バーナードはルイスを事務処理能力に長けた人間だとおもっている。しかしルイス自身は自分のことをどう考えているのだろうか。
「『でも駄目だ(みんな通り過ぎて行く。みんな不規則な行列を作って通り過ぎて行く)。僕は確信をもって本を読むこともできなければ、ビーフを注文することもできない』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.91」角川文庫)
ルイスはバーナードのいう事務処理能力に自信がない。「みんな不規則な行列を作って通り過ぎて行く」と不安に駆られている。落ち着いて「本を読むこともできな」い。一般的に「活字が目に入ってこない」という状態の中を宙吊りにされていて定まらない。しかしそれは、言い換えれば、「夢の生」を生きているということでもある。逆にいえば、幾らかでも「夢の生」でない生を生きている人間など一体どこにいるのか、という反語的問いを含んでいる。ルイスは狂気に《なる》。次の二つの文章をみてみよう。
「『僕の意識の流れは揺れ動き、それらの無秩序にのべつに引き裂かれ悩まされる』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.91」角川文庫)
「『僕は流れを、無秩序を意識している。壊滅をも、絶望をもだ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.92」角川文庫)
ニーチェ以来はっきりしていることは、人間は自分の認識についてすべてを知ることはできないということだけではない。むしろ人間が認識できることは人間の身体のすべての行為のうち、ほんのごく一部が意識に上ってくるに過ぎず、そのうちのさらにごくわずかしか認識として把握することはできないという事情である。身体の細胞の一つ一つの動きまで把握することはもちろんできない。さらに、人間は自分で自分自身の身体細胞が、その動きの中で一体何を考えているか、考えているとすればどのようになのか。そしてそれら身体細胞と脳細胞との関連はどのようになっているのかといった細部をも汲み上げて思考することができているだろうか、といった差異的=微分的諸運動にまで疑問がおよぶ。だから、それゆえ、人間の認識はごく限られたわずかの部分でしかないと結論するほかなくなる。そして現に、二十一世紀に入って急速化した現代医学分野における脳内システムに関する諸研究は、十九世紀後半にはすでに提出されていた哲学的問題について、遅まきながらも、その理解が間違っていなかったことをどんどん証明しつつある。たとえば遺伝子情報。或る細胞は脳を通すことなしに、人為的に、別の細胞へ変化することができる。
ちなみに「意識の流れ」とあるわけだが、なるほど「意識の流れ」を把握することはできる。ジョイスがやったように。あるいはウルフがやったように。しかしウルフのケースでは、「意識の流れ」を完全に把握する意識などどこにも存在しないということを知った上での深い諦観がいつも漂っているように感じられる。すでにフロイトによる無意識の発見がなされてはいた。ところがフロイトの勘違いは、いわゆる無意識のすべてを意識化することがあたかも可能であるかのように論考が進められていることだ。さらにフロイトは、或る夢に登場してきた表象を無意識として取り扱うことで、表象されているものはすでに表層であるにもかかわらず、それを深層への通路を与える手掛かりとしてしか考えることができなかった。その点でフロイト特有の二重の誤解が発生している。一点目は、無意識はすべて意識化可能であるという信念。二点目は、夢にせよ語りにせよ、表象として浮かんできたものはすでに表層化されたものでしかないにもかかわらず、それを深層への手掛かりとしてあっさり受け取ってしまったという短絡。もし三点目を上げるとすれば、有名なオイディプス三角形の公式は間違いだということである。社会はフロイトのいうように父-母-子どもという三角形をなす「家族」から生まれたのではない。逆に社会が発生したときから、社会の側から父-母-子どもという三角形をなす「家族」という「神話」が発生したのだ。国家というものは国家として自立するまでは何ら国家ではない。しかし国家は、国家として自立するや否や国家の下にそれなりの市民という集合を総合させた一箇の国家として他の諸国家と並んで並列的に存在するようになる。このような勘違いをフロイトもまた犯していたといえる。
