Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

Blog21・退院後リハビリ創作(1998~1999.長岡京市在住時代)

落ちない肌(34)

 

入院中の女性アルコール依存症者の単独での夜間外出は原則不可。身内の葬儀出席でさえ男性患者なら外出は一泊に限るとはいえ許可されるわけだが女性の場合は一泊すら許されずなおかつ医療スタッフの付き添いが必要。

 

厳格過ぎるかもしれない。しかしそれは女性を取り巻く社会的因習を原因とする陰湿この上ない数々の罠を回避するための配慮であり医療スタッフ間では共有されているものの患者が一歩外に出れば悪意はいつもすぐそこにある。さらに悪意の側に加担しているということに気づいていない市民ならもうそこらじゅうに溢れかえっている。

 

粘り強い取り組みが必要だと言われる。日本社会の構造的な諸問題だけでなく市民レベルでどこまで理解が得られるかという気の遠くなるような課題と向き合っていかねばならないことに対してともすれば医療スタッフの中でも気持ちが折れそうになる人間がしばしば出てくる事態とも関連する。しかし市民レベルでどこまで理解が得られるかという課題について気が遠くなりそうに感じ取ることができるというのはとりもなおさず問題の根深さに気づいている証拠であり否定的に考える必要はまるでない。

 

入院中のすだちの希望を汲み取る形での決定。昼のミーティングに限り、また三人以上のグループで参加できるのなら推奨するという判断。三人以上でのグループ行動が取れない場合、例えば当事者ふたりしかミーティング参加希望者が集まらない日は最低ひとりの医療スタッフの付き添いを必要としその条件を満たす限りで参加が許される。

 

男性患者と比較すればあまりにも違いすぎる行動制限。看護師のチャや初瀬は病院の外が女性にとってどれほどどろどろした暗澹たる世界なのかつくづく思い知らされる。女性患者の目の前には殺伐とした光景が広がっているか、さもなければどこまで行っても色褪せた廃墟ばかり打ち続いているとしか思えないのかもしれない。

 

すだちのミーティング参加条件を知らされて二、三日後。

 

出勤したばかりの詰所がどこか慌ただしい。チャはなんだろうと話に加わると元生徒会長とか脅迫とかライターとかいう言葉が飛び交っている。チャの顔を見た初瀬が寄って来て説明してくれる。

 

「元生徒会長、高校生の時に生徒会長やってたことであだ名でそう呼ばれてる患者さん。二号室の」

 

「何かしたの?されたの?」

 

「した。安芸の病院からここ紹介されてはるばるやって来た三号室の若い男子に」

 

「何したって?」

 

「夜中だったらしい。元生徒会長とその取り巻きが若男子の部屋に入ってきてライターをちかちかさせながら何でおれの言うこと聞けないんだ、布団に火を付けられてもいいのかって迫ったみたい」

 

「それで?」

 

「詰所は夜中もずっと開いてんだけど、詰所の人間通さないで手前の公衆電話から一一〇番した。病院で脅されたって」

 

「警察来たの?」

 

「来た。来たんだけど今日は高木先生が朝から出勤なんで警察対応はやってくれて、問題はこちらで処理できるんで引き取ってもらったって。で今は元生徒会長と若男子のふたりを同じ病棟に置いとくなんてできるわけないから、ふたりとも気持ちが落ち着くまでどちらか一方を自宅待機させると」

 

「自宅待機って、若男子、安芸の病院まで送り返すわけにいかないじゃん。何百キロもある。途中でどっか行っちゃう。そもそもこちらで責任持って預かるって話だし」

 

「元生徒会長なら自宅は市内。ついさっき男性看護師が車で家へ送ってったばかり」

 

「他の患者さん変に動揺してないかな。院内ミーティング明後日だけど。警察来たとこ見た人いるでしょ」

 

「それね、警察は直接病棟に入ってないんだ。本館の受付で止めてもらえてたんで。でも脅迫騒ぎ自体は目の前で見てる患者さん何人かいてる。若男子と同じ三号室の人ら。かなりびびってる」

 

すっと声を落として初瀬はチャの耳元でいう。

 

「びびってる患者さんに聞いたんだけど。まあ病棟のまとめ役としてはちょっとねちっこい嫌味な感じは持ってたようだ。でもまさかあそこまでやるとはって」

 

「元生徒会長、ライターちかちかやって見せたってほんとなの?」

 

「ほんと。点けたり消したりしながら若男子の顔まで近づけたみたい」

 

元生徒会長、元PTA会長、元町内会長経験者などでしばしば顕著に見られる傾向。いつも周囲から顔を立てられていないと我慢できない。なかなか言うことを聞かない人間がそばにいるといらいらしてくる。いらいらが昂じると主治医や看護師に相談せず一部の仲間と騙り合って脅迫行為も辞さない。もし暴言を吐かれたり差別的侮辱を受けて耐えられないという話ならそれを主治医なり看護師なりに伝えればいい。たとえ上手く伝わらなかったとしても、だからといって、夜中の脅迫行為へ至るまでは距離があるように思えなくはない。

 

