Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

ステレオタイプと延期された破局1

アメリカは慌てている。中国もまた。しかしほとんどアメリカに従おうとする世界のIT産業の過酷な競争の中で、さらなる盛り返しを見せつつあるファーウェイに対する一定の信頼度はかえって高まったように見える。それはそれとして。芸術とは何かを論じるとき、それはいつのどんな時代でも政治と無関係ではいられないという事情について、まったく何一つ知らないふりをして論じることはけっしてできない。もっとも、日本の政治家やフリーライターや評論家にはそのような態度が許されているようだが、中東や東南アジアの紛争地帯を取材する外国人ジャーナリストや国境なき医師団らが共有している意識水準は、「お馬鹿」で「愚劣な」日本のフリーライターや評論家のはしゃいだ議論とは関係がない。そこでは絵画にせよ映画にせよオブジェにせよ音楽にせよ、芸術はいつも何らかの政治性との結びつきなしに出現することはできない。ちなみに個人的なことをいえば、東南アジアで医療活動に従事している国境なき医師団(日本人)からの情報であれば、間接的ではあるが、医療関係者との長いつきあい(二十五年くらい)の中でときどき知ることができる。聞いているとおもう。彼ら彼女らは日本にたいして何ら愚痴るということがない。韓国にたいしても同様。そもそもいつ死んでもおかしくないし、いつ殺されても運命として受け入れるしかない。彼ら彼女らはニーチェを読んでいるかどうかにかかわらず、ニーチェのいう「運命愛」を、けっして大げさではなくむしろ淡々とした態度で受け入れるに至っている。だからなおのこと、「お馬鹿」で「愚劣な」日本のフリーライターや評論家のはしゃいだ議論には、なお一層のこと、ついて行く気がますますなくなる。とはいえ、国境なき医師団の活動は性質上、常に「弱者救済」という傾向をもつ。その意味では資本主義に反対しているわけではなく、逆に、資本主義的「公理系」の一部分として資本主義の延命に奉仕しているということができる。「救済」された「弱者」はこんどは「労働力商品」として再び市場へ送り返されるからだ。資本主義はこの公理系を付け加えることでしか回転していかない。資本主義は新たな公理系を現場へ直接的に派遣する。しかし銀行員が紛争地帯までついてくるというわけではないが。さて、芸術という場所について。

「芸術ですら、閉鎖環境をはなれて銀行がとりしきる開かれた回路に組み込まれてしまった」(ドゥルーズ「記号と事件・P.363」河出文庫

とはいえ、今でもなお別に民間でなくとも、ふつうに税金で運営されている東京国立近代美術館などは欧米レベルの極めて前衛的な美術展を開催している。論客には超過激な哲学で世界的に有名なドゥルーズの研究者が論文を寄せたりもしている。また、当然だが日本建築学会主催のものもある。建築と建築《思想》とはどれほど切り離そうとしてもけっして切り離して語ることができない。どのような建築であっても、それが活用される以上、人間はその建築を通して《生きられる》ほかないからだ。それは同時に或る建築思想をみずから《体現する》ことでもある。或る人間は或る建築に実現される建築思想を《生きる》ことでまた別の人間に《なる》。建築思想はあらかじめあるわけではない。実現される。それは或る人間がその建築を通して或る建築思想を実際に《生きた》瞬間実現する。だから、思想的、政治的、芸術的でない建築物など世界中どこをどう探してみてもけっして存在しない。さらに九〇年代の音楽や絵画ではそれこそ様々な爆撃音や血まみれになった虐殺死体の衣服の断片などを現場からサンプリングしてきて芸術的ともいえるパッチワーク化技術で変容させ、できるだけ時間を置かず一般大衆へ向けて無方向的に投げ込んでいた。それで当り前だった。だから、しばしば「顰蹙(ひんしゅく)を買う」ということが生じた。だからといって一部の下品な大阪人のように「顰蹙(ひんしゅく)を買ってなんぼ」と開き直るわけではない。芸術の狙いは「不道徳かどうか」ではない。作品が「アトピック」かどうかに掛かっているからである。

「テクストの快楽が顰蹙(ひんしゅく)を買うものであることは明らかだろう。それが不道徳だからではなく、《アトピック》だからである」(バルト「テクストの快楽・P.43」みすず書房

《アトピック》。“topic”=「話題、主題、項目」に否定形の“a”を付した“atopic”。要するに、場所の外。一般的文化圏の他。コード化されない。分類できない。わけがわからない。

《アトピック》であること。それは具象的なものに対して表象的なものが持つ「アリバイ性」に対する批判でもある。

「表象の方は、欲望の意味とは別の意味に塞がれ、《妨げられた具象》であろう。アリバイの空間だ(現実、モラル、真実らしさ、読みやすさ、真理、等々)」(バルト「テクストの快楽・P.106」みすず書房

