Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

Blog21・「太平記」が語る楊貴妃の周囲5

玄宗楊貴妃のことが忘れられない。述懐が続く。

「春風桃李(しゅんぷうとうり)花の開く夜、秋雨(しゅうう)梧桐(ごとう)葉の落つる時、西宮南苑(せいきゅうなんえん)秋の草多く、宮葉(きゅうよう)階(はし)に満つれども、紅(くれない)掃(はら)はず。夕殿(せきでん)に蛍(ほたる)飛んで、思ひ悄然(しょうぜん)たり。孤燈(ことう)挑(かか)げ尽(つ)くして、未だ眠りをなさず。遅々(ちち)たる鐘鼓(しょうこ)初めて長き夜(よ)、耿々(こうこう)たる星河(えいが)曙(あ)けなんと欲する天、鴛鴦(えんおう)の瓦(かわら)冷(ひや)やかにして、霜の華(はな)重し。翡翠(ひすい)の衾(ふすま)寒くして、誰と共(とも)にかせん」(「太平記6・第三十七・十・P.64~65」岩波文庫 二〇一六年)

白居易長恨歌」から二箇所抜粋して合体させている。古典に慣れている専門家なら「太平記」原文をすらすら速読できるけれども、一般的には以下に上げる二箇所の現代語訳を接続してみるのが説得力を持つかもしれない。

(1)「春風桃李花開夜 秋雨梧桐葉落時 西宮南苑多秋草 宮葉満階紅不掃 

(書き下し)春風(しゅんぷう) 桃李(とうり) 花(はな)開(ひら)く夜(よる) 秋雨(しゅうう) 梧桐(ごどう) 葉(は)落(お)つる時(とき) 西宮(せいきゅう) 南苑(なんえん) 秋草(しゅうそう)多(おお)く 宮葉(きゅうよう) 階(きざはし)に満(み)ちて 紅(くれない)掃(はら)わず

(現代語訳)春の風に桃李の花が開く夜も、秋の雨に梧桐が葉を落とす時も。西の御殿、南の御苑には秋草ばかりが生い茂る。きざはしに散り敷いた紅葉は掃き清められることもない」(「長恨歌」『白楽天詩選・上・P.67~68』岩波文庫 二〇一一年)

(2)「夕殿螢飛思悄然 孤燈挑盡未成眠 遅遅鍾鼓初長夜 耿耿星河欲曙天 鴛鴦瓦冷霜華重 翡翠衾寒誰與共

(書き下し)夕殿(せきでん)に蛍(ほたる)飛(と)びて思(おも)い悄然(しょうぜん)たり 孤灯(ことう) 挑(かか)げ尽(つく)すも未(いま)だ眠(ねむ)りを成(な)さず 遅遅(ちち)たる鍾鼓(しょうこ) 初(はじ)めて長(なが)き夜(よる) 耿耿(こうこう)たる星河(せいが) 曙(あ)けんと欲(ほっ)する天(てん) 鴛鴦(えんおう)の瓦(かわら)は冷(ひ)ややかにして霜華(そうか)重(おも)く 翡翠(ひすい)の衾(しとね)は寒(さむ)くして誰(たれ)とか共(とも)にせん

(現代語訳)日の暮れた宮殿に飛び交う蛍に心は沈み、わびしい灯火をかき立てかき立て、灯りが尽きても眠りは遠い。鐘太鼓が告げる時も遅々として、長くなりそめた秋の夜。白々と冴え渡る天の河、夜明けを迎える空。おしどり模様の瓦は冷え冷えとして、霜の花は重たく敷く。翡翠(ひすい)を縫い取りしたしとねには共にくるまる人もない」(「長恨歌」『白楽天詩選・上・P.69~70』岩波文庫 二〇一一年)

また今は亡き楊貴妃に会って玄宗の思いを伝え、さらに楊貴妃から何らかの返事を得てこようと一人の「方士(ほうし)」が伝令役を買って出る。「方士」は後の「道士(どうし)」のこと。道教の修行者を指すが、遥か古代から神仙思想を信じる人々は多くいた。例えば秦の始皇帝もその一人。「徐芾(じょふつ)」は「徐福(じょふく)」とも書く。

「斉人の徐芾(じょふつ)らが上書して、『海中に三つの神山があり、蓬萊(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)と申して、僊人(せんにん)が住んでおります。斎戒(ものいみ)して童男童女を連れ、僊人を探したいと思います』と言った。そこで徐芾をやり、童男童女数千人を出して海上に僊人を求めさした」(「始皇本紀・第六」『史記1・本紀・P.151』ちくま学芸文庫 一九九五年)

