「如夢幻泡影(にょむげんほうよう)」(「太平記5・第三十五・八・P.378」岩波文庫 二〇一六年)
国政に携わる者が当然心得ているべき基本的認識として述べられた仏教用語。「金剛般若経」にある。「一切有為法」は現象するすべての世界を指す。
「一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 應作如是観
(書き下し)一切の有為法は、夢・幻・泡・影の如く、また、電の如し。まさにかくの如き観を作すべし」(「金剛般若経」『般若心経・金剛般若経・P.126』岩波文庫 一九六〇年)
さらに漢籍から古公亶父(ここうたんぼ)のエピソードが引かれる。
「われ国を惜しく思ふも、人民を養はんためなり。われ、もしかれと戦はば、若干(そこばく)の人民を殺すべし。渡すべき地を惜しんで、育(やしな)ふべき民を失はん事、何の益かある。また、知らずや、隣国の戎ども、もしわれより政道好(よ)くは、これ、民の悦(よろこ)びたるべし。何ぞ強(あなが)ちに、われを以て主(あるじ)とせんや」(「太平記5・第三十五・八・P.381」岩波文庫 二〇一六年)
強引に戦って皆殺しにするかされるかどちらかというよりも、相手方が始めからこちらの民衆にとって善政を敷いてくれるというのなら、特に自分の一族がこの国の君主として居座っている必要はまったくない。問題は君主の利益ではなく民衆の利益なのだから、という古公亶父の政治哲学である。「史記・周本紀」の冒頭部分。
「古公亶父(ここうたんぼ)は、また后稷・公劉の業を修め、徳を積み義をおこなったので、国人がみな君として愛戴した。時に戎狄の薫育(葷粥・獯鬻などとも書かれのちの秦漢時代の匈奴<きょうど>と同種か)が侵入し、財物をかすめようとしたので、古公がこれを与えると、また侵入して、こんどは土地と人民を奪おうとした。民はみな怒って、戦おうとすると、古公は、『民が君を立てるのは、それで民の利益をはかろうがためである。いま戎狄が攻めて来るのは、わが土地と民を手に入れるためだが、戎狄でも民の利益をはかるなら、民がわが下(もと)にあるのと彼の下にあるのと、なんのちがいがあろう。それをわしのために民が戦うというなら、人の父子を殺して、われわれはどうして君になっておれよう』と言い、自分の一族と豳(ひん)を去って、漆・沮を譲り、梁山を越え、岐山の麓に止(とど)まった。すると豳人は国を挙げて、老人を扶(たす)け子供を携え、またことごとく古公を慕って岐山の麓にやって来た」(「周本紀・第四」『史記1・本紀・P.62』ちくま学芸文庫 一九九五年)
次に皇帝が直接政治を司った時代。国家の頂点で政治に携わる以上、皇帝は自分自身の性欲をどのように取り扱うべきか常に意識的でなくてはならないとする箇所。
「われもわれもと金翠(きんすい)を飾りしかども、天子、二度と御眸(おんまなじり)を廻(めぐ)らされず」(「太平記5・第三十五・八・P.382」岩波文庫 二〇一六年)
「金翠(きんすい)」という形容詞は白居易「太行路」から引かれている。
「爲君薰衣裳 君聞蘭麝不馨香 爲君盛容飾 君看金翠無顔色
(書き下し)君(きみ)がために衣裳(いしやう)を薰(くん)ずれば 君(きみ) 蘭麝(らんじや)を聞(き)いて馨香(けいかう)とせず。君がために容飾を盛(さか)んにすれば 君(きみ) 金翠(きんすい)を看(み)て顔色(がんしよく)なしとす。
(現代語訳)あなたのために衣裳に香をたきこめた。その蘭麝(らんじゃ)のにおいをかいでもあなたはいいにおいと思ってくれない。あなたのために化粧や飾りをこらした。その金やひすいを見てもあなたは見られたものではないという」(漢詩選10「太行路」『白居易・P.76~78』集英社 一九九六年)
そしてこうもある。
「養はれて深宮(しんきゅう)にあれば、人未だこれを知らず」(「太平記5・第三十五・八・P.382」岩波文庫 二〇一六年)
白居易「長恨歌」からの引用。
「養在深閨人未識
(書き下し)養(やしな)われて深閨(しんけい)に在(あ)り 人(ひと)未(いま)だ識(し)らず
(現代語訳)深窓に育てられてまだ誰も知らない」(「長恨歌」『白楽天詩選・上・P.51~52』岩波文庫 二〇一一年)
俗に「源氏物語」を始めとする日本の古典が白居易らの漢文学から絶大な教養を吸収していることは有名だが、その点について読み解く楽しみを日々の糧にしようとしても「白氏文集」ひとつ気軽に手に入らない。「書き下し・現代語訳」を付した文庫本が出版されていないため、大方の人々は社会人になれば学術機関と手を切らねばならなくなり、結果的に日本語の成立とその紆余曲折について考える機会さえ奪われてしまう。つまらない。ますます憂鬱になる。英米文学であってもフィッツジェラルドすらほとんどが初期の短編ばかり。逆にベケットはせっかくあっても文庫ではなく単行本で滅茶苦茶高額。モチベーションは歪み下がる一方。「源氏物語、平家物語、太平記」にしても原典を知らずにどうして「わかりやすい源氏物語」とか「要約・太平記」を信じて読むことができるのか。どこがどう改変されているのかわかったものではないというのに。
ところがしかし、まったくの事実歪曲を横行させてしまうこのような読書格差は、なるほど見た目だけはただ単なる偶然に過ぎないように見えてはいても、少なくともメイヤスーに従えば実際のところ必然的に出現した偶然にほかならない。
「私は存在それ自体の非存在を考えられないし、結果として、また同じく、否定的事実のみの偶然性を考えることもできないのだ。偶然性は(絶対的なものとして)思考可能であり、また、存在と非存在の二つの領野が存続しないことは思考不可能であるからして、存在しないこともありうるしかじかの存在者と、存在することもありうるしかじかの非存在者がつねにどちらもあることが必要なのだと言わねばならない。ゆえに解決は次のように言える。《無ではなく何かが存在することは必然的である、なぜなら、他のものでない何かが存在することは必然的に偶然的だからである》。存在者の偶然性の必然性は、偶然的存在者の必然的存在を強制するのである」(カンタン・メイヤスー「有限性の後で・第三章・P.128~129」人文書院 二〇一六年)
まったくの偶然は必然的に生じる。せめて「基礎」だけでも大切にしなくてはと思うばかりだ。
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