ところで、今も触れた遺伝子研究を上げてみよう。脳はなるほど身体の中枢ではある。しかし何ら中心ではなく、中心はむしろ可変的でありなおかつ複数あるということについて。遺伝子は何かを伝える。脳についての情報も遺伝子の中に含まれている。ということは脳が上位の機関であるというわけでは必ずしもないということを意味する。遺伝子なしに脳細胞の組み込みはなかったに違いないからである。するとにわかに細胞の次元では一体何が行われているのかということに着目せざるをえなくなる。そして実際のところ、遺伝子研究はゲノム編集を含め、今や現代医学の第一線におどり出ることになってきた。とはいうものの、一九三五年(昭和十年)、推理小説家・夢野久作はほかならぬ日本で、細胞の見る「夢」について、「夢の生」について、非常に深い理解を示していたあとがうかがえるのである。とりわけ、脳ばかりを特権化して疑っていない医学界の見解について十分な異議をとなえている。
「われわれが常住不断に意識しているところのアラユル欲望、感情、意志、記憶、判断、信念なぞというものの一切合切は、われわれの全身三十兆の細胞の一粒一粒ごとに、絶対の平等さで、おんなじように籠(こ)もっているのだ。そうして脳髄は、その全身の細胞の一粒一粒の意識の内容を、全身の細胞の一粒一粒ごとにもれなく反射交感する仲介の機能だけを持っている細胞の一団にすぎないのだ」(夢野久作「ドグラ・マグラ」『日本探偵小説全集4夢野久作集・P.341』創元推理文庫)
脳細胞は全身の中心ではなく全身の全細胞の運動を仲介する機能だけを受け持つ「細胞の一団にすぎない」とある。ベルクソンはこう述べている。
「知覚が脳内にあるのではない。脳こそが知覚群のうちに存在するのである。ーーー身体とは、だから、受容され、送りかえされる運動が《通過する地帯》であって、私に作用する事物と私が作用する事物とのあいだの連結線である」(ベルクソン「物質と記憶・P.301」岩波文庫)
先に言ったのはベルクソンであり、夢野久作はベルクソンから多大な影響を受けたことも確かだ。しかしベルクソンの思想をアンチ・ミステリという破格の形式で日本の読者に向けていわば「翻訳」したのは夢野久作たった一人しかいないだろう。夢野久作は全身の細胞が思考しているのであって、脳という部位だけが思考するわけでは何らないと述べる。脳は一種の「反射交換局」に過ぎない。
「ポカンの足の下に横たわっているこの脳髄と名づくるアンポンタン・ポカン式、自動式、反射交換局の内部を覗いてみたまえ。この交換局の中に詰めかけている親切明敏をきわめた交換嬢ーーー神経細胞たちの仕事ぶりを参観してみたまえーーー。彼女たちーーー神経細胞の大集団は、御覧のとおり自分自身に電線となり、スイッチとなり、コードとなり、交換台、中継台となり、またはアンテナ、真空管、ダイヤル、コイル等に変形すると同時に、全身の細胞各個に含まれている意識感覚の各種類にそれぞれ相当する、泣き係、笑い係、見係、関係記憶係、惚れ係、なぞという、あらん限りの細かい専門に別れながら、アノとおり夜となく昼となく、浮世の離れた気持ちになって、全身三十兆の市民の気持ちを隅から隅まで、反射交感させられているのだ」(夢野久作「ドグラ・マグラ」『日本探偵小説全集4夢野久作集・P.346~347』創元推理文庫)
夢野久作は脳について、様々な細胞の中の「脳髄局」というべき機能を果たしている部位であり、それは局所化されているという。夢野久作の独創的表現を借りれば、「脳髄局」には「規約」がある。