元優等生に多い傾向だがすべての優等生がそうだというわけでは無論なく、大人になると世の中そこまで簡単に動くわけがないと通例なら身に付いてくる。それがアルコール・薬物依存の場合、シラフで身につける機会を失った状態がつづき感覚が子どものまま温存されてしまい、対人関係におけるコミュニケーションの取り方がいつまで経ってもあまりに幼いというケースがまま見られる。

 

チャは思う。明後日の院内ミーティングはできる限り落ち着いた空気を取り戻して進行させないといけない。一日置けばそれなりに収まるはずだ。他の患者は他の患者で自分自身が抱えている混み入った事情があるため人のことにばかりかまっていられない。

 

その通り、他の患者は他人のことより自分のことで精一杯な事情を幾つも抱え持っているわけでいつまでも野次馬めいた態度を取っている暇はない。一日のあいだでそれぞれ体を休めたり考えたりしないといけないことがたくさんある。さらに院内作業や学習会も入っており他の患者同士のいがみ合いにそうそう付き合ってもいられない。

 

チャや初瀬が思っていた以上に明後日の院内ミーティングは滞りなく終わった。正直ほっとする。外来診察日でもありその後でキロと上村のコンビも顔を出した。

 

「チャさん、聞きましたよ。昨日たまたま行ったミーティングで元生徒会長だっけ?来て話してました。自宅待機中なんだって」

 

「話してました?キロさん聴いてきたのかな」

 

「先生に言われたらしいですね。君はわるくないって。そりゃ言えませんよね。お前がわるいなんて言っちゃったら頭にきてすぐ飲むのわかりきってる。頭にこなくても飲む口実をわざわざ手渡すようなもんでしょ。それよりシラフの頭で、なんでそういう手段に出てしまったのか、考えさせる猶予を与えたんじゃないかな。本人にしても内心ではなぜこういう手段使ってしまったのかって悔しさがあるだろうし。自宅待機ってのも元生徒会長がいたら他の患者がびびっちゃって遠慮してせっかくのミーティングや学習会での発言が萎縮し始めたりしたら無意味になる」

 

「ミーティングの雰囲気どうでした?他の参加者さんたち気にしてたかな」

 

「たったひと晩のうちにもう話は広がってたみたいですよ。知らない人いなかった。気にするしない以前」

 

「以前というのは―」

 

「スキャンダルなら何でも飛びついて騒ぎ立てる人ってわんさといるから。けど、患者にしろ患者家族にしろお互い助け合っていこうという人ならどのミーティングでも少なからずいるわけで、会場の雰囲気はいいともよくないともどちらとも言いがたい」

 

「―本人さんどんな感じだったかな。落ち込んだりとかは」

 

「落ち込む落ち込まないじゃないなあ、多分。チャさんは病棟で見ててどんなふうに思ってるかわからないんだけど。ひと言ひと言、ひと区切りひと区切り、話すたびにいちいち周囲の同意を取り付けながらしゃべるタイプ。元生徒会長ってあだ名付いたのはわかる。よく言えば優等生、別の言葉使えば巧妙」

 

「んん~」

 

「病気治療の現場であんなことやったら特段の理由がない限り行くとこなくなりますよ。元暴力団員でも頭にきたからってそこまでやらない。警察が受付で止まったのもこれまでの病院と退院後の患者の実績の積み重ね、開放病棟始まって二〇年以上になるのかな、それがあるからでしょう。長く実績あると、あんまり複雑な話に足踏み込みたくないってのもあるかもしれないですね。ちょっと話変わるんだけど、本人、ぼくと同学年だって昨日始めて聞いた」

 

シンクの横で点滴ボトルを整理しながら背中で聞いていた初瀬が答える。

 

「言ってた?」

 

「言ってた。けど話しがちょっと違うというか。タイミング見計らってどんな話持ちかけてくるかわからないところあるかも」

 

「どんな話って?」

 

「それがわからないんだよね。最初はひとあたりがいい。最後もまあまあ。しかしその間にほんのちょっとばかり何が言いたいのか唖然とするようなことを口にする。アルコールの他に何か疾患持ってるのか、それともわざとなのか、測り難い」

 

「―」

 

「これ以上ぼくにはわかんないですね。この件は」

Blog21・二代目タマ’s ライフ651

二〇二五年八月十二日(火)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

 

タマね、今日も飼い主の九〇年代ノートレポート見たよ。作業療法って最近になって時々耳にするようになったんだけど、例えば作業療法作業療法士のことをOTって呼ぶんでしょ?けど九〇年代すでに病院の文化祭に繋がってる作業もいろいろあるんだ。

 

あるよ。中でも茶道はアルコールの女性病棟では人気の作業だった。茶道経験者が多かったから。でも茶道だけが万能ってことはなくて他にもいろいろある。茶道でいえば比較的若い頃に手に入れた茶道具を質に入れてお酒に代えて飲んじゃうとかになるとそれはもう病気だから解毒して入院治療に入るしかなくなってくる。お茶はお茶でも喫茶室の運営・接客もあってさ、そっちのほうが得意って人は喫茶室希望すればいい。ほとんど崩壊してしまった生活リズムを整え直す、新しい生活スタイルを身に付ける、対人関係を見直して再構築するというところに主眼があるわけでね。そもそも規則的な生活リズムが身に付く前の中学時代とか高校時代から親兄弟姉妹の面倒を見ないといけないような生育環境で育ってきた今でいうヤングケアラーもいるし、そこらへんは臨機応変に柔軟な対応が認められてた。だから作業も多種多様。音楽できる人は音楽だし。

 

違いってあるの?

