ところで、そのような一般大衆の日常生活を揶揄し愚弄する人々の生活は、揶揄され愚弄されている人々の労働力と消費によってようやく成り立っているにもかかわらず、なぜ揶揄し愚弄せずにはおれないのか。そしてなぜその揶揄や愚弄をユダヤ系大資本複合体に向けようとはしないのか。まさかとはおもうがユダヤ系大資本複合体の上層部の人々が今の日本の一般的労働者より以上に何千倍何万倍も凄まじく労働してきたと本気で信じているわけでもあるまいに。神を廃絶して資本に置き換えた人々の意志を巧妙に相続したに過ぎない。
「キリスト教はユダヤ教から発生した。それはふたたびユダヤ教のなかへと解消した。キリスト教徒は、そもそものはじめから、観想的な態度をとるユダヤ人だったのであり、したがってユダヤ人は、実践的〔実際的〕なキリスト教徒なのであって、実践的キリスト教徒はふたたびユダヤ人となった」(マルクス「ユダヤ人問題によせて」『ユダヤ人問題によせて/ヘーゲル法哲学批判序説・P.65』岩波文庫)
そんなわけで、日本の一般大衆の日常生活を揶揄し愚弄する人々の頭の中で、「節約」《と》「死刑」とはどこでどのようにしていとも安易に繋がることができるのか。考える以前、あらかじめ繋がってしまっているからにほかならない。揶揄し愚弄する人々は自分で自分自身を始めから自己瞞着している。節約を心がける一般大衆はなぜ「節約」するのか。揶揄し愚弄する人々はその事情について考えようとしないからだ。思考を怠っている。怠惰の余り。次のように。
「《死刑》。ーーーどんな死刑も殺人よりもっとわれわれの感情を傷つけるのはどういうわけであろうか?それは裁判官の冷酷さ、たえがたい準備、その他の人をおどろかすためにここでひとりの人間が手段として利用されるのだという洞察、である。なぜなら、かりに或る罪が存在するにしても、その罪が罰せられるのではないからである。罪は教育者・両親・環境に、われわれにあって、殺人者にはないからであるーーーわたしのいうのはそうさせる事情のことである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・七〇・P.100~101」ちくま学芸文庫)
貨幣は商品と交換されるやいなや価値(剰余価値含む)を達成するのであり、その限りでしか価値(剰余価値含む)を達成できない。その限りでしか利子を生まない。したがって盆休みは今や《消費劇場》として機能している。だが《消費劇場》の客の入りは洒落にすらなっていない。物流は余りかんばしくない。間違ってもマッチョとはいえない。かつての隆盛ぶりを誇ってはいない。もはや老化している。人間は老化するが、国家もまた老化する。もっとも、資本主義は老化を知らないけれども。資本主義は国家のことを考えない。老化すれば新しい住処を探し出してそこに強度を移動させるだけでよい。あっさりしたものだ。だから昨今では国家的老化と資本の自己更新性との乖離が、資本と国家との分裂が、はっきり目に見えるようになってきた。可視化されるようになってきた。可視化によって拭いきれない将来不安が一般大衆の頭の中をかすめる。将来不安が一般大衆の頭上を覆っている。頭上ばかりか足元から底冷えさせてもいる。なのにこの忙しさはどうだ。サービスは労働へ、労働はサービスへと化したからである。
「労働はすべてサーヴィスになるーーーただそこに居ることがそのまま職業となり、時間を消費し、時間を《提供すること》、これが労働となる。出席のあかし(アクト)をたてることや、臣従のちかい(アクト)をたてることと同じように、労働の『あかし=遂行』をたてること。この意味で、提供は事実上提供者と分離できない。ーーー労働は他の実践とも区別できなくなるし、とくにその対極項たる自由時間とも区別がつかなくなる。自由時間は、労働と同じように動産化されたり投資されたりする(あるいは生産的な資本引きあげすらおこなわれる)のだから、今日では労働と同じ資格で《サーヴィス提供》なのであり、おそらくは賃金をうけとることも当然至極といわねばなるまい(事実これはありえないことではない)。要するに、生産的労働と非生産的労働との想像上の区別が破産するばかりではない。労働と他の活動との区別すらも破産するわけである」(ボードリヤール「象徴交換と死・P.49~50」ちくま学芸文庫)
下層階級にとって手の届くのは読書くらいのものだ。しかし「消費の快楽」としての読書は余りにも瞬間的なものでしかなく、そして遂に瞬間的な快楽の次元に留まる。かえって虚しい。だからわざわざ「テクスト」に置き換える。
「わたしはプルーストを、フロベールを、バルザックを読み、さらに読みかえして、大いに楽しむことができる。それがアレクサンドル・デュマであっても、どうしていけないわけがあろう?しかし、この快楽は、たとえそれがどれほど強烈であっても、たとえあらゆる偏見を免れていても、なお(批評がおこなうある種の例外的努力を除けば)、部分的には消費の快楽にとどまる。というのも、わたしはこれらの作家を読むことはできるが、しかしまた、それを《ふたたび書く》ことはできない(今日、《そのように》書くことはできない)、ということを知ってもいるからである。そして、このかなり悲しい認識だけでも、わたしをこれらの作品の生産から遠ざけるには十分であるが、まさにそのとき、このへだたりがわたしの現代性の基礎をきずくのだ(現代的であるということは、繰りかえすわけにいかないものは何かを真に知っている、ということではなかろうか?)。ーーー『テクスト』とは、いかなる言語活動も他の言語活動の優位に立たず、すべての言語活動が(循環する<シルキュレ>、というこの用語の意味をも保ちつつ)交流する<シルキュレ>空間なのである」(バルト「作品からテクストへ」『物語の構造分析・P.103~104』みすず書房)
