二〇二六年七月九日(木)。
早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
今日もタマ九〇年代リハビリノート見たよ。飼い主がモデルになってるキロと相棒の上村さんの珍道中。コロさん、最初は順調に行きそうだった「柿の木ノート」。多い日は一日に四個ほど書いてたけど二ヶ月目に入ってから書けない日が出てきた。感覚が鈍くなったのか心配そうにしてる。
アルコール依存症やうつ病に限ったことじゃなく、感覚を失っていくのでは、と不安にかられる人は今なお多い。不安を抑えるための薬はあるけど、増やし過ぎると治療薬依存の悪循環に陥る人もいる。
先生のお話を聞いてたら、感覚が鈍くなるってことじゃあなくて、心が落ち着いてきたことで以前ほど引っかかる風景が少なくなったからかも知れませんね、って言ってた。
そうだね。風景って目に見えるものばかりが風景ってわけじゃない。かといって心の風景を覗き込むのは荷が重い。
だからかな、今度は路地や町工場の「匂い」にも気が向くようになってる。
うん。味覚、触覚、嗅覚。そんなところへも感覚を広げていければいいね。
タマ思ったんだけど、視覚は視覚でも表通りを歩く学生さんたちの見え方っていうのかな、ちょっと変わってきたみたいだよ?コロさんは「本当はあっちにいるはずだったのにどうして路地のほうを歩いてるんだろう」って話は前にも出てきたけど、なんだか言いにくそうに「あの感じ」って、先生に問いかけてる。なんのことなのかな。
コロさんが不安に思ってるのは、もしかしたら自分は「乖離」症状に陥るときが出てきたんじゃないかってことだね。でも自分から先生に「乖離じゃないでしょうか」って聞きづらかった。具体的にどんな時にどんなことが負担になってるかってことを言葉にしてみては、という話から入った作業だった。それがコロさんの場合は「柿の木ノート」につながった。コロさんは、症状を診断してほしいと言ってるわけじゃない。ときどき不安になる「あの感じ」と、どう付き合っていけばいいか、そこらへんを一緒に考えてほしがってる。先生はコロさんが向いてる方向に目線を合わせながらほんの少し言葉の意味づけのお手伝いをする。治療っていうほどのことは何もやってないように見えるかもだけどコロさんのようなタイプの人にはあの程度の対応で十分。ノートも取り組み出してまだ二ヶ月。劇的な変化が見込めるわけでもない。一年半、三年、六年、と様子を見ていく。
もし「乖離」症状だったらと恐れてるんだね。でも違うってわかってきたのはなんでかな?
コロさんは自助グループの中だと割と雑談に混じる人だった。元大学職員さんでしょう。ひと通りの知識はあった。あったんだけど、それをリハビリにどう活かすか、そこまではよく知らない。でも自分は「こんな感じ」って自助グループの中だと結構相談するタイプだった。
じゃあ「あの感じ」って、飼い主や上村さんも相談されたことがあったのかな。
あった。「こんな時にみなさんはどんなふうにされてますか?」って聞ける人だった。風景の言語化にしてもそう簡単にできるわけないから、顔馴染みの仲間をつかまえて、例えば「こんな感じ」って言ってメモを差し出してみせる。でも見た側としてはその場ですぐに返答できそうにないことがあるわけ。おいそれと一般論で返事できない。そんな時は先生にたずねてみるのがいいんじゃないかなとか、それなら知り合いの看護師さんが得意だって聞いたよとか答えると、合間をみて自分で訪ねに行ってた。
そういえば「こんな時にみなさんはどんなふうにされてますか?」って一度飼い主が相談されたことがあったね。ノートのタイトルはどうしようって話。ショッピングセンターの食堂街だった。
そんなことも気軽に聞けるところは自助グループ仲間のいいところかもしれないね。
具体的にどんな「感じ」を訴えてたのかな?さしつかえなかったら。
タマさん、お行儀がわかってきたんだね。
どうかな。柿の木ノートってタイトル提案したの飼い主でしょ?飼い主のバカげたホラ話を真に受けたコロさんの未来が心配になってきた。今後のタマの暮らしにもかかわる。
