいし)の官とて、八人の臣下、長時(ちょうじ)の祗候(しこう)として、君の御(おん)振(ふ)る舞(ま)ひを善悪に就(つ)けて註(しる)し留(とど)め、官庫に収むる慣(なら)ひなり」(「太平記5・第三十五・八・P.383」岩波文庫 二〇一六年)

崔杼(さいちょ)は都合のわるい記録を記した一人の書記官を斬り殺した。するとその弟がまったく同じ記録を記した。崔杼は怒って弟も斬り殺した。ところが今度は末弟が出てきて三度目も同じ記録を記し残した。諦めた崔杼は記録の保存を許した事例。「史記・斉太公世家」・「春秋左氏伝」に詳しい。

「棠(とう)公(斉の棠邑の大夫)の妻は美貌であったが、棠公が死ぬと崔杼はこれをわがものとした。荘公はこれと密通し、しばしば崔氏のもとに行き、みだりに崔杼の冠を他人に与えたりした。侍者が、『それはいけませぬ』と諌めたが聴かなかった。崔杼は怒って、晋を討つのにかこつけ、晋と通諜して斉を襲撃しようと思ったが、まだ機会を得られなかった。かつて荘公は宦官の賈挙(かきょ)を笞刑(ちけい)に処した。その後も挙(きょ)は公のかたわらに侍し、崔杼のために公の隙をうかがって、恨みを報じようとした。五月、莒(きょ)の君が斉に入って、朝礼をおこなった。斉は甲戌(こうじゅつ)の日に莒君を饗応したが、崔杼は病いと称してこの事に関与しなかった。翌乙亥(いつがい)の日、公は崔杼の家に病気を見舞い、崔杼の妻を呼んだが、彼女は自室に入り、崔杼とともに戸を閉じて出なかった。公は彼女を呼び出そうと柱をかかえて歌をうたった。すると宦官の賈挙は公の従者をさえぎり、自分だけ入って門を閉じた。崔杼の部下が武器をとって中に現われた。公が台(うてな)の上に登って釈放を請うたが許さず、盟約を請うたが許さず、宗廟で自殺することを請うても許さず、みな口々に言った。『君の臣下の杼(ちょ)は病気のため、親しく君命を聴くことができぬ。この屋敷は、恐れおおくも公宮に近い。われわれ陪臣は、崔杼の命令で急いで淫乱の賊を取り押えようとしているのだ。それ以外の命令に従うわけにはゆかぬ』。公は土塀を乗り越えて逃げようとした。崔杼の一味の射た矢が、公の股に命中した。公は墜落して、ついに殺された。晏嬰が崔杼の家の門前に立って言った。『君が社稷(しゃしょく)のために死んだのであれば、わたしも死にましょう。社稷のために滅んだのであれば、わたしも滅びましょう。もしも自分のために死に、自分のために滅んだのであれば、身内のものでないかぎり、誰が君に殉じよう』。門が開かれた。晏嬰は中に入り、公の屍に枕をあてがって哭泣(こくきゅう)し、三たび踊(よう)の礼(哀痛のあまり踊る礼)をおこなって外に出た。ある人が崔杼に、『かならず彼を殺しなされ』と勧めたが、崔杼は、『民の輿望(よぼう)をになっておる人です。許しておいて、人心をつないでおきましょう』と言った。丁丑(ていちゅう)の日、崔杼は荘公の異母弟杵臼(しょきゅう)を立てた。これが景公である。その母は魯の叔孫宣伯(しゅくそんせんはく)の女(むすめ)であった。景公は位に即くと、崔杼を右相に、慶封(けいほう)を左相に任じた。内乱の勃発(ぼっぱつ)を恐れた両相は、国人に服従を誓わせ、『崔・慶に与(くみ)しないものは、これを殺す』と言い放った。晏子は天を仰ぎ、『わたしは何としても、ただ君に忠をつくし、社稷に利するものにだけ従うのである』とて、誓約しようとしなかった。慶封が晏子を殺そうとしたので、崔杼は、『忠臣です。ゆるしておやりなさい』と言った。斉の太史(史官)が、『崔杼、荘公を殺す』と記録した。崔杼は太史を殺した。すると、その弟がまたそのとおり記録した。崔杼はまたこれを殺した。その末弟がまた同じように記録すると、崔杼はこれを放任した」(「斉太公世家・第二」『史記3・世家・上・P.52~54』ちくま学芸文庫 一九九五年)

