患者たちのその後(272)
暗い雲が続いていた。
木々が黄ばみ始める頃になると長女は頭痛に悩まされる。
その症状はまず片方の目に出てきた。
目を開けていると視野の一箇所でギザギザした光がゆっくりと動きだす。ギザギザはだんだん大きくなって半円形を描く。十五分ほどすると頭痛が起こる。毎年のことだった。
眼科で相談したことがあった。片頭痛ではしばしば見られる症状だと医師はいった。
じわじわと締めつけられるような痛みが三十分ばかり続く。耐えられない時間ではない。薬を使うほどではなかった。
昨日の夕方だった。溜まった新聞紙を台所の隅で片付けていた時、ギザギザの半円が視野の隅にあらわれた。またかと思った。しばらくすると頭痛が襲ってきた。
その翌日。長女は面会へ向かうバスで窓の外を眺めながら、入院中の父の顔を思った。
バスは川沿いを北へ向かう。
並木道を埋める桜の葉が赤胴色にくすんでいた。厚い雲が折り重なっている。半分だけシャッターを閉めた店の中にいるようだった。どこを見ても自分とは無縁に思えた。
面会はデイルームだった。
ーー父は父。わたしはわたし。
長女は自分の人生も尊重したいと思えるようになっていた。ようやく芽生えてきたこの気持ちを、時間をかけてでも大切にしたいと思っていた。
だが、父の様子は相変わらずだろうとも思った。
その日の面会も期待は持てなかった。顔を合わせてしばらくした時、父はおもむろにこういった。
「簡単に許されるとは思っていない。謝っても謝り足りないことはよくわかっているつもりだ。だからせめて、許しを乞わせてくれないだろうか」
長女は手にしたコップを取り落としそうになる。
ーーこの人は、自分が何を口にしているのか、本当にわかっているのだろうか。
家のことを、まだ思春期だったわたし一人に押しつけたまま、飲み歩いてきた人だ。その人が、社会の片隅へ追い詰めた家族の前で許しを乞うなんて、かえって侮辱だった。許しを乞う資格があるだなんて。そんなことが許されるとでも本気で信じているのだろうか。
ーーこの人、わたしのことが、自分よりずっと下に見えてるんだ。
何度入院したらわかってくれるのだろう。長女は肩を落とした。これ以上入院しても意味がない、と泣きたくなってきた。
長女は打ちひしがれたような面持ちで面会を済ませる。その足で看護師詰所へ向かった。
詰所では看護師の初瀬が電話で話していた。長女は二、三分、廊下で佇んで待ってみる。初瀬が受話器を置くのを見計らって詰所を訪れた。
初瀬に勧められた椅子に腰かけた長女はこう話し出した。
「もう、本当に無理です」
こらえきれなくなっているようだ。
「許しを乞うだなんて。今さらそんなこと言われるくらいなら、会わなきゃよかった」
「……そう感じたんですね」
「あれがわたしの父かと思うと。腹が立つっていうより、この人、本当に何にもわかってないんだって」
「わかっていない、と」
「はい。わたしたちが何年どういう生活をしてきたか。それがわかった人なら、『許しを乞ってもいいか』なんて言えないと思うんです」
「長女さんには、その言葉が、とても軽く聞こえてしまったんですね」
「そう、それもありますが、変な言い方かもしれませんけど、図々しいと思いました」
「そう思われたんですか」
「許す許さない以前に、わたしの人生はもう壊されたんです」
すぐ後ろを横ぎる廊下はしんとしている。その静けさは長女の輪郭を細い線で小さく浮き上がらせていた。点滴の時間が終わるまで廊下は静かなままだろう。
長女は全身に青白い炎をまとっているようだった。初瀬はひと息置く。リラックスした表情でこう語りかけた。
「さっき、『侮辱されたみたいだ』って、おっしゃいましたね」
「はい」
「どんなところがでしょう」
「父を許すかどうか。それを決める立場にわたしを立たせるでしょう。卑怯です。もう父のことで苦しむ役なんて終わりにしようと思ってたのに」
「『もう降りたい』、というお気持ちだったんですね」
「そうです。やっと降りられそうだったのに」