「脳髄局、ポカン式反射交感事務、加入規約 ◇第三条 脳髄局ノ反射交感機能ニ故障ヲ生ジタル場合、其ノ故障ヲ生ジタル一箇所ニ於テ反射交感サレツツ在リシ或ル意識ハ、他ノ意識トノ連絡ヲ断チ、全身ノ細胞各個ガ元始以来保有セル反射交感作用ヲ直接に元始下等動物ト同様ノ状態ニ於テ(脳髄ノ反射交感作用ト無関係ニ)使用シ、他ノ意識ニ先ンジテ感覚シ、判断シ、考慮シ、又ハ全身ヲ支配シテ運動活躍セシムルヲ得ベシ。【附則】(イ)脳髄局ガ反射交感スル暇ナキ急迫ノ場合ーーー例エバ無意識ニ眼ヲ閉ジ又ハ飛ビ退ク場合等。(ロ)麻酔セル場合ーーー例エバ麻酔剤ニテ脳髄ノ全体ガ反射交感機能ヲ停止シ居ル場合ニ、全身ノ細胞ノ感覚、意識記憶等ニヨリ行ウ無意識ノ挙動言語等。(ハ)脳髄ガ異常ノ深度ニ熟睡セル場合ーーー例エバ夢中遊行、寝言、歯ギシリ等。以上ノ三種類ノ場合モ之ニ準ズ」(夢野久作「ドグラ・マグラ」『日本探偵小説全集4夢野久作集・P.350』創元推理文庫)
「無意識」「夢中遊行」といった言葉を用いている。夢野久作は何をいおうとしているのか。次のセンテンスで脳は一種の「電話交換局」に過ぎないという文章が出てくる。
「何より憤懣(ふんまん)にたえないのは、現代のいわゆる『物を考える脳髄』諸君が、その脳髄ソレ自身と全身の細胞との間に、こうした第三条の応急規約が存在している事実を、夢にも気づかないでいることだ。ーーーだから『脳髄なんかイクラ使ったって減るもんじゃない』とか何とか言って、ヤタラに頭を抱えたり、首をひねったりして、無理にも脳髄に物を考えさせようとする習慣を一人残らず持っていることだ。ーーー脳髄が物を考える処でないーーー単純な反射交感専門のアンポンタン・ポカン局ーーーという事実にミジンを気づかないで、物を考える専門のお役所みたいに心得て何でもカンでも脳髄に考えさせようと努力していることだ。ーーー電話交換局に市役所の仕事を押し付けて平気でいることだ。そのために脳髄局の交換手たちが、ドレくらい事務の過重負担に悩まされているかーーーそのためにドレくらい思いきった反射交感事務の間違いーーー幻覚、錯覚、倒錯観念の渦巻きを渦巻かせているか、ほとんど想像もおよばないであろう」(夢野久作「ドグラ・マグラ」『日本探偵小説全集4夢野久作集・P.352』創元推理文庫)
脳機能の「電話交換局」性。ベルクソンはこういっていた。
「脳とは、かくて私たちの見るところでは、一種の電話交換局にほかならないはずである。その役割は『通信を伝えること』あるいはそれを待機させることにある。脳は、じぶんが受容したものになにものも付加しない。とはいえ、あらゆる感覚器官は、その延長の終端を脳にまで送りこんでおり、脊髄と延髄にぞくする運動機構のいっさいが、選定された代表者をそこに置いているわけだ。だから脳は、まぎれもなく一箇の中枢なのであり、末梢の刺戟はこの中枢で、あれこれの運動機構と関係づけられる。ただしその関係は、選択されたものであって、強制されたものではもはやないのである。いっぽう、膨大な数の運動をみちびく〔神経〕通路が、この皮質のなかでは《すべて同時に》、末梢から到来する同一の興奮に対して開放されることがありうる。したがってこの興奮には、脳のなかで無限に分割され、かくてまた無数の、ただ生まれようとしているにすぎない運動性反応のうちで散逸する可能性もある。こうして、脳の役割はある場合には、受けとった運動を、選択された反応器官へみちびくことであり、またべつの場合にはこの運動に対して、運動の通路の全体を開放することにある。後者の場合なら、それは、当の運動にふくまれている可能な反応のすべてを素描し、みずから分散しながら分解してゆくためなのである。いいかえてみよう。脳とは、受けとられた運動との関係においては分解の器官であり、実行される運動との関係にあっては選択の器官であるように、私たちには思われる。しかしながら、いずれの場合にしてもその役割は、運動を伝達したり、分割したりすることに限定されている。くわえていえば、皮質の上位の中枢においても、神経の諸要素は認識をめざして作動しているわけではない。これは、脊髄が認識を目的とするものでなかったのと同様である。それらは、複数の可能な行動を一挙に下描きするか、そのうちのひとつを組織化するか、そのいずれかを遂行するにすぎない」(ベルクソン「物質と記憶・P.59~60」岩波文庫)