 

向き不向きはあるけど基本的に作業自体には形の違いしかない。朗読にしても絵画にしてもレクレーションのソフトボールにしても。重視されるのは作業形態の違いじゃなくてさ、違いっていうのは、例えば絵画なら病気になる前は自分が絵画やるだけで無意識にでもそこに何らかの価値を感じられてたから無意識でいられたわけだけど、この病気になるともはやどんなことをやってもどんな仕事でも自分のやってる作業にひとつも価値を感じられない、なんの意味も見出せないとなってるってところ。価値ある作業に従事してるという気持ちを取り戻すことができないままだと、退院しても自分が生きてること自体が無価値に思えてくる。その切り換えには結構時間がかかるし依存症だと酒にしても薬物にしてもギャンブルにしても死ぬまで抱えていくほかない病気だから作業やっとくことでその後の暮らしぶりを少しでも変えていけるちょっとしたきっかけ作りにはなる。仕事依存の人もいるから作業中に適切適度に休養を取ることができるかってところも大事。

 

落ち葉の掃除が園芸に繋がってるって言われてみて始めて腑に落ちた。

 

飼い主ね、入院中に落ち葉拾いやったことあるよ。職員用ガレージの奥はもう山の中でガレージへ続く道路の両脇も林になってるから落ち葉ならいくらでも拾えて竹箒で集める。今日の連載に出てるように業務用の四十五リットルの青色のポリ袋へ十個くらい腐葉土を満載するんだ。それを病院内の植え込みの土にしてもらって季節の花を育てるって流れだったかな。

 

すだちは昼ミーティングなんだね。

 

そのへんは入院する専門病院によって決まりが異なってくるんだけど女性の外出は結構厳しい。外に出ると当事者がお金持ってなくても声かけてくる男がいるでしょ。お金ほしいなら体買うよ?って軽々しく声かけてくる。そういう男は今でもいる。今日の連載でちょっとだけ出てきたんだけど看護師の初瀬が付き添いを名乗り出て目を光らせてんのは女性患者がともすればその種のトラブルに巻き込まれて失敗しないための社会問題的な見地から。さらに性的トラブルだけじゃなくて何だかふらふらした感じの女性のひとり歩きを見つけるとカルト信者が声かけてくる。まだまだつらい思いでいっぱいの女性だと言葉巧みなカルトへずるずる引き込まれてわざわざパンフレット買ってしまったりしやすい。ミーティングへ出かけるはずの交通費をそこで使っちゃったら本末転倒でしょ。それも女性差別的な社会構造がずっと温存されてきたことに問題があるわけで、初瀬みたいなタイプの医療スタッフの付き添いは女性のプライバシー保護の観点からも重要。

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落ちない肌(33)

 

面会へ行った翌週。すだちのミーティング回りについて亜美は病院から連絡を受けた。

 

院内での生活態度が良好な点とすだち本人が強く希望している点、さらに重要なことだが院内プログラムを順調にこなしている点などを総合的に考慮して条件付きでミーティング参加許可が得られたとのこと。看護師のチャが電話で伝えてくれた。

 

昼のミーティングに限り、また三人以上のグループで参加できるのなら推奨すると判断されたようだ。原則的に女性アルコール患者の夜間外出はとても危険なため安全確保に難点があり単独での外出は許可されない。薬物もそうだがアルコール症というのは一滴でも酒が入ればたちまち連続飲酒状態へ舞い戻ってしまうのであり、女性では医療スタッフの同伴なしにもし単独で夜間外出した場合、ただ単なる再飲酒というばかりか取り返しのつかないような性犯罪に巻き込まれてしまう可能性が男性患者よりはるかに高い。

 

さらに男性と違って日本独特の男尊女卑的な風潮やレッテル貼りゆえ自分で自分を責める自罰感情が強い。退院後も周囲の理解が得られず夜間の単独行動が自殺へ繋がるケースは後を絶たない。

 

チャの電話があった翌日、亜美は面会へ出かけた。ようやく真夏日を越したようで夜はエアコンを消して眠れるようになってきた。それでも昼間はまだ暑い日が続いている。

 

「話聞いて来たんだけど。すだちも聞いた?」

 

「うん、聞いた。昼のミーティングなら顔出してもいいんだって。出る時は三人以上でって言われてる」

 

「夜はだめなのかあ。まだまだ怖い世の中なんだ」

 

「まあでもね、相部屋の女の人も一緒だし、それでふたりでしょ?あと話を聴いてもらえるところがあればミーティング行きたいって人は結構いるみたいだ。男の人がいると話しにくいことでも女性限定ミーティングなら言わせてほしいって感じかな」

 

「それ多いよね。めちゃめちゃ多い。男だけで成り立ってる世界じゃ決してないって見たらわかるでしょって思うもんね。看護師の初瀬さんも何かのついでみたいにそんなことちょろっと言ってたような。あまり覚えてないけど」

 