記録を残す伝統をこの場合も適応して「太平記」ではこう語られる。

「君王(くんおう)色を重んじて、寧王の夫人を奪ふ」(「太平記5・第三十五・八・P.385」岩波文庫 二〇一六年)

白居易長恨歌」を参照。

「漢皇重色思傾國

(書き下し)漢皇(かんこう) 色(いろ)を重(おも)んじて傾国(けいこく)を思(おも)う

(現代語訳)漢の帝(みかど)は女色を尊び、国を傾けるほどの美女を得たいと念じていた」(「長恨歌」『白楽天詩選・上・P.51~52』岩波文庫 二〇一一年)

次のフレーズは君主の側近とはいかなる態度を取るべきかという内容。

「国に諫(いさ)むる臣あれば、その国必ず安く、家に諫むる子あれば、その家必ず正し」(「太平記5・第三十五・八・P.386」岩波文庫 二〇一六年)

たとえ相手が君主であっても諌めるべき時には諌めるべきが側近の存在意義である。同じ言葉は「平家物語」にも出てくる。

「国に諫(イサム)る臣あれば、其国必(かならず)やすく、家に諫(イサム)る子あれば、其家必(かならず)ただし」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第二・烽火之沙汰・P.103」岩波書店 一九九一年)

君主ゆえに諌めるのを躊躇するのではなく、逆に君主であるにもかかわらず諌めるべき時は諌める。でないと国家ごと崩壊するという意味。

そこで懐かしい言葉を思い出す。現代社会の「加速主義」についてである。脱領土化に向かっても再領土化に向かっても同時により一層「繊細にやすりをかけるような仕方で進まなくてはないない」ことの重要性。

「非分節化すること、有機体であることをやめるとは、いったいどんなことか。それがどんなに単純で、われわれが毎日していることにすぎないかをどう言い表わせばよいだろう。慎重さ、処方量(ドーズ)のテクニックといったものが必要であり、オーバードーズは危険をともなう。ハンマーでめった打ちにするような仕方ではなく、繊細にやすりをかけるような仕方で進まなくてはならない。われわれは、死の欲動とはまったく異なった自己破壊を発明する。有機体を解体することは決して自殺することではなく、まさに一つのアレンジメントを想定する連結、回路、段階と閾、通路と強度の配分、領土と、測量士の仕方で測られた脱領土化というものに向けて、身体を開くことなのだ」(ドゥルーズ=ガタリ千のプラトー・上・P.327~328」河出文庫 二〇一〇年)

ただ一つの生活様式がすべてをゼリー状存在へ溶解させてしまう加速主義であるにもかかわらず資本主義は残るのではなく、加速すればするほど同時にもう一方で異種の枠組みを持った資本主義(社会主義的資本主義・労働組合活動の承認・公平主義的裁判制度の保護、種々の社会補償制度の設置など)が不意に出現して差異化されるがゆえに資本主義は残るのである。逆に言えば、そうすることでようやく資本主義は生き残ることができるし、実際、そうすることによってのみ生き残ることができた。絶対的君主の暴走を現実的に諌める臣下がいるため逆に資本主義はより狡猾に残っていく。ところがもし君主だけのための資本主義だったなら世界は脆くも崩壊する。そうでなければ、例えば臣下の諫言をまったく聞き入れず加速主義を徹底的に押し進めたトランプ政権のように、たった四年間でアメリカは取り返しのつかないほど無惨に壊れてしまった。なお、アメリカの加速主義者らが慌てて異種の枠組み(社会保障制度的な政治構造)の徹底的切り捨てへ暴走し自爆した要因になった事情は、中国が先に取り入れていた絶対主義的加速主義の恐るべき台頭である。必要なのは、もっと多様な枠組みについて議論できる場の創設から始め直す手続きであるに違いない。

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