だから「市役所の仕事」を大幅削減するために新しい機械を導入して空いた時間を有効活用するとしても、有効活用の内容がテレビ・マスコミが連日煽っている「実質的強制労働」と化した「消費行動」であるなら、賃金は支払われてもそれは「消費行動」を通してただちに資本に回収されてしまうほかない。そして回収されるときには剰余価値を付けて回収される。資本と労働者の「契約」による賃金体系が、「契約」には記載されることのない剰余価値発生の余地を生む。さて、夢野久作は「細胞一粒一粒」が持つ諸機能の強度、それらが結びついて発揮される諸能力の多岐性について強調する。
「細胞一粒一粒の記憶力の凄まじさ、相互間の共鳴力、判断力、向上心、良心、惜しくは霊的芸術の批判力等の深刻さはどうであろう。さらにその細胞の大集団である人間が、宇宙間の森羅万象に接してこれを理解し、またはこれに共鳴感激して、国家とか社会とかいう大集団を作って共同一致、人類文化を形成していく。その創造力の深遠広大さはどうであろうか。そのような、ほとんど全知全能とも言うべき大作用のすべては、帰納するところ、結局、最初のタッタ一粒の細胞の霊能の顕現(あらわれ)でなければならぬ。換言すれば、現代人類の、かくも広大無辺な文化と雖も、その根元を考えてみると、こうした顕微鏡的な存在にすぎない細胞の一粒の中に含まれている霊能が全地球表面上に反映したものにほかならぬ」(夢野久作「ドグラ・マグラ」『日本探偵小説全集4夢野久作集・P.375』創元推理文庫)
この文章は「細胞一粒一粒」の機能について改めて驚くことで、人間の身体の中心の複数性を、中心の可変性を、主張してもいる。人間の身体における神経システムの複雑化は行動の決定不確定性を増大させるが、一方、決定不確定性に即応した諸細胞の動きの柔軟性を発展させることになった。だから中心を固定化するのではなくむしろ複数化して対応可能性を広く解放させ拡充させておき、必要に応じて「複数の可能な行動を一挙に下描きする」ほうがより節約的=経済的(エコノミー)でもある。
「つまり、こうである。神経システムには、表象を創りだすことはおろか、準備することに役だつ装置すら、なにひとつそなわっていない。神経システムの機能は、刺戟を受容して、運動の装置を組みたて、この装置のうち可能なかぎり多数のものを、与えられた一箇の刺戟に対して提供することにある。神経システムが発達するにつれて、ますますその数をふやし、より遠くまで及んでゆくのが、空間中の地点である。神経システムは、空間の複数の地点を、たえずそれだけ複雑化する運動機構に関係づけてゆくことになるが、この空間中の地点がより数多くのものとなり、またより遠くのものとなりうるのである。かくて神経システムが私たちの行動に対して開いておく自由度が拡大するはこびとなるけれども、ほかならぬその点にこそ、神経システムが増大して完成されてゆくことの意味が存している。とはいえ、神経システムが構成されるのは、動物の系統の発端から終端へといたるまで、行動がしだいに必然的に定められたものではなくなってゆくためであるとするならば、知覚も、その進歩が神経システムの進展に規制されているかぎりでは、これまたかんぜんに行動に向けて方向づけられているのであって、純粋認識へと向かっているのではない、と考える必要があるのではないだろうか。そうなれば、この知覚がますます豊かになってゆくということ自体ひとえに、不確定な部分が増大してゆくことを象徴的に指標するものとなるはずではないか。この不確定な部分とは、生命体が事物に対してふるまうさいに、その選択に委ねられる部分なのである。それでは、この不確定性を真の原理と見なすところから出発しよう。この不確定性がいったん想定されると、そこからみちびき出しうるものは、意識的な知覚の可能性ばかりでなく、その必然性ですらあるのではないかということを、探求してみよう。ことばをかえれば、たがいにつながりあい、緊密にむすびあっている、物質的世界と呼ばれるこのイマージュのシステムが与えられており、そのうえ当のシステムのそこかしこに、生命ある物質によって代表される、《現実的な行動の複数の中心》が存在しているものと想像してみるとしよう。そこで私としては言いたいところであるが、それらの中心のそれぞれについて、その周囲にはイマージュ群が配置されており、当のイマージュ群はくだんの中心の位置にしたがい、またその中心とともに変化するものであることが《必要となる》。さらにまた、その結果として意識的な知覚が生じ《なければならない》のであり、かくてまた、どのようにしてその知覚が出現するのかを理解することも可能となるのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.61~62」岩波文庫)
