「后妃(こうひ)の徳違(たが)はば、四海(しかい)の静まる期(ご)あるべからず。褒姒(ほうじ)周(しゅう)の代(よ)を乱り、西施(せいし)呉国(ごこく)を傾(かたぶ)けし」(「太平記6・第三十七・十・P.60」岩波文庫 二〇一六年)
春秋戦国時代、国家が傾くほど国王を虜にした「褒姒・西施」が特に先例として上げられる。前提として当時、どのような女性が君主の妻としてふさわしいかが「后妃(こうひ)の徳」という言葉に込められている。政治的最高指導者の妻がまさか土地取引・公的人事権に現(うつつ)を抜かしていたりするなど言語道断。「詩経・関雎(かんしょ)」にこうある。
「関関雎鳩 在河之洲 窈窕淑女 君子好逑
(書き下し)関関(かんかん)たる雎鳩(しょきゅう)は 河(かわ)の洲(す)に在(あ)り 窈窕(ようちょう)たる淑(よ)き女(むすめ)は 君子(くんし)の好(よ)き逑(つれあい)
(現代語訳)かあかあと鳴くみさごの鳥は、川の中州(なかす)にいる。〔そのように〕ものしずかなよい娘は、立派な方のよいつれあい」(「周南・関雎」『中國詩人選集2・詩経国風・上・P.29~39』岩波書店 一九五八年)
さらに「論語」の中で孔子はいう。
「子曰、関雎楽而不淫、哀而不傷
(書き下し)子曰わく、関雎(かんしょ)は楽しみて淫(いん)せず、哀(かな)しみて傷(やぶ)らず。
(現代語訳)先生がいわれた。『関雎(かんしょ)は、楽しみながら楽しみにおぼれず。哀しみながら哀しさにくじけないという曲だね』」(「論語・第二巻・第三・八佾篇・二〇・P.78」中公文庫 一九七三年)
周の褒姒(ほうじ)の例は何度か触れた。「史記・周本紀」に載る故事を踏まえる。この時は褒姒を寵愛した幽王自身も殺されている。
「褒姒はなかなか笑わなかった。幽王はなんとか笑わそうと、いろいろやってみたが、ことさらに笑わなかった。幽王は烽燧(ほうすい=のろし。昼は烽を燃やして火煙を望み、夜は燧を挙げて火光を望む)と太鼓をつくり、寇(あだ)が侵入して来た時、烽火(のろし)を挙げて合図としていた。ある時、たわむれに烽火を挙げると諸侯はみな駆けつけて来たが、来ても寇はなかった。これを見て褒姒ははじめて大いに笑った。幽王は褒姒をよろこばそうと、その後たびたび烽火を挙げた。諸侯は集まっても寇がいないので、だんだん信じないようになり、烽火のために集まる諸侯がしだいに少なくなった。幽王が虢石父(かくせきほ)を卿として政治をやらすと、国人はみな恨んだ。石父は人となりが佞巧(ねいこう)で、よくへつらい利を好む人物だったからである。王が申后を廃し太子を去ると、申候が怒って繒(そう=国名。禹の後という)や西戎・犬戎とともに幽王を攻めた。幽王は烽火を挙げて兵を集めたが誰も来なかった。申候らは、幽王を驪山(りさん=陝西・臨潼)の麓で殺し、褒姒を虜(とりこ)とし、周の財宝をみな奪った」(「周本紀・第四」『史記1・本紀・P.85~86』ちくま学芸文庫 一九九五年)
次に呉の西施(せいし)の例。呉王夫差(ふさ)は破滅し越に殺されたことは有名であり、越王匂践(こうせん)が范蠡の策謀を採用して呉王に大量の美女と財宝類を献上したこともまた「史記」に載っている。
(1)「句践は種を呉にやって、ひそかに美女と宝物を太宰嚭に献上させた」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.284』ちくま学芸文庫 一九九五年)
(2)「いま呉の兵は斉・晋を侵し、恨みは楚・越に深く、名声は天下に高いが、その実、周の王室を害しております。徳が少ないのに、功が多いので、かならず荒淫にふけり驕慢(きょうまん)になりましょう」(「越王句践世家・第十一」『史記3・世家・上・P.286』ちくま学芸文庫 一九九五年)
だが呉王に献上された女性たちの中に西施(せいし)という名前の美女がいたという記述は「史記」にない。ロマン主義的ストーリー性の高い「蒙求」系の説話に見える名前。李白や王維が詩の中で登場させているが、いずれも美女の代名詞的色彩が濃い。しかしこの種の故事は長く命脈を保ち、江戸時代の松尾芭蕉も句の中に引用している。