「初瀬さんで思い出した。出席希望者が三人以上集まらなくてふたりの時は医療スタッフの付き添いがあればミーティングに出れるんだって。初瀬さんが付いてきてくれるって言ってる。なんでかな」

 

「初瀬さんは看護師であたしたちは患者だって立場の違いはあるんだけど初瀬さん、結構厳しいとこある。男の人見てるとき」

 

「ああ、あるかな。態度には出さないけど空気でわかるよね。でもなんでかな」

 

「あたしも詳しくは知らない。こちらからわざわざ訊くことじゃないだろうし。でも家庭内暴力とか女性特有のつらい話になるとひと際耳澄ましてるのはわかる」

 

「それでかなあ。人数集まらない時はわざわざ付き添ってくれるって。単なるお目付け役ってだけじゃないみたいだ」

 

「それはそうとお抹茶、美味しく頂けそうかな?」

 

「習ってると楽しいなあって思う。あたしとしては人生初。お茶点てさせてもらえるんだよ。それにね、初回の入院の時は文化祭の時期じゃなかったからわかんなかったんだけど、女性のアルコール病棟って若い頃にお茶習ってたって人が結構いるの。亜美は知ってるかもだけど。お茶碗手に取ってなんとか焼ってわかるんだね。好みの茶碗もそれぞれ違っててその話になるといつになく盛り上がる人いてる」

 

亜美はすだちに話していないが亜美も就職して結婚するまでは近くの茶道教室に通っていた。子育てに追われ出した頃も通ってはいたのだが、夫から暴力を受けるようになり急速に足が遠のき通うこともままならずメイクだけでは隠しようのない顔面殴打が始まってしまいぱたりと止めてしまった。夫の暴力が始まって一週間と経っていない。後頭部も割られてしまうのではと言いようのない恐怖を感じた。メイクなら拭き取れば落とせる。けれど殴られて生々しく変色した肌の傷は落とせない。肌の傷はそのまま心の傷として胸の奥深くとぐろを巻いてでもいるような気が今でも蘇ってきそうになる。

 

なるほど学習会へ行けばトラウマという簡略な言葉で語られてはいるものの、亜美の体の奥底深く乱暴に刻み付けられた傷跡はトラウマという言葉だけで語ろうとしても到底語り尽くせるものではなく、それについて懇切丁寧にしゃべり始めたとしたらいつまでも、おそらく永遠にひとりでしゃべり続けることだろう。もし誰かが強引にでも止めてくれなければ死ぬまでずっとしゃべり続けしゃべりまくりずっとずっとひとりで、そのうち誰も見ていないというのにまだずっとしゃべり続けるのだろう。頭が壊れてしまうに違いない。人の頭を壊してしまうには何も後頭部を床にごんごん叩きつける必要はないと思い至る。

 

そんな時はさっさと気持ちを切り換えないといけない。しかし切り換えに慣れてくるとこんなふうにすだちとふたりで抹茶の話のひとつもできるようになる。何年か前までは茶席と聞いただけで身震いが止まらなくなることがあった。夫の暴力と結びついた忌まわしい記憶に襲いかかられ道端でうずくまって動けなくなることもあった。何度メイクしても落ちない傷のおぞましさ。肌の奥深く心の芯まで巣食ってしまいもはや落ちそうにない傷。熱心に学習会へ顔を出している女性の中でこんな想いを抱えている人はどれだけいるのだろう。山ほどいるに違いない。亜美ひとりが自分だけを憐れんでいるわけでは毛頭ない。しかしあの夫はなぜ感情のコントロールの仕方を学ばなくて済まされているのか。亜美はそこへ来ると今なお理解に苦しむ。

 

すだちははにかむような愛嬌を見せて亜美に続ける。

 

「お茶席っていえばさ、お花が付いてくるでしょ?」

 

「うん、付いてくる」

 

「あたしお花育ててるんだ」

 

「園芸だね。それも作業療法に入ってる」

 

「この前見てたら業務用かなあ、大きな青色のゴミ袋みたいなのあるじゃん。それが十個くらい作業場に運び込まれてた。中にお花育てる土が入ってるの」

 

「あはは、それどこから来たかわかる?」

 

「亜美知ってるの?」

 

「へへへ」

 

「知ってるんならもったいぶってないで教えてよお」

 

「病院の奥に職員用のガレージあるでしょ?結構大きめ」

 

「あるある」

 

「あのあたりは落ち葉でいっぱいになるの。林の中へほんのちょっと入るだけで腐葉土がたくさん取れる。それを一度まとめて何かの土とブレンドして培養土にしたのが園芸用」

 

「でも大きなゴミ袋みたいなのが十個もだよ?どうやって持って来るのかな」

 

「一体誰がたくさんの落ち葉をかき集めて腐葉土取って来るかっていうと、男性患者なんだ」

 

「あれ?そうなの?全然知らなかった。あそこの掃除も男性のアルコール病棟がやってるわけ?」

 

「そう。ただの掃除だって思ってる患者も多いけど患者の中には自分がやってる作業が次は何になってどこへ回っていくかわかる人もいるわけでね。でも言わないなあ。四〇歳くらいの依存症者だと入院するまで職業転々としてる男の人っているからさ。そういう患者なら想像つくよね」

 