なるほどバルトはいう。「いかなる言語活動も他の言語活動の優位に立たず、すべての言語活動が(循環する<シルキュレ>、というこの用語の意味をも保ちつつ)交流する<シルキュレ>空間なのである」と。しかしどんな読解であっても一度は特定の言語活動が優位に立たないわけにはいかない。けれども、一度優位に立った特定の言語活動は、その後また下位系列へと組み込まれていく。「循環」はそのようにして起こる。その意味ではニーチェを参照しなくてはならない。
「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させるのである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫)
しかしこのことはニーチェ以前、ライプニッツにおいてすでに述べられている。
「私たちの意識するどんなに小さな思考でもその対象のなかに多を含んでいるのを見いだすとき、私たちは自身で、単純な実体のなかに多様性を経験する」(ライプニッツ「モナドロジー・P.22」岩波文庫)
さて、年中行事の中であろうとなかろうと、動物は《輪廻》というイデオロギーを知らない。動物はそもそもどんなイデオロギーも知らない。〔近代の産物である〕人間の目から見て、なぜ動物は魅力的に映って見えるのだろうか。何らかのイデオロギー(とりわけ言語と文法)の囚人としてしか生きていくことができない人間の目には、どんなイデオロギーとも無縁の動物は理屈抜きに魅力的に見える。そして魅力的であるということは同時に悪魔的であり自由であり《アトピック》であることを意味する。
《アトピック》。“topic”=「話題、主題、項目」に否定形の“a”を付した“atopic”。要するに、場所の外。一般的文化圏の他。コード化されない。分類できない。わけがわからない。
ライプニッツは動物についてこう述べる。
「《輪廻》はなく《変態》がある。動物は部分だけを変え、取り、捨てる。このことは栄養摂取においては、少しずつ、感じられないほど小さな部分を通して、しかし絶えず起こっている」(ライプニッツ「理性に基づく自然と恩寵の原理」『モナドロジー・P.84』岩波文庫)
ドゥルーズの用語に置き換えると、動物は《輪廻》するのではなく《生成変化》するのだ。そして人間が生成変化するとき、ドゥルーズとガタリが、まず第一に動物への生成変化を上げていることは何ら不当ではないのである。カフカ「変身」、ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙」、メルヴィル「白鯨」参照。
なお、アメリカの「お馬鹿」で「愚劣な」トランプ大統領に告げておかねばならないだろうことがある。言葉にすれば、というより、言葉であるがゆえに、大変両義的なものだ。トランプ周辺の政治的思想的テクノクラートにもたやすく理解できる内容だろうとおもわれる。アルトーがいっているのだが。
「アナーキストは言う。神も支配者もなく、我のみがある。ヘリオガバルスは、ひとたび玉座につくやいかなる法も受け入れない。しかも彼が支配者である。個人的な彼自身の法がそれ故に万人の法となるだろう。彼は専制政治を押しつける。どんな専制君主も結局は王冠を手にしたひとりのアナーキストでしかなく、しかも彼は世界を自分の命令に従わせるのだ」(アルトー「ヘリオガバルス・P.178」河出文庫)
ここまではトランプに当てはまる。あるいは中国の習近平にも。ただしロシアのプーチン政権は国内秩序がだだ崩れになっていて暴力はむき出しでしかなく、もはや東西冷戦時代に顕著だった緊張感を失ってしまっておりほとんど関心を引かない。さて、トランプになくヘリオガバルスにあるもの、それが問題の焦点だ。ヘリオガバルスには突出したアナーキー性だけでなく次のような高度な論理的倫理性が見受けられる。
「それにもかかわらずヘリオガバルスのアナーキーのなかにはもうひとつ別の観念がある。自分を神と信じ、自分の神と自分を同一視することで、彼は人間の法を、それを通して神が語っていたような、不条理で突飛な人間の法をでっち上げるという間違いをけっして犯さない。彼は神の法に従うが、彼はその奥義を授けられたのであり、しかもあちこちでの行き過ぎや、幾つかのつまらぬ冗談を除けば、ヘリオガバルスは受肉した神の神秘的視点をけっして捨てなかったのだし、神の千年来の儀式に従っていることを認めねばならない。
ローマに到着したヘリオガバルスは元老院の男たちを追い出し、代わりに女たちを据える。ローマ人たちにとって、それは無政府状態なのであるが、テュロスの王位の基礎を築いた月経の宗教にとっては、そしてそれを適用するヘリオガバルスにとっては、そこにあるのは単なる均衡の回復、法への考え抜かれた回帰にすぎない、法をつくる権限は、最初に生まれ、宇宙秩序のなかに最初に到来した者である女性にあるからだ」(アルトー「ヘリオガバルス・P.178~179」河出文庫)
ヘリオガバルスは《女性の身体》を原理として前面に押し出した。ヘリオガバルスが顰蹙(ひんしゅく)を買ったという事実は、古代ローマとそのキリスト教が、表面的には法による統治を謳っておきながら、実際どれほど激しい女性蔑視社会であったかを、欺瞞的法でしかなかったかを、如実に物語ってもいるのである。
☆犬好きさんのご来訪がありました。井の頭公園ですか。その昔よくドラマのロケなんかに使われていました。それはそうと東京都はいろいろと見どころがあっていいですね。何度か行ったことがありますが、一日かけても歩いて見て回れるのはほんのわずか。八〇年代後半の神田の古書店街なんかは汗まみれになって半日かけても飽きなかったなあ、と。猫よりお返事です。日差しが気になる様子。

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