「何も外に出ない時、何も枠から飛び出ない時、タブローから、本から、スクリーンからはみ出さない時、それは表象なのだ」(バルト「テクストの快楽・P.107」みすず書房

写真においても、「社会」によって「分別」を与えられて「芸術化」された写真はその狂気を発揮することができなくなるとバルトはいう。ニーチェの言葉を用いて「飼い馴らされた写真」とタイトルしている。もはや写真は受動態としての「芸術」でしかない。「飼い馴らされた写真」とはどういう意味か。

「『写真』は芸術となることができる。だがそうなると、『写真』にはもはや狂気はいささかも含まれず、『写真』のノエマ(「《それはかつてあった》ということ」)は忘れ去られ、したがって『写真』の本質が私に働きかけるということはなくなる」(バルト「明るい部屋・P.143」みすず書房

写真に対する去勢手術が強制的に執行されるわけだ。

「『写真』に分別を与えるもう一つの方法は、『写真』を一般化し、大衆化し、平凡なものにすることによって、ついには『写真』の前の他のいかなる映像も存在しなくなるようにする方法である。そうなれば、『写真』を他の映像との関連において特徴づけ、その特殊性、その異常さ、その狂気を主張することはできなくなる」(バルト「明るい部屋・P.143」みすず書房

しかし写真に対する強制的去勢手術だけでなく、この種の政治的統治方法は世界史、とりわけ欧米の近現代史を読めば容易に理解できるように他方で連続するテロリズムの温床をわざわざ生産してしまう。ニーチェはその原因を統治者の《徳のなさ》に帰しているが。ともかくバルトは狂気を取るか分別を取るかという問いの前で立ちすくんでなどいない。写真の場合、どちらも選ぶことができるからである。

ニーチェ自身はどういっているだろう。「道徳化」とは時の権力者層による人間の「家畜化」を意味する。

「《芸術でもって道徳化に抗戦すること》。ーーー道徳的狭隘化や視野の狭い光学からの自由としての芸術、ないしは、それに対する嘲笑としての芸術」(ニーチェ「権力への意志・第三書・八二三・P.338」ちくま学芸文庫

「『善と美とは一つである』と主張するのは、哲学者の品位にふさわしからざることである。さらにそのうえ『真もまた』と付け加えるなら、その哲学者を殴(なぐ)り飛ばすべきである。真理は醜い。私たちが《芸術》をもっているのは、私たちが《真理で台なしにならない》ためである」(ニーチェ「権力への意志・第三書・八二二・P.338」ちくま学芸文庫

ニーチェの頭の中にはアポロン的な芸術とディオニュソス的な芸術があった。両者は二元論的対立的な形式で考えられていた。ニーチェディオニュソス的なもの〔官能性、残虐性、創造性〕を賞賛する。そうでなければアポロン的なもの〔典型性、単一性、明確性〕も引き立たないからだ。

「真理は醜い」とニーチェはいう。しかしたとえば、ゾラ作品を取り上げて述べる。「醜いものに快感をおぼえた」ことを隠していないという点で、作家として自己欺瞞していないとむしろ評価する。

「しかしゾラは?しかしゴンクール兄弟は?ーーー彼らが示す事物は、醜い。しかし、彼らがこれらのものを示すという《事実》は、彼らが《こうした醜いものに快感をおぼえた》ということにもとづいているーーー諸君がこれとは別の主張をするなら、自己欺瞞(ぎまん)にかかっている」(ニーチェ「権力への意志・第三書・八二一・P.337」ちくま学芸文庫

ゆえにこういえる。今の日本のフリーライターや評論家は、芸術に対して余りにも考えが足りない。要するに「自己欺瞞(ぎまん)にかかっている」と。ゾラから。

「当然ここまで落ちぶれれば、女としてのどんな誇りもふっとんでしまう。ジェルヴェーズはかつての気位の高さも気どりも、愛情、礼節、尊敬にたいする欲求も、すっかりどこかへ置き忘れてしまった。前からでもうしろからでも、どこをどうけとばされても、いっこうに感じなかった。あまりにも無気力で、だらけきってしまっていた。だから、ランチエは完全に彼女を見放していた。もう形の上だけでも抱こうとはしなかった」(ゾラ「居酒屋/P.505」新潮文庫

さてしかし、もし芸術家が逮捕された場合、中国のように作家や作品製作者が脅迫を受けたり行方不明となった場合、どういうことが起こってくるだろうか。カフカ作品はそのようになってしまった世界、すでに破局しつつも現実的破局をさらに遠くへ押しのけ置き換えて延々と延命していく世界を描いている。

BGM