「あたし想像つかないや。想像力欠如してるのかなあ。経験が浅いのかも」

 

「そりゃわかんない人にはわかんないよ、想像力の欠如じゃなくて。一度に説明されてもぴんと来ないんじゃないかな」

 

思ったより元気そうなすだちとの会話は亜美にとってもいつしか心の支えになっていることに気づくのだ。

Blog21・二代目タマ’s ライフ650

二〇二五年八月十一日(月)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

 

タマね、今日も飼い主の九〇年代ノートレポート見たよ。またまた大変なことになってきた。ガソリンかぶって自殺って。

 

男性患者で灯油とかガソリンかぶって焼身自殺とかはあるよ。珍しくない。どうやって手に入れるのかあんまりわからないんだけどピストルで自分の頭ぶち抜くとかも。

 

あるの?

 

ある。あの世界では。特に女性患者に対する嫌がらせというのは無数にあって、今でいう性的マイノリティ迫害もそうなんだけど、なんとしてでも自殺へ追い込んで笑い物にしてやろうって悪意に満ちた人間は今なおうろちょろしてる。そんな世間が続いてる限り終わらないと思うね。

 

そんなのあんまりだあ。すだちもキャメもこれからだっていうのに。

 

心配ない。ガソリンの誤飲とか自殺目的で飲んだとしてもよほどでないかぎり対処法があって、しばらく時間はかかっても点滴受けて体内の血中濃度を下げていけば元に戻る。九〇年代はシンナーとかトルエンが手に入らなくなるとさ、高校生だと免許取れるんでバイクからガソリン抜いてビニール袋に詰めて吸い込んで顔色がドス黒くなってる女子っていたし。それより長々と書いてるのは社会の空気。この手の悪循環はなぜ起こるのか、しかし傷つきながらもやり直して生きてる人が実際にいるってこと。だからそっくり似たような経験してる被害者はミーティングに出ればたくさんいてね、そういう人とどうやって出会っていくのか、一度仲間ができると多少のことでメンタル折れるなんて激減するし、逆に足の引っ張り合いしたがる人もいるけどそんな時はどう切り換えるか、それが今後のすだちやキャメの課題だね。何回か前にすだちの生育歴は結構具体的に書いたでしょ?ああいうケースがまだ山ほどあった時代。

 

秋の文化祭に間に合うのかな?

 

間に合ったから知ってるわけ。出かけて行ってお茶席見たらいてた。ちなみに飼い主は男性病棟でたこ焼き売ってた。それはそれとしてむずかしいのは入院中ね、文章読めるってんで病棟患者のサブリーダー役回ってきたことあったんだ。盆休み、秋の行楽シーズン、年末年始の公共交通機関の変速ダイヤに合わせたミーティング回りの時刻表作成とか、いろいろやったなあ。自分の治療より他の患者さんが迷子にならないようひとりひとりに説明して回らなきゃなんない。ミーティングは夜が多いから一度迷子になると帰りがわかんなくなってつい自販機で飲んじゃったってなると困るし。性格的に合わない患者がいたとしても苦手だからって理由で対応に差を付けるのはおかしいしね。のぼせ上がっても許される政治家とかならそんなことできるんだろうけど現実社会ってのはそこまで甘くない。

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Blog21・退院後リハビリ創作(1998~1999.長岡京市在住時代)

落ちない肌(32)

 

亜美の説明を聞いてすだちはいう。

 

「そんなふうになってるのかあ。じゃあ今度の文化祭であたし習いたてのお抹茶点てるけど、その時の入場券で捌けたぶんは作業療法とかレクレーションで使う交通費とか、お抹茶なら茶道教室の備品購入に当てられるんだ」

 

「そういうこと」

 

「ただ単にお客さんが来てくれて売れればいいってわけじゃないんだ」

 

「そうだよ。もっと詳しい話が聞きたければ看護師さんでもケースワーカーでも尋ねてみれば説明してくれる」

 

「一回目の入院はもう日々のプログラムこなしていくだけで精一杯だったからそこまで気が回らなかった」

 

「そんなもんだよ。あたしだって四年前になるかな。それだけで精一杯だった」

 

ふたりは喫茶店で別れ、すだちは坂道をてくてく歩いて病院へ戻っていく。亜美は案外元気そうなその後ろ姿を見送りながらすだちが泥酔してベンチで寝転んでいた時のワンピースのことをどうするか、話すべきか話さず放置しておくのがいいか、今すぐ話すべきでないとは思うもののミーティング回りが始まれば公共交通機関を利用するわけでいつどこで目に入るかわからない。

 

山王木場町から親王木場町付近の繁華街に立ち並ぶ雑居ビルには中古レコード店古書店、ジャズ喫茶なども入っている。キロはしばしば立ち寄り何かめぼしい中古品がないか結構覗いて回ると亜美は聞いていた。中古レコードにしても古書にしてもこれというものを見つければすぐ買わないと翌日にはもうないというのがその世界では当たり前のようだ。

 

そんなある日の北小路ミーティングでいつもより早い時間にキロが顔を出した。ひとつ早いバスに乗ったらしい。亜美を見つけると何か話がありそうな目を向ける。インスタントコーヒーと麦茶の用意を済ませたところで少し時間が空く。

