Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

丸山議員「戦争」発言の精神分析的資料性

丸山議員「戦争発言」問題。議員辞職するとかしないとかは、最終的には、議会に任せるしかないだろう。賛成であれ反対であれ。それよりもっと興味深い問題が隠されている。それはヘーゲルが使い分けている「享楽」と「快楽」との違いだ。

もしその言動が自分の身に死刑を招き込むものであっても、その現実を乗り越えて快楽におよぶ場合がある、というラカンの指摘である。カントの例文からみてみよう。

「何びとかが彼の情欲について、『もし私の愛する対象とこれを手に入れる機会とが現われでもしたら、そのとき私は自分の情欲を制止し兼ねるであろう』と揚言しているとする。しかし彼がこのような機会に出会った当の家の前に絞首台が立てられていて、彼が情欲を遂げ次第、すぐさまこの台の上にくくりつけられるとしたら、それでも彼は自分の情欲を抑制しないだろうか。これに対して彼がなんと答えるかを推知するには、長考を要しないであろう。しかしこんどは彼にこう問うてみよう、ーーーもし彼の臣事する君主が、偽りの口実のもとに殺害しようとする一人の誠忠の士を罪に陥れるために彼に偽証を要求し、もし彼がこの要求を容れなければ直ちに死刑に処すると威嚇した場合に、彼は自分の生命に対する愛着の念がいかに強くあろうとも、よくこの愛に打ち克つことができるか、と。彼が実際にこのことを為すか否かは、彼とても恐らく確言することをあえてし得ないだろう、しかしこのことが彼に可能であるということは、躊躇なく認めるに違いない。すなわち彼は、或ることを為すべきであると意識するが故に、そのことを為し得ると判断するのである、そして道徳的法則がなかったならば、ついに知らず仕舞であったところの自由を、みずからのうちに認識するのである」(カント「実践理性批判・P.71~72」岩波文庫

ここでカントは二つの事例を上げて検討している。重点が置かれているのは後者のほうだ。後者の問題のうちで自由の何たるかを知ることになるのは確実だとカントは信じている。カントは人間の理性を検討するに当たってわざわざ前者の事例を用意しておきながら、それはすでに自明のこととしてしまってあえて後者のケースを重点的に検討することで、カントは自分で自分自身の理性考察の範囲をあらかじめ狭いものにしてしまっている。

もっとわかりやすく俗世間の言葉に置き換えてみよう。前者のケース。今では年齢性別等に関係なくと付け加えて読んでもいいかもしれない。ともかく愛人の家に忍び込んで性的不倫関係におよんだ場合。家の門前に処刑台が置かれていて、欲望を果たし次第、処刑される。そのような場合は当然のこととして性的不倫関係におよぶことはないに違いないとカントは信じて疑っていない。しかしラカンは快楽の観念を持ち出してきて、果たしてそうだろうか、と問うのだ。この問いは何も意味のないものではない。

「『実践理性批判』を開いて下さい。理性という分銅の重みを我々に信じさせるために、カントが挙げている例があり、この書物の発表当時には素晴らしいものがあったはずです。それは二つの寓話で、純粋な倫理原則の重み、すべてに逆らう義務そのものの優先、すなわち生きる上で望ましいと考えられるすべての善に逆らう義務の優先を感じさせる物語なのです。

二つの状況の比較のうちにその証拠があります。カントはこう言います。『淫乱な男の放蕩を抑えるために、次のような状況を想定して欲しい。部屋の中に婦人がいて、その婦人に彼が欲望を向ける。その部屋へ入って欲望や欲求を満足させる自由が与えられている。しかし、出口の扉には絞首台がある』。この場合はまったく問題にならず、カントにとって道徳性の根拠はここにはありません。証拠がどこにあるかお解りでしょう。カントにとっては、絞首台は当然抑制になっており、出ていったら絞首刑になることが解っているのに、その婦人を抱くなどということは考えられません。ついで、同じような悲劇的な結末をもたらす別の状況が挙げられています。今度は友人に不利な嘘の証言をするならば恩寵を与えるが、さもなければ絞首刑だ、と暴君に選択を迫られる場合です。ここではカントは正当にも、嘘の証言をすることと自分の命を天秤にかけることも十分考えられる、と述べています。とりわけ、嘘の証言をしたら友人の命に関わるような結果を招く場合にはそうである、と述べています。

注目すべきことは、証明の力は現実に、つまり主体の現実の行動に委ねられていることです。カントが理性の分銅をーーー彼はそれを義務の重みと同一視していますーーー我々に見つめさせるのは現実の行動においてなのです。

このように辿ってみると、あることをカントは見逃していると思われます。つまり、ある条件の下では第一の場面における主体も、進んで刑罰に服するとは言いませんがーーーというのは、この寓話はここまで進んでいませんからーーー刑罰に服することは考えられないことではない、ということです。