「象潟(きさがた)や雨に西施(せいし)が合歓(ねぶ)の花」(新潮日本古典集成「芭蕉句集・五三四・P.193」新潮社 一九八二年)
芭蕉は蘇東坡の詩をモチーフとしている。蘇東坡は「西湖(せいこ)」の美しさを伝説的美女「西施(せいし)」に喩えた。
「水光瀲灔晴方好 山色空濛雨亦奇 欲把西湖比西子 淡粧濃抹摠相宜
(書き下し)水光(すいこう) 瀲灔(れんえん)として 晴(は)れて方(まさ)に好(よ)し 山色(さんしょく) 空濛(くうもう)として雨(あめ)も亦(また)奇(き)なり 西湖(せいこ)を把(と)って西子(せいし)に比(ひ)せんと欲(ほっ)すれば 淡粧(たんしょう) 濃抹(のうまつ) 総(すべ)て相宜(あいよろ)し
(現代語訳)水をたたえてひろがる湖のさざ波に朝の太陽がきらきら光る、(西湖は)晴れてこそ美しい。たたなわる山垣(やまがき)がくれがたのそぼふる雨にけぶってほのかに浮かぶ、これまたひときわ魅せられるながめ。西湖をそのかみゆかりの西施(せいし)にたとえてみようなら、あわい化粧、念入りな化粧、どんなときにも風情(ふぜい)がある」(「蘇東坡詩選・飲湖上初晴後雨二首・P.110~111」岩波文庫 一九七五年)
次に臣下らは楊貴妃殺害を許すよう玄宗に申し出る。でなければ忠臣として働いてきた自分たちの側が殺されてしまうほかないと。
「臣等(しんら)、忠言(ちゅうげん)のために胸を割(さ)かれて、蒼天(そうてん)に血を淋(そそ)ぐべし」(「太平記6・第三十七・十・P.60」岩波文庫 二〇一六年)
暴虐専断がやめられない紂王を諌めたがため胸を切り裂かれた比干の例。「史記・殷本紀」から。
「比干は、『人臣としては死んで争わなければならない』と言い、紂を強諌した。紂は怒って、『聖人の胸には七つの穴があるということだが、ほんとうだろうか』と言って比干の胸をひらいて心臓を見た」(「殷本紀・第三」『史記1・本紀・P.58』ちくま学芸文庫 一九九五年)
楊貴妃は玄宗にすがって隠れようとし、玄宗は楊貴妃を隠そうとする。けれども楊貴妃は臣下に引きずり出され殺害される。
「玉体(ぎょくたい)に取り付かせ給ひたる楊貴妃の御手(みて)を引(ひ)き放(はな)して、轅(ながえ)の下へ引き落とし奉りて、やがて馬の蹄(ひづめ)にぞ掛けたりける」(「太平記6・第三十七・十・P.61」岩波文庫 二〇一六年)
白居易「長恨歌」にこうある。
「苑轉娥眉馬前死 花鈿委地無人収
(書き下し)苑転(えんてん)たる娥眉(がび) 馬前(ばぜん)に死(し)す 花鈿(かでん) 地(ち)に委(ゆだ)ねられて人(ひと)の収(おさ)むる無(な)し
(現代語訳)たおやかな娥眉の人はあえなく馬前で命を落としたのだった。花のかんざしは地にうち捨てられ拾う人とてなく」(「長恨歌」『白楽天詩選・上・P.61~62』岩波文庫 二〇一一年)
そしてすでに玄宗は楊貴妃を助ける余力はなかった。
「玄宗は、初めより玉体に力なく、御貌(おんかお)をも擡(もた)げ給はず、臥(ふ)し沈ませ給ひしかば、今はの涯(きわ)の御有様、親(まのあた)り御覧ぜざりしぞ、なかなか絶(た)えぬ玉の緒の長き恨みとはなりにける」(「太平記6・第三十七・十・P.61~62」岩波文庫 二〇一六年)
白居易「長恨歌」から。
「君王掩面救不得
(書き下し)君王(くんのう) 面(めん)を掩(おお)いて救(すく)い得(え)ず
(現代語訳)君王は玉顔を覆うばかりで助けることもかなわず」(「長恨歌」『白楽天詩選・上・P.61~62』岩波文庫 二〇一一年)
楊国忠殺害により安禄山の乱を鎮圧しはしたが、皇帝である玄宗を殺すことはできない以上、何度も繰り返し演じられるだろう不穏な情勢勃発の条件を葬るのが先決である。そこで臣下らは楊貴妃を殺害するしか危機を乗りきる手段はなかった。
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