 

「亜美さんこんにちは。上村はいつものバスで来ると思いますんで。もし急ぎでなければお時間取れますかね」

 

「ミーティングまであと三〇分ほどかな、それまでなら」

 

「ミーティングルームだとちょっとまずいかも知れないんですけど」

 

「じゃあ隣の部屋でうかがいます。多少散らかってるのは勘弁してもらって」

 

話というのはこうだ。

 

キロがよく立ち寄る雑居ビルの古書店を出たあと見慣れない看板が目に付いたという。繁華街の雑居ビルでテナントの回転が早いのは当然としても先日すだちの大量飲酒に伴う放浪癖と寝転がりがあったばかりで看板の名前が気になり覗いてみたらしい。店名は「路上アイドル秘宝」。

 

「路上、アイドル、秘宝?」

 

「写真なんですが三枚買ってきました。これです。見てもらえますか?」

 

亜美はおそるおそる手に取る。

 

「は?なにこれ!?」

 

思わず絶句しそうになる。

 

「すだちさん、泥酔して石賀茂車庫のベンチで横になって居眠ってたって聞いたんですけど、多分その間に誰か写真撮って逃げたんでしょう」

 

ベンチで横たわるワンピース姿のすだち、顔のアップ、両脚のほうから覗き見るアングルで撮られた丸見えの下着。

 

「どこかで見覚えのあるワンピースだと思って。写真は三枚ワンセットで売られてました。すだちさん、そろそろミーティング回りで市内のあちこち出ますよね。もし目に入ったら」

 

「困る、困ります」

 

「被害届出してもまともに取り合ってもらえるかどうか。それにすだちさんの意向を聞かないまま被害届出すわけにもいかないでしょう。そもそもこんなの見たらすだちさんもう耐えられないかも、と一瞬思ったんですが、そうでもないかなと」

 

「―」

 

「アイドルと銘打ってますけど店の感じからすると女性が入れるような雰囲気じゃとてもないです。手分けして買い占めてもネガがどこにあるのかわからなかったら徒労だし。けど、必ずしも耐えられないとは限らないですよね、すだちさん」

 

「というのは?」

 

「例えばキャメさんだって随分おかしな写真を職場でばら撒かれた被害者です。それ聴かされてるすだちさんにすれば外に出たらどんな事態が待ってるかある程度予想はついてると思うんですよ」

 

「すだちはすだちなりにこれまでの性被害に対する耐性ができてると。残酷というか随分変な言い方かもしれないですが」

 

「ええ、確かに変な言い方になってしまうんだろうと思うわけですけど。かといって病院に連絡してもミーティング回りは必須ですから始まります。一旦中止してほしいと頼み込んでも入院期間が延びるか自宅待機になるかどちらかだけでいずれミーティング回りはこなしていかなきゃなんない。キャメさんはそれ乗り切ってきた。そんなキャメさんの過酷な体験談をすだちさんはもう何回も聴いてるわけで。それなりの覚悟はあるんじゃないでしょうか。ミーティングに出かけるの拒否してないみたいだし」

 

「賭けるしかないと」

 

「賭ける賭けないというより時間が止まってくれるわけじゃないでしょう。巻き戻しなんてもっとできない」

 

(そう、巻き戻しはない。できるのはやり直すことで生き直すことだ―)

 

「この写真は亜美さんにお渡しします。しかしもうひとつ、むしろ気になるのはキャメさんかもしれないと思ったんですよ。もしキャメさんがこれ見たら爆発しないでいられるかな」

 

(あり得る。もしかしたらそっちのほうが危ない―)

 

キャメはいわゆる美人タイプで学生時代からずっと、会社員になったらなおさら、いろんな男から弄ばれ散々嫌な目に遭わされ死ぬことばかり考えてきた。ミーティングで話す時はそれほどでなくても関係のない世間話の途中でがらっと豹変し殺意とも呪詛ともつかない言葉を口走ることがある。盗撮されたすだちの写真が売りに出ているのを見たりしたらその店に怒鳴り込んでそれこそガソリンをかぶって火を放ち雑居ビルもろとも自分で自分を吹っ飛ばしてしまうかもしれない。

 

もしそんなことが起きれば、しかしマスコミは、酒と男に狂った女の逆恨みでなんの罪もない多数の一般市民を巻き添えにしたと、まるっきり勘違いなことしか言わずただ単なるスキャンダルで金儲けすることしか考えていない。

 

今日の診察と面会ですだちに言い出せなかったワンピースの話とはそのことだ。すだちお気に入りの白地に薄紫色の薔薇の花柄―。

Blog21・二代目タマ’s ライフ649

二〇二五年八月十日(日)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

 

タマね、今日も飼い主の九〇年代ノートレポート見たよ。専門病院で文化祭ってあるの?