ケーニヒスブルクの哲学者、この感じのよい人物ーーー私はカントが度量が狭いとか、情熱に欠けた人間だと言っているのではありませんーーーは、ある条件のもとでは刑罰に服するという乗り越えも考えられることを見逃しています。その条件とは、フロイトが対象の『過大評価』と呼んだものーーーこれを私は今後対象の昇華と呼びますがーーーが揃うという条件です。

つまるところ、その条件とは昇華に関するある種の条件です。そういう条件のもとでは、先程のあの乗り越えがなされることも十分考えられます。さらに文学もやはり、厳密に歴史的視点とは言えないまでも、幻想的な視点で何かを提供しています。いずれにせよ、この種の三面記事には事欠きません。ここまで申し上げれば、絞首台であれ何であれ、殺されることを覚悟の上で婦人と寝る男がいるかもしれない、と言うことができるでしょう。もちろん過剰な情念として分類されるかもしれませんが、それで済むものではありません。たとえば女性を切り刻む快楽とひきかえに、自分が被る刑罰について冷静に計算できる男もいるでしょう。

これも十分に考えられる例です。犯罪学の記録を見ればそういう例は山ほどあり、当たり前と考えられていることに明らかに修正を迫ります。すくなくともカントが挙げた例の明証性を揺るがします。

カントが考慮に入れなかった二つの場合を述べましたが、これら二つの形態とは、規範としての現実原則に直面して、快楽原則が普通は示している限界を越えてしまう二つの侵犯の形態、すなわち対象の過剰な昇華と、もう一つは一般に倒錯と呼ばれるものです。昇華と倒錯はともに、欲望の関係であり、これによって我々は疑問符つきではあれ、現実原則に対するカントとは別のーーーあるいは同一の、かも知れませんがーーー何らかの道徳性のクライテリアを定式化できる可能性へと導かれます。なぜなら、『ものdas Ding』の水準にあるものへと向けられる道徳性の領域が存在するからです。そういう領域こそが、『ものdas Ding』に逆らって偽証しようとする瞬間、すなわち欲望ーーー倒錯的であれ昇華されたものであれーーーの場に逆らって偽証しようとする瞬間に、主体を躊躇させるのです」(ラカン精神分析の倫理・上・P.161~164」岩波書店

ラカンはいう。「犯罪学の記録」をわざわざ参照するまでもなく新聞の社会面を見ればこの種の記事には事欠かない、と。その通りであって、もっともだと頷くほかない。もしばれれば殺されるかもしれない死を賭けた不倫というものは日本国内だけでも日常的に発生している。だからカントは甘いといいたいわけではないが、むしろ日常的に起こっていることなのにラカンが取り上げるまでなぜ誰もこのような言動を「快楽」の問題として取り上げてこなかったのか。逆に不思議になるのである。

丸山議員発言は飛び出すべくして飛び出してきた快楽的言動の一つに過ぎないように思われる。処罰されることがわかっていても、最悪の場合、ロシアからどのような制裁を発動されるかわからないことがわかっていても、なお言わずにおれないあるいは犯してしまわずにおれないという言動。ラカンはそのような言動を精神分析の資料として取り扱っている。

ところがしかし、丸山議員の意見に賛同する一般市民は日本国内にたったの一人もいないといえるだろうか。軍事力においても国際的発言力においても潜在的経済力においても国内に埋蔵されている天然の総資源量においても圧倒的不利であるにもかかわらず、である。いまはばらばらのロシアだが、いったん外部から一定量を越える軍事的刺激を受けた場合、ロシア国内は一挙に戦闘モードへと全体化してしまう可能性は大いにある。それでも快楽を追求したいという日本人は本当にたったの一人もいないといえるだろうか。

ロシアが丸山議員発言の真意についてその輪郭をじっくりつかんだとき、ロシアは与えられた輪郭から逆算してロシア自身の「行動の計画」を一挙に素描する。ベルクソンから引けば次の文章。

「われわれがある対象に割り当てるはっきりとした輪郭は、その対象に個別性を与えているが、それらの輪郭は、われわれが空間のある点で及ぼしうるある種の《影響》の素描でしかない。つまりそれらは、われわれが起こすことになるかもしれない行動の計画である」(ベルクソン「創造的進化・P.30~31」ちくま学芸文庫