太平記」の記述は「方士(ほうし)」を採用している。

「方士、則ち天に昇り、地に入りて、これを求め、上(かみ)は碧落(へきらく)を窮(きわ)め、下(しも)は黄泉(こうせん)の底まで尋ね求むるに、楊貴妃更(さら)におはしまさず」(「太平記6・第三十七・十・P.65~66」岩波文庫 二〇一六年)

白居易長恨歌」から。

「遂敎方士殷勤覓 排空馭氣奔如電 昇天入地求之遍 上窮碧落下黄泉 兩處茫茫皆不見 忽聞海上有仙山 山在虚無縹緲閒

(書き下し)遂(つい)に方士(ほうし)をして殷勤(いんぎん)に覓(もと)めしむ 空(くう)を排(はい)し気(き)に馭(ぎょ)して奔(はし)ること電(いなづま)の如(ごと)し 天(てん)に昇(のぼ)り地(ち)に入(い)りて之(これ)を求(もと)むること遍(あまね)し 上(うえ)は碧落(へきらく)を窮(きわ)め下(しも)は黄泉(こうせん) 両処(りょうしょ) 茫茫(ぼうぼう)として皆(み)な見(み)えず 忽(たちま)ち聞(き)く 海上(かいじょう)に仙山(せんざん)有(あ)りと 山(やま)は虚無(きょむ)縹緲(ひょうびょう)の間(かん)に在(あ)り

(書き下し)かの道士を召して入念に捜させることになった。空(くう)を切り裂き大気に乗って稲妻のごとく駆け巡り、天に昇り地に潜り、くまなく捜し求めた。上は蒼空の彼方、下は黄泉の国まで窮めたが、どちらもあてどなく拡がるばかりで、貴妃の姿は見えない。ふと耳にしたのは、海上にある仙山のこと。その山は茫漠たる虚空のあたりにあるという」(「長恨歌」『白楽天詩選・上・P.72~74』岩波文庫 二〇一一年)

あちこち探しているうち、死後の楊貴妃がいるらしき場所を見つけた方士。楊貴妃が出てくるのを待つ。

「雲海沈々(ちんちん)として、洞天(どうてん)に日暮れぬ。瓊戸(けいこ)重なつて閉ぢて、悄然(しょうぜん)として人なし」」(「太平記6・第三十七・十・P.66」岩波文庫 二〇一六年)

陳鴻「長恨歌伝」で語られているその場の様子。

「雲の海が深く、遠く広がり、洞窟の空に、太陽の光が明るくさした。玉(ぎょく)で作られた扉が堅くとざされ、ひっそりと、物音一つしなかった」(陳鴻「長恨歌伝」『唐宗伝奇集・上・P.165』岩波文庫 一九八八年)

しばらくして楊貴妃が現われた。

「時に玉妃(ぎょくひ)、九華帳(きゅうかちょう)の裏(うら)に夢魂(むこん)驚いて、衣(ころも)を攬(かいと)り、枕を押して起(た)つて徘徊(はいかい)す。珠箔(しゅはく)銀屏(ぎんびょう)邐迤(りい)として開く。雲の鬢(びんずら)半ば偏(みだ)して新たに睡覚(ねざ)む。雲鬢(うんびん)理(つくろ)はずして、羅綺(らき)にだも堪へざる体(てい)、たとへて比類(ひるい)なし」(「太平記6・第三十七・十・P.67」岩波文庫 二〇一六年)

白居易長恨歌」から。

「九華帳裏夢中驚 攬衣推枕起徘徊 珠箔銀屏邐迤開 雲鬢半垂新睡覺 花冠不整下堂來

(書き下し)九華帳裏(きゅうかちょうり) 夢中(むちゅう)に驚(おどろ)く 衣(ころも)を攬(と)り枕(まくら)を推(お)し 起(た)ちて徘徊(はいかい)す 珠箔(しゅはく) 銀屏(ぎんべい) 邐迤(りい)として開(ひら)く 雲鬢(うんびん)半(なか)ば垂(た)れて新(あら)たに睡(ねむ)りより覚(さ)む 花冠(かかん)整(ととの)えず 堂(どう)を下(お)りて来(き)たる

(現代語訳)花散りばめたとばりのなかで夢からはっと覚めた。衣を手に取り枕を押しやり、起き上がっても立ちとおる。真珠のすだれ、銀の屏風がするすると開いてゆく。雲なす髪を半ば乱し、今しも目覚めたばかりの姿が、花冠も整えずに堂から降りてくる」(「長恨歌」『白楽天詩選・上・P.74~76』岩波文庫 二〇一一年)