 

あるよ。ただ単に入院して体を治すだけじゃなくて開放医療を取り入れてる病院ではレクレーションもいろいろ用意されてる。社会復帰支援に向けた取り組みが治療プログラムの中へ何かと組み込まれてるんだ。精神疾患を発症する前に職場でのいじめや性被害、家庭内暴力、受験失敗とかで自信を失くしてしまってる患者に少しずつでも自信を取り戻してもらうのは大事だよね。しかしそもそも自信というものが何なのか知るきっかけのないまま生まれ育って統合失調を患った患者も結構いるわけで、それでも退院後のいじわるな社会の中で、年齢性別問わずせめて地域の作業所へ安心安全に通っていけるような数々の取り組みが用意されてる。

 

すだちは秋の文化祭でお抹茶やるって言ってるけど、お茶を点ててお客に出す作法とかどうやって身に付けるの?

 

道教授の免許持ってる人がボランティアで教えに来てくれる。看護師の中にもお茶できる人いるし。希望者は女性が多いんだけど入院するまでお茶なんて全然やったことのない患者さんでも、せっかくの機会だから初心者クラスでいいので身につけてみようと思う人って出てくる。手元がまだまだおぼつかないのは致し方ないとしても大事なのは気持ちだよね。ちょっとした習い事でもできるようになると退院後に社会復帰したときの心の余裕が違ってくる。特に学校・職場でのいじめや性被害、家庭内暴力がトラウマになってわだかまってる女性の場合はもうまるで自信失ってる人多いんで、ひとりの部屋でもゆっくりくつろげる技術というかな、心のゆとりが持てるようになると読書でも勉強でも趣味や習い事でもそのとっかかりさえ掴んでおくとさ、そう簡単に自殺行為の繰り返しへ戻ったりしなくなってくるのは確か。

 

飼い主は病院の文化祭のお茶席見たことあるの?

 

あるよ。入場券買ってお茶と和菓子出してもらった。ひと部屋で一度に入れるのは六人くらいだけどがらがらってことはなくて逆に満席になることもなくて、適当に他の患者や看護師が覗きに来てお茶頂いてく。どの人が女性のアルコール・薬物患者なのかは男性病棟にいてると知らないんだけど、茶碗を扱う手つき見てると見当がつく時はあるよね。でも何の病気患ってるのかはいちいち尋ねたりしない。初対面の人のプライバシーへたやすく踏み込むもんじゃない。

 

たこ焼きは?

 

依存症っていっても男性患者は酒抜けるとやたら元気出てくる人いるわけ。昔は何やってたのかわからなくても大きな声で「たこ焼きいかがっすかあ」ってやり始めて文化祭盛り上げるのがその患者の役割かなって、看護師が手取り足取りやらなくてもだいたい決まってくる。

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Blog21・退院後リハビリ創作(1998~1999.長岡京市在住時代)

落ちない肌(31)

 

すだちの退院予定は上手く行けば十一月半ば。北小路ミーティングはどたばたしながらも穴を空けることなく続いている。コロと美佳のふたりは専門病院入院経験がないためミーティングから突如姿を消したすだちがどこでどうしているのか始めはよくわからなかった。ミーティング前後の雑談に耳を傾けているうちに入院中だと聞かされた。院内から定期的に通えるようになるのは早くて一ヶ月後ほどになるだろうと。はにかむような笑顔でにこにこ話すすだちの印象からはなかなか想像できない。

 

キロと上村のコンビは相変わらずで再飲酒や再入院などざらにあると知っているのだろう。まるで動揺していない様子。むしろキロがいうには大量飲酒とクスリのちゃんぽんで外出してよく死なずに済んだと亜美に話しかけている。身に覚えがあるようにも聞こえる。上村はよくある話だというふうにいつものだんまり。

 

葵は少しばかり複雑そうだ。父親の槙島と同じ時期にすだちが同じ病院で治療プログラムをこなしているということは槙島とすだちが廊下なり売店なり病院近くの喫茶店なり、どこかですれ違っていてもおかしくないわけで、とはいうもののふたりに面識はなくすれ違ってもお互い相手が誰なのか、どんな病気で入院しているのかさっぱり見当がつかない。愛嬌たっぷりのすだちと元暴力団員で憂鬱そうな槙島が実は同様のプログラムに乗っていてふたりとも入院治療は二度目という点でも一致していること自体がどこかユーモラスな組み合わせに思えなくもない。

 

すだちのCTスキャン画像が上がってくる頃、亜美はすだちの診察に同席した。高木の所見ではこれといった脳萎縮は見られないものの今後どんなダメージが症状として出現してくるかは今のところ未知数だという。もっとも脳がどんな様子なのかCT画像を見たいと希望すれば見せるのだが、女性の場合は見たくないという患者が結構いるので所見を述べるに留めている。ただすだちが今回のような飲み方をもし続けたとすればおそらく三〇歳を待たずして頭蓋骨のところどころから脳が徐々に剥がれ萎縮した部分が見られる可能性は高いという。男性の場合でも依存症になり飲酒を繰り返していると三十五歳くらいで脳萎縮した部分に水溜りができているのがよくわかる。

 

残酷な話かもしれない。だから男性でも見たくないという患者には見せない。亜美はこれまで何度も聞いてきた話なので動揺しなくなったけれどもすだちはどこか興味本位なところがあり、自分の脳の状態がどんなふうな画像になって映っているのか覗いてみたいという好奇心を口にしたりする。もしそれを見たとして想像を越えた状態が映し出されるかもしれないし、見た瞬間ショックのあまり動揺を抑えきれずまたまた再飲酒してしまえば元も子もなくなる。