長女は両の瞼を不自然に振るわせながら続ける。
「病気だから、ということはわかってるつもりなんです。でも、病気だからって全部許されるわけじゃないと思うんです」
「はい。そうですよね。病気で説明できる部分はあります。でも、長女さんが傷ついた事実まで消えるわけではないですよね」
「……と思います」
初瀬はもう一度間を置く。こう続ける。
「今のお話は、二つのことが重なっているように思いました。ひとつはお父さんは病気治療中だということです。もうひとつは、長女さんは傷ついているということ。どちらも本当だと思います」
長女はためらいながら問いかける。
「でも、許してくださいって言える人って。そんな資格、父にはもうないと思うんです」
初瀬はうなずきながら答える。
「長女さんには、お父さんのことがどんなふうに見えたんでしょう」
「『自分中心的』だと思いました。たぶん最後まで自分しかない人なんだろうって。わたしの人生じゃなくて」
「それで、悲しかった」
長女は黙ってうなずく。
「許せないとおっしゃっていますが、そのお気持ちは以前より強くなった感じですか」
「はい」
「そうですか」
「普通は逆、ですよね」
中庭でリハビリに励む患者たちの声が一瞬よぎって通り過ぎていった。
初瀬はいう。
「わたしは、必ずしもそうと思いません。治療が進むことと、ご家族のお気持ちが追いつくことは、また別だと思っています。長女さんが今日の面会で感じたことには、それだけの理由があるのだと思います」
長女は納得できそうな気もする。だが簡単にいきそうにないと、これまで何度か自分の中を訪れたことのある暗礁が姿を現した気がした。眉を歪めて床に目を落とした。
「このまま入院していても、意味がないというか」
「そう思われた、と」
「結局、何も変わらないんじゃないかって」
「今日のお父さんを見て、そう感じられた」
「はい」
初瀬は心もち声を整える。こういう。
「わたしから、ひとつだけ、お伝えしてもいいですか」
長女は小さくうなずく。
「わたしは毎日お父さんと接しています。回復というのは一直線じゃないんじゃないか、という気もするんです。少し変わってきたのかなって思えても、また元に戻ることもあるんです」
長女は耳を澄ましている。なにかにじっと耐えているようだ。
「今日のお父さんが、治療の全部だとは、わたしは思っていません。ですが、長女さんが今日受けたとおっしゃる傷は、今日のものとして本当だと思います」
長女は膝の上で両手を握りしめる。
「そこは、いったん切り離して考えてみてはと、そうも思います」
静まり返った廊下に季節外れの蝉の鳴き声が途切れ途切れに沁み込んできた。
長女は礼儀正しく頭を下げると、元来た道をいつものように帰っていった。
点滴が続く病棟の廊下ではか細い蝉の声が響くばかりだ。詰所の蛍光灯がその場の空気とそぐわない明かりを落としている。
初瀬はついさっきまで長女が座っていた椅子を見つめた。
そこには長女のつらい思いがまだ残っているように思えた。
初瀬は立ち上がってコップに水を汲んだ。窓の外に目をやる。重い雲が垂れ込めている。色づき始めた中庭のもみじが、失敗した油絵のように不気味な息苦しさをたたえていた。
病棟のすぐ後ろから雑木林が広がっている。それは鬱蒼と生い茂りながら幾重にも折り畳まれた雲の中へ溶け込んでいた。
初瀬はそんな風景を振り払うように、背筋をしゃんと伸ばす。もう一度窓の外を見る。
ーー目の前に広がるのは単なる雑木林だろうか。
違うかもしれない、と初瀬は思う。
あれは、そうだ。病棟勤務になった頃から見慣れた風景だ。この三年間、毎日目にしてきた。
「北山杉」
誰が言い始めたのか、病棟では昔からそう呼ばれていた。
名前があった。
思っていたより静かな名だった。
初瀬は何かを取り戻したというより、そこに最初からあった名前を呼ぶことができた気がした。
ひとくち水をすすると、コップをそっとテーブルに置く。
面会時間を過ぎたデイルームの窓から、日暮れにはまだ早い鈴虫の声が聞こえてきた。