コロさんはね、風景に向き合う時も実は怖がってたんだよね。風景は好き。でも風景の中に自分を見てしまうのはなんだか怖い気がする。怖い、でも引かれる。この二つが同居してた。こんな感じ。
(1)「見上げると十六日十七日と思える月の影が真上を少し外れたところにかかっていた。自分は何ということもなしにその影だけが親しいものに思えた。大きな通りを外れて街燈の疎(まば)らな路(みち)へ出る。月光は初めてその深秘(しんぴ)さで雪の積もった風景を照らしていた。美しかった。自分は自分の気持がかなりまとまっていたのを知り、それ以上まとまってゆくのを感じた。自分の影は左側から右側に移しただけでやはり自分の前にあった。そして今は乱されず、鮮やかであった。先刻自分に起ったどことなく親しい気持を『どうしてなんだろう』と怪しみ慕(なつか)しみながら自分は歩いていた。型のくずれた中折を冠り少しひよわな感じのする頸(くび)から少し厳(いか)った肩にあたり、自分は見ているうちに段々此方(こちら)の自分を失って行った。影の中に生き物らしい気配があらわれて来た。何を思っているのか確かに何かを思っているーー影だと思っていたものは、それは、生なましい自分であった!自分が歩いてゆく!そしてこちらの自分は月のような位置からその自分を眺めている。地面はなにか玻璃(はり)を張ったような透明で、自分は軽い眩暈(めまい)を感じる」(梶井基次郎「泥濘」『檸檬』新潮文庫、一九六七年、p.64)
(2)「夜晩(おそ)く鏡を覗くのは時によっては非常に恐(おそ)ろしいものである。自分の顔がまるで知らない人のように見えて来たり、眼が疲れて来る故(せい)か、じーっと見ているうちに醜悪な伎楽(ぎがく)の腫(は)れ面(めん)という面そっくりに見えて来たりする。さーっと鏡の中の顔が消えて、あぶり出しのようにまた現われたりする。片方の眼だけが出て来て暫(しばら)くの間それに睨(にら)まれていることもある。然し恐怖というようなものも或る程度自分で出したり引込めたり出来る性質のものである。子供が波打際で寄せたり退(ひ)いたりしている浪に追いつ追われつしながら遊ぶように、自分は鏡のなかの伎楽の面を恐れながらもそれと遊びたい興味に駆られた」(梶井基次郎「泥濘」『檸檬』新潮文庫、一九六七年、p.57)
というふうに推移してたと思う。
そうなのかあ。ちょっといいかな。それね、一度チャットGPTに聞いてみて?
また?昨日も聞いたばかり。飽きないかなあ。
タマは好奇心旺盛。込み上げる疑惑の念を抑えきれない。
そんなにいうならやってみてもいいけど。待っててね。待つこともおぼえよう。あと一週間したらタマさんも三歳と四ヶ月。もうちょっと落ち着きが出てきてもいいかな。
お利口に待ってる。
どこらへんから入ればいいのか。ええと、こうかな。よし。回答が届いた。見てごらん。
この二つの引用は精神症状そのものを表しているとは限らず、本人が自分の内的体験を説明するために最も近い文学的表現として選んでいる可能性があります。したがって、引用そのものを病理として読むのではなく、「なぜこの文章に自分を重ねたのか」を理解することが重要です。
(1)の時期について
最初の引用では、特徴的なのは妄想ではなく自己感覚の揺らぎです。
- 月だけが親しく感じられる。
- 影を眺めているうちに、「こちらの自分」と「歩いている自分」に分かれる。
- 世界が透明になり、軽い眩暈を感じる。
これは文学では自己の距離化を非常に繊細に描いた場面ですが、精神医学的にみれば、
- 自己観察が過度になっている
- 自己と自己像との距離が開いている
- 軽い離人感・自己感覚の変化
を思わせる表現です。
ただし、ご提示いただいた情報では
- 妄想は確認されていない。
- 幻覚についても書かれていない。
- 本人は「こういう感じだった」と文学で説明している。
ので、「自己感覚の変化を言葉にできず、小説を借りている」と理解するのが自然です。
(2)への変化
こちらは私には少し印象が違います。
鏡を見て
