Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

Blog21・二つの帝王哲学

三人の学者の問答は続く。唐の太宗皇帝のエピソードが語られる。

「己れを責めて、天意(てんい)に叶(かな)ひ、民を撫(ぶ)して、地聖(ちせい)を顧(かえり)み給ふなり。則ち知りぬ、王者の憂楽は衆と同じかりけりと」(「太平記5・第三十五・八・P.362」岩波文庫 二〇一六年)

一度は民衆の生活条件と同じ立場に身を置いてみることが大事だと。白居易「賀雨詩」から。

「乃命罷進獻 乃命賑饑窮 宥死降五刑 責己三農 宮女出宣徽 厩馬減飛龍 ーーー乃知王者心 憂楽與衆同

(書き下し)すなはち命(めい)じて進獻(しんけん)を罷(や)め すなはち命(めい)じて饑窮(ききゆう)を賑(にぎは)し、死(し)を宥(ゆる)して五刑(ごけい)を降(くだ)し、己(おのれ)を責(せ)めて三農(さんのう)を寛(ゆる)くす。宮女(きゅうじょ)は宣徽(せんき)より出(いだ)し、厩馬(きうば)は飛龍(ひりよう)を減(げん)ず。ーーーすなはち知(し)る王者(わうじや)の心(こころ)、憂楽(いうらく) 衆(しゆう)と同(おな)じくすることを。

(現代語訳)皇帝はそこで命じて地方の献上をやめ、また飢えたものや困窮者をたすけ、死刑をやめその他の刑罰を軽くし、自己の罪だと農民の税を軽減された。宣徽院(せんきいん)にいる宮女たちを実家にかえし、ご用の馬もすくなくされた。ーーーそこでわかったことは帝王の心は、うれいも楽しみも人民といっしょだということだ」(漢詩選10「賀雨詩」『白居易・P.65~69』集英社 一九九六年)

さらにちょっとしたキャッチ・コピーのような文章が引かれる。

「君子その室に居(きょ)し、その言(ことば)を出だす事善(ぜん)なる則(とき)は、千里の外皆(みな)これに応ず」(「太平記5・第三十五・八・P.367」岩波文庫 二〇一六年)

孔子が言ったとされる引用箇所。「易経」に載る。

「子曰、君子居其室出其言。善則千里之外應之。

(書き下し)子曰く、君子その室に居りてその言を出だす。善ければ千里の外もこれに応ず。

(現代語訳)孔子は次のように言う。君子がじぶんの部屋に居てことばを出した場合、もしそのことばが善ければ、千里の外にある人もこれに感応する」(「易経・下・周易繫辞上伝・P.226~230」岩波文庫 一九六九年)

次のエピソードはこれまでに何度か出てきたもの。

「周(しゅう)の文王(ぶんおう)の時、一国の民畔(くろ)を譲りしも、文王一人(いちにん)の徳、諸国に及びしゆえ、万人皆(みな)やさしき心になりしなり。畔を譲ると云ふは、わが田の堺(さかい)をば、人の方(かた)へは譲り与ふれども、仮にも人の地を掠(かす)め取る事はなかりけり。今程の人の心には違ひたり。仮にも人の物をば掠め取るとも、わが物をを人に遣(や)る事あるべからず。その比(ころ)、他国より、訴訟のためにこの周(しゅう)の国を通るとて、この在様(ありさま)を道の畔(ほとり)に見て、わが欲の深き事を恥ぢて、道より帰りけり」(「太平記5・第三十五・八・P.367~368」岩波文庫 二〇一六年)

西伯の名とともに有名。「史記・周本紀」から。

「虞(ぐ)・芮(ぜい)<ともに山西・河東にあった国>二国の国人に争訴があり、是非が決しなかった。西伯に訴えるため周に行ったところ、周の国境を入ると、田を耕す者はみな畔(あぜ)を譲り合い、民の風習はみな長者に譲り合っていた。虞・芮の人は、まだ西伯に会わないのに自ら恥じ、たがいに、『われわれの争うところは、周人の恥とするところである。どうして訴えにゆくことができよう。ゆけば、ただ恥をかくだけである』と言い、ついに帰って共に譲りあった」(「周本紀・第四」『史記1・本紀・P.64』ちくま学芸文庫 一九九五年)

次の箇所も何度か見ている。文章は他の箇所と少しばかり違っていても指している故事は同じ。

「一度(ひとたび)食するに士来たれば、終らざるに急ぎこれを聞き、一度髪(かみ)梳(けず)るにも士来たれば、終らざるに先(ま)づこれに遇(あ)ふ」(「太平記5・第三十五・八・P.370」岩波文庫 二〇一六年)

史記・魯周公世家」から。

「わしは一沐(もく)の洗髪の間にも三度髪を握って立ち、一飯の食事の間にも三度口中の食べ物を吐き出して立ち、強いて天下の士に会おうとするのは、天下の賢人を見失うことを恐れるからである」(「魯周公世家・第三」『史記3・世家・上・P.69』ちくま学芸文庫 一九九五年)

要するに帝王自身の政治哲学が語られている。ところが政治の現場について現代ではまったく異なった条件のもとにある。ニーチェはいう。

「《苦しんでいる者に対する支配》が彼の王国である。この支配は彼の本能が彼に命ずるところであり、この支配のうちに彼の最も独自な技倆、彼の卓絶した手並み、彼一流の幸福が示されている。彼自らがまず病気にならなければならず、病人や廃人とすっかり縁者にならなければならない。それで初めて病人や廃人を理解することーーー彼らと理解し合うことができるのだ。しかも一方、彼はまた強くもなければならず、他人に対してより以上に自分に対して支配者でなければならず、わけても不死身の権力意志をもっていなければならない。それで初めて病人どもから信頼され畏怖されることができ、病人どもの足場となり、防障となり、支柱となり、強圧となり、典獄となり、暴君となり、神となることができる」(ニーチェ道徳の系譜・P.159」岩波文庫 一九四〇年)

例えば今の日本の与党。「与党」という言葉は同じでも実際は「連立与党」である場合、次のように違ってくる。

「彼が医者となるためには、まず傷つけてかからなくてはならない。そこで彼は傷の痛みを鎮めながら、《同時に傷口に毒を塗るのだ》ーーーこの魔法使い、この猛獣使い、彼はわけてもこのことに熟達しているのだ。彼の傍にいると、すべての健康者は必ず病気になり、すべての病人は必ず温順になる」(ニーチェ道徳の系譜・P.160」岩波文庫 一九四〇年)

共に強引な政治政策を押し切った同類であるにもかかわらず、一方、ほとぼりが冷めてくれば他の誰でもない自分たちが押し進めた結果浮上してきた悲惨な実状について、上に立ったままおもむろに「さあ、助けてあげましょう」と手を差し延べるようなものだ。悲惨な結果を招くことがわかりきっている生活諸条件をわざと維持させておく一方、必然的に悲惨な生活環境に陥るべくして陥った人々に向けて《事後的に》恩恵を施す。そしてさらなる「連立与党依存症者」の群れを発生させていく。見え見えの陰湿政治にはもう飽きた。

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