こうして始めて意識が意識として認識の上に上ってくる。それ以外の多岐に渡る諸感覚は感覚されているけれども、行為決定に当たって差し引かれ削ぎ落とされたことになる。しかしそれが同じことの繰り返しになってしまうと習慣化され、次第にただ単に反復されるだけのものしか意識に上ってこなくなる。ニーチェにいわせれば凡庸になる。単純化される。一般化される。そうなってくると今度は逆に人間の均質化という個性剥奪化が遂行されるようになる。ニーチェが憂いているのは、この、人間の社会化に伴って生じてくる単独性(個性)の剥奪という取り返しのつかない機械的浮薄化装置の権能である。それは意識の特権化と歩みをともにしている。
「《意識》。ーーー意識性は、有機体の最後の、最も遅れた発展であり、したがってまたその表面の最も未熟な、最も無力な部分である。意識性からして無数の過誤が生じるのであり、それが動物や人間を必要以上に早くーーーホメロスの言うように『運命を乗り越して』ーーー滅亡させるのだ。もし有機体を保持する諸本能の紐帯が、意識によってあれほど法外に強力であるのでなかったら、本能が一般に調整器としての用をはたすわけにはゆかなかったろう。つまり人類は、みずからの倒錯した判断と眼を開けたままで見る幻覚とのために、その皮相性と軽信とのために、要すればまさにその意識性のゆえに、破滅せざるをえないだろう。というよりむしろ、それがなければ人類はとっくにもう存在しなくなっていただろう!」(ニーチェ「悦ばしき知識・十一・P.73」ちくま学芸文庫)
したがって、このように凡庸化され一般化され無理にでも習慣にしたがわされることしかできなかった情けない人間の意識にとっては、たとえば、世間で話題になっている俗論のように「男性脳」《と》「女性脳」とが本当に別々にあるかのように語られている。そう映って見えるほど習慣化されている。そしてそのような習慣によってただ単に慣らされただけの脆弱で群畜化した人間にだけは、今でも、いつまでも、そう映って見える。そういう余りにも情けないほど根拠がなく浮薄な現象が、同じ程度に脆弱で群畜化した人間のあいだで、またその限りで、あたかも現実であるかのようにおもえてくるといった倒錯した珍現象すら生じてくるのである。そこには何らの創造性すら見られない。将来性を見据えるために必要な積極性のかけらもない。
さて、次にルイスは「諧調」を信じようとする。「無秩序」を認識しつつ、むしろそれゆえに「中心のリズム」を把握しようとする。ところがルイスは「その発条が拡がったり、縮まったり、それから又拡がる」のを目撃するほかない。
「『ところでこの連続を破るものはどこだ?人に不幸をのぞき見させる裂目はなんだ?この循環は破られない、諧調は完全だ。ここに中心のリズムがある。ここに普通の主発条が在るんだ。僕はその発条が拡がったり、縮まったり、それから又拡がるのを見つめている。だが僕は巻き込まれはしない』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.92」角川文庫)
ルイスの認識は「無秩序」の衝撃から抜け出ることができない。そしてそれを人々の持つ「彷徨える惑乱した魂の悲嘆」として捉える。
「『いくつもの帽子が絶え間なく無秩序に跳ね上ったり下ったりしているのを感じる。私に、彷徨える惑乱した魂の悲嘆が訴えられる』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.92」角川文庫)
そしてこう考える。人々を「秩序正しく整えてや」ると。ルイスの事務的手腕に期待しよう。
「『僕はお前たちを秩序正しく整えてやろう。僕の根は、鉛や銀の鉱脈を通し、臭いのむれる湿っぽい沼地を通し、中心で絡み合っている槲の根でできた節のところへ下っていく』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.93」角川文庫)
