患者たちのその後(270)
安西医院へ向かうコロの足取りは重かった。
あれはヒグラシが鳴き始めた頃だった。
駅の地下のコンコースが改装されたという。
ーー少しでも気持ちが変わるかもしれない。
そう思った。
着替えるとすっかり心も模様替えした気になれた。
駅は百年以上もの歴史を持っていた。その一角にはどっしりとした赤い煉瓦塀が保存されている。明治以来の建造物だ。威容を誇っていた。
コロは角を曲がる。水のせせらぎが聞こえてきた。大きなドームが広がった。
幾つものライトに照らされた噴水は蝶のように揺れていた。飛び散るしぶきが鱗粉のように七色へほどける。
ーーこれが、新しい噴水なんだ。
そこからまっすぐに伸びる舗装は隅々までくっきりと磨き上げられていた。
店舗も新しくなった。
夏まで残っていた昭和を思わせるデザインは、この改装を経てすべてきれいに消えたことになる。何からなにまで統一感を保っている。光沢のある床もガラスの壁も互いを映し合い、一面が鏡の世界だった。
軽い目まいとともにコロは足をすべらせてしまいそうになった。
ーー落ち着かないと。
身なりを整える。
バッグを抱えなおす。
足の裏の感触を確かめる。
舗装に目をやった瞬間、足元でじっとしている小さな虫が目に止まった。
ーーどこから迷いこんだのだろうか。
蜂だった。
落ち着きなく動いているはずの触覚が、両方ともぐったり垂れたまま動かなかった。
コロの体が固まる。
見てはいけないものに触れたように、その場から立ち去ろうと思った。
エレベーターの中で唇を噛みしめる。
顎がうまく噛み合わない。
ーー地上へ、早く。
動悸で息が詰まる。手すりを握る手に汗が滲む。
コンコースの新しさばかり謳う、たった一枚のチラシに心を弾ませた自分が悔しかった。
ドアが開いた。
客の黒い群れが立ち塞がっている。
青い空が限りなく遠く見えた。
ーーどうすれば。
人影を押しのけながら光の中を縫うように走った。
咎める人の声が後を追いかけてきた。ぶつかっておいて謝りもしないのか。酒に焼けたしゃがれ声が周囲の苦笑を誘った。ねちっこい嘲りが耳にまとわりついて離れなかった。
二ヶ月が過ぎた。
暮らしに支障が出るとはどういうことか。あのとき思い知らされた、とコロは思う。
安西医院の二階は喫茶室になっていた。他の患者たちがしばしば立ち寄っていく。顔見知り同士が声を交わし静かに茶を飲んでいた。
ここなら落ち着けそうだ、とコロは紙コップに水を汲む。
窓辺の席に腰を下ろした。
水で喉をうるおす。
いつもの窓にいつもの景色が広がっていた。
風景を書き出すためのノートをバッグから取り出そうと下を向く。
行儀よく揃えた自分の足に目を落とす。
何年ものあいだ、そこにあるのは自分のものとは思えなかった。だが見つめていると、その輪郭は初めて見るわけでもない気がしてきた。むしろ昔からよく知っていた場所だと感じた。
背後から声がした。
「こんにちは」
振り向くと茜だった。入院中にコロの作業療法を受け持った看護師だ。
「茜さん、こんにちは」
コロは思いきってたずねてみようと思った。
「ノートをつけてるんですが、これ」
「柿の木ノート。うかがってます。調子はどうですか」
「気後れというか、抵抗があるんです」
「抵抗。そうおっしゃるのは」
「自分の、……膝がしら」
「気になるんですね。例えば歩幅とか、どこか具体がよくないとか」
「いえ、再会したような感じなんです」
「再会」
「でも、体のことに触れるのは、ためらいを覚えるというか」
茜はほほえみながらこういった。
「抵抗がおありなら無理に『膝がしら』と書かなくてもいいと思います。でも、わたしは、本当に目が止まったのが膝なら、そのまま『膝がしら』でもいいと思います。誰に見せるためのノートじゃありませんから」
コロの頭の中で主治医の安西の言葉がよみがえってきた。
「しばらくは、すぐに消そうとはせず、『失ったもの』に名前を与えてみては」
コロはノートを開こうとする。茜が気を効かせてこういった。
「今から受付で用事があるんです。今日は、このへんで」
一階へ降りて行った。
コロは思う。
ーー自分自身の幹や茎に水をやってもいい。そういうことなのだろうか。
ページを開いて余白を埋める。
「膝がしら」
それはまるで、森に息づくものだけが知っている小径のように思えた。