Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

Blog21・「太平記」が語る楊貴妃の周囲1

志賀寺上人(しがでらしょうにん)が住んだ「志賀寺(しがでら)」はそもそもどのような環境にあったのか。今の滋賀県大津市滋賀里にかつて存在した「崇福寺(すうふくじ)」を指し、もはや「崇福寺跡(すうふくじあと)」が残されているばかり。周囲は古代古墳群の密集地であり天智朝創成期との関連も研究のうちに入る。ともあれ南北朝時代を舞台とした「太平記」ではこう書かれている。

「暮山(ぼさん)の雲を望めば、いとど心も浮き迷ひ、閑窓(かんそう)の月に嘯(うそぶ)けば、忘れぬ思ひなほ深し」(「太平記6・第三十七・八・P.46」岩波文庫 二〇一六年)

この文章は「和漢朗詠集」から二箇所選んで引用し結合されたもの。

(1)「叩凍負来寒谷月 払霜拾尽暮山雲

(書き下し)凍(こほり)を叩(たた)いて負(お)ひ来(きた)る寒谷(かんこく)の月 霜を払(はら)て拾ひ尽す暮山(ぼさん)の雲」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・仏事・五九八・慶滋保胤・P.226」新潮社 一九八三年)

(2)「幽思不窮 深巷無人之処 愁腸欲断 閑窓有月之時

(書き下し)幽思(ゆうし)窮(きわ)まらず 深巷(しんこう)に人なき処(ところ) 愁腸 (しうちやう)断(た)えなむとす 閑窓(かんさう)に月のある時」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・閑居・六一五・張読・P.232」新潮社 一九八三年)

次に畠山入道道誓国清(はたけやまにゅうどうどうせいくにきよ)の謀反に関し、楊国忠(ようこくちゅう)や安禄山(あんろくざん)に喩えられる。余りにも有名な玄宗皇帝と楊貴妃のエピソード。「太平記」に引用される様々なエピソードの中でもかなりの分量を費やして物語られている。

後宮(こうきゅう)の三十六宮」(「太平記6・第三十七・十・P.51」岩波文庫 二〇一六年)

何度もしつこく繰り返し出てくる常套句の一つ。「和漢朗詠集」から。

「秦甸之一千里 凜々氷鋪 漢家之三十六宮 澄々粉飾

(書き下し)秦甸(しんてん)の一千里 凛々(りんりん)として氷鋪(し)けり 漢家(かんか)の三十六宮(しふりくきう) 澄々(ちようちよう)として粉(ふん)飾(かざ)れり」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻上・十五夜・二四〇・P.95」新潮社 一九八三年)

美女ばかり三千人と言われる後宮の内ではなく外、民間人の中に楊貴妃は見出される。その時こう形容された。

「夭々(ようよう)たる桃花(とうか)」(「太平記6・第三十七・十・P.52」岩波文庫 二〇一六年)

高級官僚への難関試験制度「科挙」に挑戦する若い者らはすべて基礎以前の基礎として暗記していた「詩経・周南」からの引用。

「桃之夭夭 灼灼其華

(書き下し)桃(もの)の夭夭(ようよう)たる 灼灼(しゃくしゃく)たる其(そ)の華(はな)

(現代語訳)わかわかしい桃の木。つやつやしたその花」(「周南・桃夭」『中國詩人選集2・詩経国風・上・P.44~45』岩波書店 一九五八年)

玄宗はあれよという間に楊貴妃を神格化してしまう。

「昼は終日(ひねもす)に輦(てぐるま)を共(とも)にして、南苑(なんえん)の花に酔(え)ひを勧め、夜は通宵(よもすがら)席を同じくして、西宮(せいきゅう)の月に宴(えん)をなし給ふ」(「太平記6・第三十七・十・P.54」岩波文庫 二〇一六年)

白居易長恨歌」の一節。

「西宮南苑多秋草

(書き下し)西宮(せいきゅう) 南苑(なんえん) 秋草(しゅうそう)多(おお)く

(現代語訳)西の御殿、南の御苑には秋草ばかりが生い茂る」(「長恨歌」『白楽天詩選・上・P.67~68』岩波文庫 二〇一一年)

だからといって楊貴妃には何一つ罪はない。今なお「男社会」ではいつでもどこでも起こっているありふれた現実の一つに過ぎない。先進国中、日本では特に酷い。しかし「女社会」ならそうならないかと言えばそれもまた疑問である。なぜなら女性もまた「ギャンブル、いじめ、薬物、学歴、容姿、資産」等、様々なものを神格化したがる傾向を持つからである。欲望する人間にとってありとあらゆるものが「神」と置き換え可能になり得る。内部にばかりいてはそのような自分自身の転倒した姿・振る舞い・思考方法が見えなくなる。

BGM1

BGM2

BGM3