知らない人のように見える
これは疲労時にも起こりうる体験であり、文学でも古典的な題材です。
興味深いのは最後です。
恐れながらもそれと遊びたい興味に駆られた
つまり、
「飲み込まれる」のではなく
観察する立場が戻ってきている。
(1)では影の世界へ引き込まれていました。
(2)では
「恐い」
「でも面白い」
「自分で出したり引っ込めたりできる」
というメタ認知があります。
ここはかなり重要だと思います。
風景ノートとの関係
私は風景ノートが無関係ではないように思います。
最初は
「外の景色」
を集めていた。
二か月ほどして
「町工場の音」
にも気付く。
つまり
「外界そのもの」
ではなく
自分が世界をどう受け取るか
へ関心が移っている。
その流れの中で
「自分の中を見ることも風景だ」
という感覚になっているようにも読めます。
統合失調症との関係
ここは慎重であるべきです。
自己感覚の変化は統合失調症スペクトラムでみられることがあります。
しかし、
今回の情報だけでは
「統合失調症が悪化した」
とは言えません。
むしろ
- 現実検討力が保たれている。
- 自分の体験を比喩として説明している。
- 主治医の勧めた作業を継続できている。
という点は保たれています。
ただし、
もし今後
- 鏡の像が実際に話しかけてくる
- 影が自分とは別人格だと確信する
- 工場の音に特別な意味があると思い始める
といった変化があれば、主治医に早めに伝えるべきサインになります。
対応
主治医の立場なら、私なら次のような関心を持って面接します。
- 「その町工場の音は、どんなふうに心に残りましたか。」
- 「風景と音は、ご本人の中では同じ種類のものですか、それとも違いますか。」
- 「鏡を見ることは今もありますか。」
- 「怖さと面白さは、今はどちらが強いですか。」
- 「梶井の文章を読むと安心しますか、それとも説明できる感じがしますか。」
こうした問いは、体験の内容を評価すると同時に、現実検討力や自己観察のあり方も確かめることにつながります。
私が特に興味深いと感じたのは、「怖いばかりではない。自分の中を覗くのは面白くもある」という言葉です。
これは、自己の内面への関心が高まっていることを示していますが、同時に**「自分で出したり引っ込めたりできる」という主体感覚**が残っている点も示唆しています。この主体感覚が保たれているかどうかは、統合失調症スペクトラムの経過をみる上でも一つの重要な観察点です。
その一方で、アルコール依存症からの回復や喪失の作業では、これまで飲酒によって距離を置いていた感情や自己像に改めて向き合う時期が訪れることがあります。その過程では、自分の内面が以前より鮮明に感じられたり、ときに不気味さや興味深さを伴って経験されたりすることもあります。そうした変化が回復過程の一部なのか、統合失調症の自己体験の変化として捉えるべきなのかは、数回の面接で断定するものではなく、時間をかけて症状全体や生活機能の推移とあわせて見ていくことが大切です。
その意味では、この方が文学作品を「症状の証拠」としてではなく、「自分では言葉にできない体験を伝えるための媒介」として使っているのであれば、その文学的な言葉を手がかりに対話を続ける姿勢は、治療関係の中でも十分に意義があると考えます。
いったんここで区切ってみよう。続きがある。コロさんは自分自身「乖離」症状に陥ってるんじゃないかと気にしてたよね。でもストレートに「乖離」かどうかと先生にたずねてない。代わりに「あの感じ」といった。そのへんは診察室の中だけに限らず自助グループの仲間同士でも結構大事なんでタマも見とくといい。こんな感じ。
「乖離」という言葉を意識的に使わないという姿勢には、臨床的な配慮を感じます。
「乖離」「解離」「離人」といった用語は、診断学的には便利ですが、本人の体験をすぐに一つのカテゴリーへ押し込めてしまうことがあります。この方は、おそらくそれを避けたいのでしょう。主治医も同じ言葉を用いていないということは、まずは体験そのものを尊重しようという姿勢なのだと理解しました。
