カントによる次の文章は、あらゆる物事について批判するばかりではなく、批判しつつ批判を「限界内に制限する」こととの両立を宣言している。
「三個の認識能力の批判は、これらの能力がそれぞれア・プリオリに成就し得るところのものについて行なわれるが、しかしこの場合に批判そのものは、対象に関しては本来領域というものをもっていないのである。批判は積極的な主張的理論ではなく、むしろ我々の認識能力の在り方にかんがみ、かかる理論がこれらの能力によって可能であるのかどうか、また可能であるとすればどのようにして可能であるのかということを研究するだけだからである。批判の占める土地は、我々の認識能力がややもすれば犯すところの一切の越権行為に及んでいる、批判の旨とするところは、これらの能力をそれぞれその合法的な限界内に制限することだからである」(カント「判断力批判・上・P.30」岩波文庫)
従ってそれは極めて「倫理的」と呼ばれて構わない場所、あるいは両者の「間に身をおいて」始めて成立するだろうような場所だ。
さて、「普遍的」《と》「一般的」との区別について、さらにカントからヒントを得たいと思う。
「或る人が(ありとある感官的享楽を与えるような)快適な事物を持って、自分のお客達を供応し、満座の人達に快いようにもてなすすべを心得ていれば、我々は彼を評して『あの人は趣味がある』と言うのである。しかしこの場合における〔適意の〕普遍性なるものは、比較的〔相対的〕な意味しかもたない、つまりそこにあるのは《一般的》規則(経験的規則は、すべてこのようなものである)にすぎないのであって、《普遍的》〔即ちア・プリオリな〕規則ではない、しかし美に関する趣味判断が確立しようとするところのもの、或は要求するところのものは、まさにこの普遍的な規則なのである」(カント「判断力批判・上・P.88」岩波文庫)
「《一般的》」な規則は「比較的〔相対的〕な意味しかもたない」。一方、「《普遍的》」な規則は「ア・プリオリ(先験的)」なものでなくてはならない。「比較的〔相対的〕」なものに過ぎないわけにはいかないのだ。別のところで同じことが述べられている。
「経験的規則は帰納によって成立するものであり、けっきょく比較的〔相対的〕な普遍性ーーー換言すれば、広い範囲に亘って有効であるという性質しかもち得ない」(カント「純粋理性批判・上・P.169」岩波文庫)
「広い範囲に亘って有効であるという性質しかもち得ない」場合、それは結局、「比較的〔相対的〕な普遍性」=「一般性」に留まるほかない。そして「幸福・自愛・享楽」などの個人的欲求もカントは次のように「傾向」と呼んで退ける。
「傾向の対象は、いずれも条件付きの〔相対的な〕価値しかもたない、それだからこれまで存在していた傾向と傾向にもとづく欲望とがいったん存在しなくなると、傾向の対象は途端に無価値になるだろう」(カント「道徳形而上学原論・P.101」岩波文庫)
「傾向」(幸福・自愛・享楽)はその時その時でたちまち変化していく。一時の流行のように儚い。「一般性」を持つにせよ「普遍性」を持たない。なぜなら「いずれも条件付きの〔相対的な〕価値しかもたない」からだ。では、「条件付き」でない「無条件」なものなら「普遍的」なのかというと、必ずしもそうではない。カントは「無条件」というカテゴリーのうちに「拘束性=縛り」を見ている。それは暴力的強制性を発揮してしまわざるを得ないからだ。従って「普遍的」はイコール「無条件」であることを意味するわけではない。そうではなくて、カントはこう述べる。
「趣味判断において要請されるところのものは、概念を介しない適意に関して与えられる《普遍的賛成》にほかならない、従ってまた或る種の判断ーーー換言すれば、同時にすべての人に妥当すると見なされ得るような美学的判断の《可能》にほかならない、ということである。趣味判断そのものはすべての人の同意を《要請》するわけにいかない(このことをなし得るのは、理由を挙示し得る論理的ー全称的判断だけだからである)、ただこの同意を趣味判断の規則に従う事例としてすべての人に《要求》するだけである、そしてこのような事例に関しては、判断の確証を概念に求めるのではなくて、他のすべての人達の賛同に期待するのである。それだから普遍的賛成は一個の理念にほかならない」(カント「判断力批判・上・P.93~94」岩波文庫)
趣味判断において「普遍的」であることは「人の同意を《要請》するわけにいかない」と。ややもすれば暴力的強制に陥りがちな「《要請》」ではまったくない。押し付けになってしまってはいけない。
孔子はいっている。
「己れの欲せざる所を人に施す勿れ(自分がしてほしくないことを、他人にしない)」(「論語・第十二・顔淵篇・P.324〜325」中公文庫)
だから「普遍的」であるということは「同意を趣味判断の規則に従う事例としてすべての人に《要求》するだけであ」り、同時に「他のすべての人達の賛同に期待する」ばかりである。従って「普遍的賛成は一個の理念」だと捉えるべきなのだ。
しかし、そこでたちまち問題が出てくる。もしただ単なる「理念」でよいのなら、頭の中で妄想するだけでも構わないという意味すら含んでしまう、ということが大いにあり得る。そこでカントは幾つかの命法を提示している。
「《君は、〔君が行為に際して従うべき〕君の格律が普遍的法則となることを、当の格律によって〔その格律と〕同時に欲し得るような格律に従ってのみ行為せよ》」(カント「道徳形而上学原論・P.85」岩波文庫)
「《君の行為の格律が君の意志によって、あたかも普遍的自然法則と〔自然法則に本来の普遍性をもつものと〕なるかのように行為せよ》」(カント「道徳形而上学原論・P.86」岩波文庫)
「《君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない》」(カント「道徳形而上学原論・P.103」岩波文庫)
これだけ列挙されると正直なところ疲れはする。けれども問いはどんどん出てくる。差し当たり、これらの厳格な命法について一体どのようにすれば両立することができるだろうか。こうある。「意志の自由」に関わる。
「意志は、ただ訳もなく法則に服従するのではなくて、《自分自身に法則を与える立法者》と見なされねばならないような仕方で服従するのである。つまり意志はかかる普遍的立法者であればこそ、法則(意志は、自分自身を法則の制定者と見なしてよい)に服従するのである」(カント「道徳形而上学原論・P.108~109」岩波文庫)
だがここでさらに問題が転がり出るのだ。「意志」とともにあるべき「自由」とは何だろうかと。基礎的レベルでカントは「自由」を次のように規定している。
「自由というのは、或る状態を《みずから》始める能力のことである。従って自由の原因性は、自然法則に従ってこの原因性を時間的に規定するような別の原因にもはや支配されることがない、この意味において自由は純粋な先験的理念である」(カント「純粋理性批判・中・P.206」岩波文庫)
「自由」はア・プリオリに妥当すべき「《みずから》始める能力」であるに違いないが、それはア・プリオリに「純粋な理念である」に留まる。あくまでも「理念」として考えられている点に着目したい。その限りで「普遍的」=「他のすべての人達の賛同に期待する」ほかないという限界を持つ。だから「自由」は「自由」であるにもかかわらず、その実践的適用において、或る種の「道徳性」が導入されてこざるを得ないのだ。