 

男性患者のエコー検査で肝臓がかなりのダメージを受けて変形していてもたかが肝臓のことであり酒をやめていさえすれば大丈夫だろうとさほど動じないことは多いが脳のCT画像を見て内心動揺を隠しきれないケースは幾らでもある。脳萎縮が進行している場合退院時に今後の自分に対する戒めにとその画像のコピーを取ってくれと頼む患者がたまにいるけれどもそれは医療行為ではなく画像流出防止は医療機関が遵守すべきプライバシーの問題でもあり本人が希望しても不可とされる。医療機関の信頼に関わるだけでなく一度コピーが流出すればコピーのコピーがどんどん出回り患者本人の知らないところで誹謗中傷ビラを撒き散らされ後で本人自身が悔やんでも悔やみきれない事態へ陥る可能性ならいつでもある。

 

診察室を出たあとバス通りに面した喫茶店でアイスコーヒーを飲みながら亜美はすだちと話した。

 

「そろそろミーティング回りだね、すだち」

 

「うん。週に三回はどこか顔出さないと」

 

「やれそう?調子は」

 

「やらないと退院できないし。相部屋の患者さんも誘ってくれてる。あのね、あたしこれまでJR遷都駅から南のほうのミーティングって行ったことなかったんだけど、ちょっとだけ年上の人が一緒に行かないかっていってるの」

 

「南っていうと牛見稲荷病院とか西久保公民館の女性ミーティングとか」

 

「そうだね。その人は自宅が近いみたい」

 

「一緒に行けるんならそのほうがいいよ。馬が合うんならおしゃべりしてるうちに往復なんてすぐだし」

 

「入院したのもおんなじ頃。あたしベッドが空くまで医科大で待ってたでしょ?満床だからって。ちょうどその人が入院したんで満床になったらしい。だからほぼ同期」

 

「よかったじゃん。退院まで一緒に回りなよ。年齢も近いんだって?」

 

「そう。北小路に来てくれたキロさんや上村さんと多分おんなじ。キャメや葵さんも一緒だね」

 

(そういえば―)

 

コロと美佳も同じだ。比較的若いだけではなく学生時代とバブル全盛期が重なっているという共通点がある。あの頃社会人一年生になった女性は男女雇用機会均等法第一世代に当たるのだが亜美の周囲では裏切られた、あんなの嘘っぱちもいいところだという声が結構強い。十年近くが経ち多くの課題が噴出しつつある。

 

女性の飲み方も変わった。街の至るところにコンビニや大型スーパーが林立し買い物ついでに気軽にアルコールを買い物かごへ放り込める。昔のキッチンドランカーとはまるで違っており後ろめたさがなく明るくぐびぐび。

 

その一方バブル崩壊後どの企業も雇用条件はがらりと変わり一転して厳しさは増すばかり。憂さ晴らしのやけ酒とやけ食いの繰り返しで摂食障害を発症する入院患者が急増している。摂食障害は酒絡みが多くミーティングへの問い合わせは毎日のようにある。それと並行するように市販の痛み止め依存も見るみる増えている。

 

「あ、そうだ」

 

すだちは思い出したようにいう。

 

「同年齢ってことで言えばチャさんや初瀬さんもおんなじじゃなかったかな」

 

「ん?そう、そうだね。確かそうだ」

 

「偶然って面白いね。あたしは年下だけどなんだか急に友だちが増えた気がする」

 

「やあそれはさあ、そう思えるのは多分すだちがいい人だからだよ。変な意味じゃないけどどのメンツ見てもそれなりに結構癖あるし。あたしも癖あるけど」

 

「癖ってどう見ても変な癖の人でちょっとかなわないなあって癖もたまに見かけるけど、特に病院のそと出ると。まあそれはおいといて、癖ってことでは最近こだわってることあるんだ。癖というより趣味」

 

「なにかな?」

 

「順調に行けばあたしの退院って秋もかなり深まる頃でしょ?そのひと月くらい前に病院の文化祭あるじゃん」

 

「ある。あたしも何度か呼んでもらった。このへん紅葉がきれいで」

 

「きれいでしょ。あたし今度の文化祭でお抹茶やるんだ」

 

「抹茶?ああ、あったなあ。和菓子もちゃんと付いてくるやつ」

 

「まだ内緒だよ」

 

「わかった。ちなみに男性のアルコール病棟も何かやるでしょ?一番派手っていうか目立つ」

 

「たこ焼き」

 

「そうそう。なんで毎年たこ焼きなんだろ」

 

「あたし始めて見せてもらったんだけど、大きなたこ焼きプレートが二台くらいあるよ、あっちの病棟。テキヤさんできそうな」

 

「たくさん作ってたくさん売るよね。統合失調の人たちもぞろぞろ買いに集まる」

 

「売れたぶんどうしてるのかなあ。山分け?」

 

「んなわけないじゃん。レクレーションで山登り行く時の交通費とか積み立ててる。真冬でも病院の敷地内に落ち葉や枯れ葉が溜まってきたら掃除するの。単なる作業療法って意味だけじゃなくて労働賃金に換算してそれも積み立ててる」

 

「そうなんだ」

 

「掃除する時の竹箒の補充もそこから出すの」