と、見ている間にルイスは「夢の生」へ入っていく。「眠ったり目覚めたり」の繰り返しを反復する。そのうち「それらのものの背後に」ルイスは「永劫」を見る。
「『僕は永久に眠ったり目覚めたりしているのだ。今僕は眠る。今、目覚める。眩ら眩らする茶わかしが見える。薄黄色いサンドウィッチ一杯のガラス箱が。半円形の上衣を着た人々がカウンターの腰掛に坐りこんでいるのが。それに又、それらのものの背後に在る、永劫が』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.94」角川文庫)
混乱のうちに、かつまたその「背後」に見える「永劫」とは何だろう。
「だから、腕を持ち上げるような動作を考えよう。そして、この腕は、放っておけば、下に落ちるが、腕に生を吹き込んでいた意志の何かが、それを持ち上げようとしながら、そこに残っている、と想定しよう。《みずからを解体する創造的な》動作、というイメージとともに、われわれは、すでに物質について、より正確な表象を持つことになるだろう。そしてわれわれは、生命の行動性に、直接的な運動の何かがそれとは逆の運動の中に残っているのを、つまり、《みずからを解体するものを横切ってみずからを作る、ある実在》を見るだろう」(ベルクソン「創造的進化・P.315」ちくま学芸文庫)
「ある実在」。「作用だけがある」というときの、作用でもある。
「事物や状態は、われわれの精神が取った生成の瞬間写真でしかない。事物など存在しない。あるのは作用だけだ」(ベルクソン「創造的進化・P.316」ちくま学芸文庫)
それは「絶え間ない変化」でもある。
「実在するものとは、形態の絶え間ない変化である。《形態は推移の瞬間写真でしかない》」(ベルクソン「創造的進化・P.383」ちくま学芸文庫)
「流れ」ともいう。
「諸々の語、行、節を横切って一つの単純なインスピレーションが走っており、それが詩の全体である。同じように、切り離された個体の間を、生命がなおも流れている。至る所で、個体化しようとする傾向は、結合しようとする傾向によって抵抗されると同時に完成される。これらの傾向は対立しながら補い合っている」(ベルクソン「創造的進化・P.329」ちくま学芸文庫)
では、その「連続性」について。
「われわれの状態はそれぞれ、われわれがみずからにちょうど与えたばかりの新しい形式であって、われわれから生じると同時に、われわれの人格を変える。それゆえ、われわれがすることは、われわれが何であるのかに依存している、と言うのは正しい。しかし、われわれとはある程度われわれが為していることなのであって、われわれは連続的にみずからを創造しているのだ、と付け加えなければならない」(ベルクソン「創造的進化・P.24~25」ちくま学芸文庫)
そして「夢の生」は常に既に人間を宙吊りにさせている。ところが、宙吊りであるにもかかわらず、むしろそれゆえ、資本主義社会はより一層、個々人に対して諸変態への「力」を与えることになる。資本主義が人間を宙吊りにすることと「夢の生」を与えることとは外延的に同時進行する。というのは、資本主義は個々人を欲望する諸機械の部分機械へと分解して任意の部分と部分とを切断したり接合したりを繰り返し、人間の各部分欲動を繋ぎ合わせながらいつも多様で奇怪な合成物として使用している以上、そしてそうしなくては資本主義自身が生き延びていけない以上、資本主義の部分機械たる人間は常に「夢の生」において力を獲得しておく必要があり、またそうしているからである。「夢の生」は資本主義によって与えられた。それは確固たる不動のものであってはならない。逆にそれはウルフがルイスに言わせているように「無秩序」な「流れ」の中にあり、「無秩序」な「流れ」そのものとして流動するものでなくてはならない。そのような「流れ」であるが同時に瞬間的には「流れ」の中から取り出されるものでなくてはならない。