しかしそのような「快楽」さえをも越えて存在する或るものがある。それは資本主義の「真の警察」としていつも或る種の目を持っている。本当の裁き手は誰か。

「つまり、ここにあるのは、市場と通貨とであり、これが資本主義の真の警察なのである」(ドゥルーズガタリ「アンチ・オイディプス・P.286」河出書房新社

なお、ラカンからの引用部分で「もの」とある。わかりづらいかとおもう。関連する部分を引いておく。以下。

「『諸表象』の水準では、<もの>は無として存在しているのではありません。文字通りそこには存在しないのです。こう言っても皆さんは驚かないでしょう。<もの>は、不在のもの、異質なものとして、区別されているのです。

<もの>について良いとか悪いとか言われることすべてが、<もの>と関わる主体を分割します。しかも、間違いなく同じ<もの>に対して、いわば抑えきれないほど、取り返しのつかないほど主体を分割します。良い対象や悪い対象があるのではなく、良いと悪いがあり、さらに<もの>があるのです。良いも悪いもすでに『諸表象』の水準に入っており、快楽原則に従って主体の位置を決める指標として存在します。選ばれ、望まれ、期待される状態の表象や探究に過ぎないものに対する主体の位置を、この指標が決定します。何を願い、期待しているのでしょうか。それは、<もの>に制御されてはいますが、<もの>とは常に一定の距離がある何かです。<もの>はその彼岸にあるのです」(ラカン精神分析の倫理・上・P.94」岩波書店

「誰もが知っているように、この『ものdas Ding』の相関物は近親相姦欲望であり、これこそがフロイトの偉大な発見です。プラトンもどこかで同じようなことを述べているとか、ディドロも『ラモーの甥』や『ブーガンヴィル航海記補遺』のなかで述べているとか言われますが、そんなことはどうでもいいことです。私の関心はそんなことにはありません。歴史上のある時期に、それこそが本質的な欲望なのだ、と言って立ち上がった一人の男がいたということが重要です。

我々がしっかりと把握しておかなくてはならないのはそのことです。フロイトは近親相姦の禁止こそが原初的な法の原則であり、他のあらゆる文化的発展はその帰結や枝葉に過ぎないことを示し、また同時に近親相姦を最も基本的な欲望と見なしたのです」(ラカン精神分析の倫理・上・P.100」岩波書店

「現実的なものとは常に同じ場所に再発見されるものである、と言いました。そのことは、科学や思想の歴史を見ればお解りになるでしょう。この回り道は、我々が道徳の革命的転回点へと至るために不可欠なものです。道徳の革命的転換点へと至るとは、諸原則を問い直すべきところで問うこと、つまり、命令という水準で問いにかけることです。この命令は、カント的にもサド的にも<もの>のきわみにあります。この<もの>によって、一方において道徳は普遍的格率の純然たる応用となり、他方においては純然たる対象となるのです」(ラカン精神分析の倫理・上・P.103~104」岩波書店

フロイトが快楽原則の水準で踏み出した一歩とは、<至高善>は存在しないことを示したことです。つまり、<至高善>とは『ものdas Ding』であり、母であり、近親相姦の対象であり、それは禁止された善であるということ、そしてそれ以外には善はないということを示したことです。それが、フロイトにおいては逆転された道徳の法の基盤です」(ラカン精神分析の倫理・上・P.104」岩波書店

とはいえ、ラカンは父-母-子どもという三角形をなす家族共同体の発生から理論を始めてしまっている。おそらく実際はそうではなく、家族共同体が他の種々の家族共同体と合体するうちに生じてきた社会あるいは国家が発生したとき、その瞬間、社会あるいは国家の側から近親相姦の禁止が絶対的道徳規定として、社会あるいは国家の法として出現したのだろう。

さらに「現実的なものとは常に同じ場所に再発見される」という箇所について。フロイトの次の文章を参照。

「主観的なものと客観的なものの対立は最初からあるわけではない。それは思考が、一度知覚されたものを再生によって表象界にふたたび登場させる能力を得、一方客体がもはや外部に存在する必要がなくなるということによって始めて生ずるのである。したがって現実吟味の目的は一にも二にも、表象されているものに照応する一つの客体を、現実的知覚の中に見出すということではなくて、それを《再発見》し、それがまだ存在していることを確認するということなのである」(フロイト「否定」『フロイト著作集3・P.360』人文書院

生まれたばかりの人間は始めは自分の身体と世界との境界線を知らない。世界と自分の身体は融合している。そして自分の身体から出発して世界との境界線を認識するようになるのではなく、逆に世界の中に溶け込んでいる状態から徐々に自分の身体を限定して世界の他のものから身体を区別するようになるという事情について。ベルクソンから。

「事実として私は、はじめから物質的世界一般のなかに身を置いているのであり、そののちに、やがてじぶんの身体と呼ばれることになるこの行動の中心をしだいに確定して、かくて他のすべてのものからこの身体を区別することになるのである」(ベルクソン物質と記憶・P.94」岩波文庫

BGM