実際、この方が語っているのは、「自分が二人になった」という確信ではありません。
「梶井のこの文章でしか説明できない」
ということです。
ここには大きな違いがあります。文学作品は、曖昧で、揺れを残したまま体験を表現できます。精神医学の用語は、どうしても体験を分類する方向へ働きます。治療の初期や喪失を扱う場面では、その曖昧さを急いで失わないほうがよい場合があります。
また、ご本人が風景ノートを続ける中で、「風景」から「音」、さらには「自分の内側の風景」へと関心が移っていったというお話も印象的でした。
これは「内界へ閉じこもる」というより、「世界との接点が広がっている」とも読めます。
町工場の音は、自分の頭の中だけにあるものではなく、外界に実際に存在する生活の音です。その外界の音が、自分の内面と響き合う出来事として経験されるようになったのであれば、世界とのつながりが失われているというより、むしろ新しい形で結びついている可能性があります。
そのうえで、梶井基次郎の引用にはもう一つ共通点があるように思いました。
(1)も(2)も、「恐ろしいもの」を描いていますが、それを単純に拒絶してはいません。
月夜の影も、鏡の顔も、怖さだけでなく、不思議な親しさや興味を伴っています。
そして、ご本人も「怖いばかりではない。面白くもある」と表現されています。
この「怖い」と「面白い」が同時に存在していることは、面接では大切にしたい部分だと感じます。怖さだけに焦点を当てると、その方の知的な好奇心や回復の力まで見落としてしまうかもしれません。一方で、面白さだけを追えば、苦しさを軽視することにもなります。
両方があることを、そのまま受け止める姿勢が、この方には合っているように思います。
ご紹介くださった経過からは、主治医が「風景を書く」という、ごく控えめでありながら継続可能な課題を提案された理由も少し見えてきました。これは症状を分析するためではなく、日々の経験を急いで解釈せず、言葉として丁寧に置いていく営みなのだと感じます。
今回のお話からは、主治医とご本人の間に、その方の体験を病名や用語よりも先に尊重しようとする対話が築かれている印象を受けました。その土台があるからこそ、梶井基次郎のような文学作品が、診断名の代わりではなく「体験を共有する言葉」として治療の中で生きているのだろうと思いました。
ふうん。風景にもいろんな見え方や感じ方があるんだね。タマもだんだんわかってきた気がする。話題は飛ぶかもしれないけど、でも、それだけじゃ昨日のシノノメさん、家の中でも外でもいろんなところにお母さんのきつい視線を見出してしまうって話は説明できそうにないよ?
だと思う。東雲さんは回復過程がゆっくりな人なんで、今は詰め込んで考えるよりもあんまり深刻すぎない実際例を上げておくのもひとつかな。
「私がさしかかっていたあの青春の一時期、特定の恋人がいない空虚さゆえかーー恋する男から惚れた相手にするようにーーいたるところに『美人』を欲し、探し求め、見出すものである。実際の目鼻立ちがわずかにでも目にとまりーー遠くから、あるいは背後から、ある女性をほんのちらりと見てーー目の前に『美人』が映し出されると、われわれは美人を見たものと想いこみ、胸を踊らせて足を速め、その女が消え去ってもいつまでも美人だったとなかば本気で信じるだろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二」岩波文庫、二〇一二年、・P.323~324)
岩波文庫にひとこと言ってやりたい。
なにかな。
ブックカバーがツルツル。爪がすべる。
それは猫事情でしょう。
プルーストだけど、人間ってどこにでも「美」を見出さずには居ても立ってもおれないってことなんだね。勘違いもはなはだしいや。著しく均衡を欠いてる。保護猫だからってうかうかしてちゃいけないんだ。いつの日かタマも飼い主にひと泡吹かせてやる。
ひとこと多い。
うかつだった。そんなわけで今日の課題曲。
ジャズだ。今日もお洒落。
坂本龍一周辺。