そしてその瞬間的に取る形態によって労働力として各種の変化を遂げる柔軟性でなければ人間は人間として認められず、したがって人間を労働力として、労働力商品として取り扱うことで成立している資本主義は生き延びていくことができない。バーナードを中心とする「魚類」たちは「夢の力」を与えられると同時に「夢の力」ゆえの解体性・変容性・融合性によって一時の自分を融解させまた別の一時の自分へと変化していく流通する商品としても機能しなくてはならないのだ。しかしこの作業にはそれほど手間はかからない。資本主義がほとんどいつもその手間を省いてくれるからだ。ルイスはほとんどいつも商品Aから商品Bへ変態することができる。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)
しかしこの諸変態を可能にするのは手形の確実性であり信用の確実性であり、その限りでの貨幣の確実性であるほかない。ところで手形は、信用は、それほど確実であろうか。
「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫)
残念ながら今の日本は外交に失敗している。手形の、貿易の、信用の、したがって貨幣の確実性は、今や日本だけでは維持していけない岐路に立たされている。再び人々は「夢の生」を生きる力を獲得-蓄積させねばならない。
「私たちの過去が、じぶんにはほとんどまったく隠されたままであるのは、過去が現在の行動の必要によって抑止されているからであるとすれば、過去は意識の閾を踏みこえる力を、私たちが有効な行動に対する関心を離脱して、いわば夢の生へと身を置くたびごとに、ふたたび獲得することになるだろう」(ベルクソン「物質と記憶・P.305~306」岩波文庫)
ところがどこの専門馬鹿が考えたのか知らないが、「働き方改革」という独善的経済政策がそっくりそのまま輸入され、歴史も地理も経済も異なる日本に適用されてあちこちで猛威を振るっている。それは労働者の「行動」の自由を保証するものではなく、逆に「行動させられる」自由を無理矢理与えて労働者を永遠の債務者に作り換えてしまう政治的装置だ。次のように。
「一方の自我は、他方の自我の外的投影のようなもので、その自我の空間的な、言わば社会的な表現だということになろう。私たちは深い反省によって第一の自我に到達し、この反省は、私たちの内的状態を、絶えず形成途上にある生き物として、測定には従おうとはせず、相互に浸透し合い、持続におけるその継起が等質的空間における併置とは何ら共通点をもたないような状態として、把握させるのである。しかし、私たちがこのように自分自身を捉え直すのは、稀であり、この故に、私たちが自由であるのは稀なのだ。たいていの場合、私たちは自分自身に外的に生きており、自我については、その色褪せた亡霊、純粋持続が空間のなかに投影する影にしか気づかない。したがって、私たちの生存は、時間におけるよりも、むしろ空間において繰り広げられる。私たちは私たちに対してよりは、むしろ外界に対して生きている。私たちは、考えるよりも、むしろ話す。私たちは自ら行動するよりも、むしろ『行動させられる』。自由に行動するということは、自己を取り戻すことであり、純粋持続のなかに身を置き直すことなのである」(ベルクソン「時間と自由・P.275~276」岩波文庫)
マルクスのいうように「人間は諸関係の所産」である。自然との代謝を介してそこから価値を生じさせ同時に剰余価値もを生じさせる社会的多様体である。しかし今の新自由主義的資本は資本自身の誘惑に駆られて人間労働力を壊滅させつつある。倒錯している。細胞一粒一粒の能力を資本は滅亡させていこうとしていることにまったく気づいていない。イギリスの保守的女性学者の粗雑な理論を鵜呑みにして日本が崩壊する風景を逆に日本が復活する風景に置き換え錯覚することに慣れてしまっている。戦後日本は働きすぎる奴隷のような姿を世界中に晒すことで絶賛(お世辞)の嵐を浴びた。しかし絶賛(お世辞)はいつも罠なのだ。一方そのような資本の暴力に対して、日々人間は地道に力を獲得し、また獲得した力を節約=経済(エコノミー)に即して解放する。獲得しつつ解放している場合もある。その多岐的多様性について、作品「波」は多くのことを語るだろう。
BGM