「春風三月(しゅんぷうさんげつ)、一城(いちじょう)の人皆狂(きょう)せるに異ならず」(「太平記5・第三十二巻・十・P.182」岩波文庫 二〇一六年)
白居易「牡丹芳」からの引用。
「花開花落二十日 一城之人皆若狂
(書き下し)花(はな)開(ひら)き花(はな)落(お)つ 二十日(にじゅうにち) 一城(いちじょう)の人(ひと) 皆(み)な狂(くる)えるが若(ごと)し
(現代語訳)花が開き、花が散る、その二十日の日々。町じゅうは狂乱の渦に巻き込まれる」(「牡丹芳」『白楽天詩選・上・P.173~176』岩波文庫 二〇一一年)
また「第三十九巻・道誉(どうよ)大原野(おおはらの)花会(はなえ)」の条の描写でも引用される。
「鈿車(でんしゃ)軸々(じくじく)として轟(とどろ)き、細馬(さいば)轆々(ろくろく)として鳴らして馳(は)せ散(ち)り、喚(おめ)き叫(さけ)びたる有様、ただ三尸(さんし)百鬼(ひゃっき)の夜深(よふか)くして衢(ちまた)を過ぐるに異ならず。『花開き花落つる事二十日、一城(いちじょう)の人皆狂せるが如し』と、牡丹妖艶(ぼたんようえん)の色を風(ふう)せしも、げにさこそはありつらめと思ひ知らるるばからりなり」(「太平記6・第三十九・六・P.164」岩波文庫 二〇一六年)
次に「神南(こうない)合戦」の条から三箇所。
第一に、「先んずるに人を制するに利あるべし」(「太平記5・第三十二・十二・P.193」岩波文庫 二〇一六年)
何度か出てきた「史記・項羽本紀」からの引用。
「先んずれば人を制し、後れれば人に制せられる」(項羽本紀・第七」『史記1・本紀・P.195』ちくま学芸文庫 一九九五年)
第二に、「元暦(げんりゃく)の古(いにし)へ、平家一谷(いちのたに)に籠(こ)もりしを攻めし時、一の木戸、生田(いくた)の森(もり)の前にて、それがしが先祖河原太郎(かわらのたろう)、同じき次郎(じろう)が、城の木戸を乗(の)り超(こ)えて討死したりしも、二月なり」(「太平記5・第三十二・十二・P.199」岩波文庫 二〇一六年)
「平家物語・巻第九・二度之懸」で有名なエピソード。「太平記」ではそれを反復しようというのである。
「『口惜(くちをし)い事をものたまふ物(もの)かな。ただ兄弟二人(ににん)ある物が、あにを討(う)たせて、おととが一人残(のこ)りとどまッたらば、いく程の栄花をかたもつべき。所々(ところどころ)で討(う)たれんよりも、ひとところでこそいかにもならめ』とて、下人(げにん)どもよびよせ、最後のありさま、妻子のもとへ言(い)ひつかはし、馬にも乗らずげげをはき、弓杖(ゆんづゑ)をついて、生田(いくたの)森のさかも木をのぼり越(こ)え、城のうちへぞ入(い)ッたりける。星あかりに、鎧の毛もさだかならず。河原太郎、大音声(だいおんじやう)をあげて、『武蔵国住人河原太郎私高直(キサイチノたかなほ)・同(おなじき)次郎盛直(もりなほ)、源氏の大手、生田の森の先陣ぞや』とぞ名(な)のッたる。平家の方(かた)には是(これ)を聞(き)いて、『東国の武士ほどおそろしかりけるものはなし。是(これ)程の大勢(おほぜい)の中へ、ただ二人入ッたらば、何ほどの事をかし出(いだ)すべき。よしよし、しばしあいせよ』とて、討(う)たんと言(い)ふものなかりけり。是等(これら)おととい、究竟(くつきやう)の弓の上手なれば、さしつめひきつめさんざんに射(い)るあひだ、『にくし、討(う)てや』と言(い)ふ程こそありけれ、西国に聞(きこ)えたるつよ弓・精兵(せいびやう)、備中国ノ住人真名辺(まなべノ)四郎・真名辺五郎とておとといあり。四郎は一の谷におかれたり。五郎は生田の森にありけるが、是(これ)を見て、よッぴいてひやうふつと射(い)る。河原太郎が鎧のむないたうしろへつッと射抜(いぬ)かれて、弓杖(ゆんづゑ)にすがりすくむところを、おととの次郎はしりよッて、是(これ)をかたにひッかけ、さかも木をのぼり越(こ)えんとしけるが、真名辺が二(に)の矢に、よろひの草摺(くさずり)のはづれを射(い)させて、おなじ枕に臥(ふ)しにけり。真名辺が下人(げにん)おちあうて、河原兄弟の頸(くび)をとる」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第九・二度之懸・P.160~161」岩波書店 一九九三年)
第三に、「昔、唐(とう)の太宗(たいそう)、戦ひに臨(のぞ)んで、戦士を重くせしに、血を含み、疵(きず)を吸ふのみにあらず、亡卒(ぼうそつ)の遺骸(いがい)をば、帛(はく)を散らして収め給ひ」(「太平記5・第三十二・十二・P.209」岩波文庫 二〇一六年)
この文章は白居易「七徳舞」から次の二箇所を抜粋してさらに合体させたもの。
(1)「亡卒遺骸散帛収〔貞観初、詔天下陣死骸骨、到祭瘞埋之、尋又散帛収〕
(書き下し)亡卒(ぼうそつ)の遺骸(いがい) 帛(はく)を散(さん)じて収(おさ)め 〔貞観(じょうがん)の初(はじ)め、天下(てんか)に詔(みことのり)して陣死(じんし)の骸骨(がいこつ)、祭(まつ)りを致(いた)して之(これ)を瘞埋(えいまい)せしめ、尋(つ)いで又(ま)た帛(はく)を散(さん)じて以(もっ)て之(これ)を求(もと)むるなり〕
(現代語訳)戦没した兵士の遺骸は金に糸目をつけずに収集し、〔貞観の初年、天下に詔して戦死者の遺骸を収集し、霊を祭った上で埋葬し、ついでさらに帛(はく)をつぎこんで捜求させた〕」(「七徳舞」『白楽天詩選・上・P.110~115』岩波文庫 二〇一一年)
(2)「含血吮瘡撫戦士 思摩奮呼乞效死〔李思摩嘗中弩、太宗親爲吮血〕
(書き下し)血(ち)を含(ふく)み瘡(きず)を吮(す)いて戦士(せんし)を撫(ぶ)し 思摩(しま)は奮呼(ふんこ)して死(し)を効(いた)さんことを乞う〔李思摩(りしま)嘗(かつ)て弩(ど)に中(あた)り、太宗(たいそう)親(みずか)ら為(ため)に血(ち)を吮(す)う〕
(現代語訳)血を嘗(な)め傷口を吸って戦士をいたわったので、李思摩(りしま)は心昂(たかぶ)って叫び、帝のためなら命を差し出したいと言いました。〔李思摩がいしゆみに当たった時、太宗はみずからその血を吸ってあげた〕」(「七徳舞」『白楽天詩選・上・P.113~117』岩波文庫 二〇一一年)
最初は破竹の勢いで勝利するかに見えた山名軍。ところがだんだん崩れ始め結局京の本陣へ退却した「神南(こうない)合戦」。従って足利義詮方は勢いをつけ、間髪入れず「東寺(とうじ)合戦」へ続く。そこでもまた「平家物語」と漢籍からの引用・反復が「太平記」の語りを押し進める原動力を演じる。
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