なお「雲鬢(うんびん)」だが、直訳的な訳文では「雲のごとく豊かに結い上げた髪」となる。単純に言えば「美しい髪」。だが単純過ぎる訳語では各人各様により、また各々の時代のパースペクティヴ次第で、基準となる「美」が異なるため反射的に「美しい髪」のイメージが無数に出現するという逆説が生じる。ニーチェをヒントに述べると、絵画において遠近法発見以前と以後とで世界はまるで違って見える。どれが絶対的に正しいということは誰にもけっして言えない。さらにカントはいう。

「趣味判断において要請されるところのものは、概念を介しない適意に関して与えられる《普遍的賛成》にほかならない、従ってまた或る種の判断ーーー換言すれば、同時にすべての人に妥当すると見なされ得るような美学的判断の《可能》にほかならない、ということである。趣味判断そのものはすべての人の同意を《要請》するわけにいかない(このことをなし得るのは、理由を挙示し得る論理的ー全称的判断だけだからである)、ただこの同意を趣味判断の規則に従う事例としてすべての人に《要求》するだけである、そしてこのような事例に関しては、判断の確証を概念に求めるのではなくて、他のすべての人達の賛同に期待するのである。それだから普遍的賛成は一個の理念にほかならない」(カント「判断力批判・上・P.93~94」岩波文庫 一九六四年)

西欧におけるパースペクティヴ(社会思想的地平)の変化を鮮やかに描き出したのはフーコーだが、例えば日本の場合なら天皇制もまた帝国主義時代と戦後日本国憲法下とではがらりと異なる。そしてさらに今や世界はグローバル資本主義に包括されている。資本主義は常に脱コード化していくとともに再領土化していく。その点で天皇制も現状のままではいられない。脱コード化の流れは世界そのものである。孤立することなく形態を変容させていかなければ生き残ることは不可能になる。ところがもはや〔道徳としての〕資本主義の流れに沿って変化を加えていくという対応は何を意味するのか。ニーチェはいう。それは自分で自分を多数派化していくことだ、いずれすべての人間が「金太郎飴」状態になると。

「《習俗とその犠牲》。ーーー習俗の起源は、次の二つの思想に帰着する、ーーー『団体は個人よりもいっそう価値がある』という思想と、『永続的な利益は一時的な利益に優先すべきである』という思想である。そして、これから、団体の永続的な利益は個人の利益、とくにその刹那的な満足よりも、しかしまた個人の永続的な利益やその生命の存続すらよりも、無条件に優先すべきであるという結論がでてくる。いまや、全体を益するための或る制度で個人が苦しもうと、また彼がそのために委縮し、そのために破滅してゆこうとーーー習俗は維持されねばならず、またそのためには犠牲が供されねばならない。しかし、このような心的態度が《生ずるのは》、自らは犠牲となることの《ない》連中においてだけである、ーーーなぜなら、犠牲者の方は、<個人は多数者よりも貴重なものであり得る>、同様に、<現在の享受、天国にあるこの一刹那は、苦しみのない、あるいは安楽な状態の無気力な持続よりもおそらくいっそう高く評価されるべきである>という意見を主張するからである。しかし、犠牲獣のこの哲学は、いつも叫ばれることあまりにも遅きに失している。だから彼らはいつまでたっても習俗や《道徳性》にしばられたままである。人びとは習俗の下で生き、習俗の下で教育された、ーーーしかも個人としてではなく、全体の分岐として、多数派の符牒として教育された。そして道徳性とはこのもろもろの習俗の総体や本質に寄せる感情にすぎないのである。ーーーかくして絶えず個人は、その道徳性を媒介として、自己自身を《多数派化》してゆく結果になる」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・八九・P.73~74」ちくま学芸文庫 一九九四年)

逆に資本主義がいつも要請してくる加速的変化を無視して現状維持を図ろうとするのも自由だ。けれども、その方向を取ればそのうち必ず日本の皇室だけで世界を相手にして闘うことを余儀なくされるだろう。約三十年ほど前、昭和天皇死去に伴う「大葬の礼」が挙行された。その頃はどこの大学でも天皇制について随分活発な議論が交わされていた。今や天皇制に関する議論はその是非も含めてほとんどないように見える。それと関係するのかどうかわからないが、少なくとも九年に渡る安倍・菅政権に関して今のマスコミの政治に関する報道を見ると異様な違和感を覚えないではいられない。自民党の良し悪し以前に、安倍=菅路線はどこからどう見ても「タカ派」政治の実現を目指したものだった。にもかかわらずごく普通のニュース報道では何らの問題もないかのように「タカ派」ではなくいとも容易に「保守」と呼んで疑っていないかのようだ。どちらが良い悪いは別問題である。むしろそれ以前の前提として日本の報道機関はずいぶん劣化したと考えざるを得ない。

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