Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

ステレオタイプを斜めに横断する倫理

ドゥルーズガタリがいうように、「蘭は雀蜂のイマージュやコピーを形作ることによって自己を脱領土化する」。ところが。こう続く。

「どうして脱領土化の動きと再領土化の過程とが相対的なものであり、絶えず接続され、互いにからみあっているものでないわけがあろう?蘭は雀蜂のイマージュやコピーを形作ることによって自己を脱領土化する。けれども雀蜂はこのイマージュの上に自己を再領土化する。とはいえ雀蜂はそれ自身蘭の生殖機構の一部分となっているのだから、自己を脱領土化してもいるのだ。しかしまた雀蜂は花粉を運ぶことによって蘭を再領土化する。雀蜂と蘭は、非等質であるかぎりにおいてリゾームをなしている」(ドゥルーズガタリ千のプラトー・上・P.29」河出文庫

ここで述べられている「蘭と雀蜂」とのリゾーム的関係。ジュネ作品のあちこちで見ることができる。このリゾームは同質的である必要性を何ら要しない。「雀蜂と蘭は、非等質であるかぎりにおいてリゾームをなしている」。というのは、蘭にせよ雀蜂にせよ、両者は絶えず生成変化することを止めないかぎりで、両者はつねに絡み合っているため自分で自分自身を変態させていくほかなく、同一的ではなく「非等質的」であることによって「蘭と雀蜂」の脱領土化も再領土化も可能だからである。もし万が一、両者ともに同一性へ解消されてしまえば、それこそ「蘭と雀蜂」はリゾームをなさず、あらゆる運動を停止させてしまい、したがって「蘭と雀蜂」は両者ともに破滅してしまうだろう。

ジュネはそのことがよくわかっている。ジュネ作品の登場人物は、あるいはそれが「虱」(しらみ)であってもなお、ただ単なる虱としてではなく脱領土化する運動の重要な部分をなす。たとえば、ジュネの部屋にいる虱が脱領土化しようと動き出す。しかしジュネは虱がその都度ジュネにとって重要な意味をもつかぎりでは虱を捕獲して再領土化する。捕獲されてジュネの手元に回帰してきた虱はしかし、脱領土化する前の虱とはすでに違っている。再領土化され新しくジュネの身体を豪華に飾り立てることになった虱。再領土化されたにもかかわらず、むしろそれゆえに、ジュネを新しく生成変化させる。ジュネの変化とともに虱自身もまたジュネによる絢爛な装飾として生成変化の流れのうちへ投げ込まれる。ただちに虱は新しい脱領土化への逃走線を与えられる。

「虱どもは我々を棲家(すみか)としていた。この一族は我々の衣服に活気と賑わいとを与えていて、もしそれが無くなると、我々の衣服はたちまち死んだものに感じられるのだった。ーーー虱は我々の繁栄の唯一の表徴だったのだーーーむろんそれは繁栄のまさに正反対のものの表徴ではあったが、しかし、我々の境涯に対してそれを是(ぜ)とする復権の操作を加えた以上、それと同時にその表徴をも是としたことは、論理上当然のことだろう。成功とよばれるものを味わうための宝石と同じように、我々の零落を確(しか)と味わうために役だつものとなって以来、虱は貴重な存在であった」(ジュネ「泥棒日記・P.29~30」新潮文庫

さて、言葉というものは一体どこから言葉になるのか。二人の人間の対話において、言葉が言葉をなすのは一体どのような瞬間なのか。コミュニケーションが成立した瞬間か。とはいえ、無視するということも一つのコミュニケーションである以上、両者ともに相手の言葉の意味するところがわかっていなければ無視すらできないという事情もある。沈黙もまたコミュニケーションの一つの様態である。しかし、言葉ということにかぎってみれば、たとえば「隠語」はどのようにして人間の口から出てくるのだろうか。そしてそれを見ている相手はなぜそれが隠語であるとわかるのか。その瞬間をとらえた映像的な叙述がある。本来の隠語とは恥じらいに満ちた実につつましいものだ。

「十五歳で、クレルはすでに、一生のあいだ彼の特徴として知られるようになった、あの微笑を身につけていた。泥棒の仲間になって暮す道を彼はえらび、泥棒の隠語を語った。クレルを十分に理解しようと思ったら、この隠語をくわしく知っておかねばならぬ。クレルの精神的な肖像、クレルの感情そのものが、こうした隠語に依存し、ある種の文章構成法や特殊な綴字法の形をとるからである。彼の話す言葉のなかに、わたしたちは次のような表現を見出す。すなわち、《リボンをひらひらさせろーーー(道を通らせろ、邪魔者はどけ)》《おれは厄介の上にいるーーー(げっそりした、やきもきしている)》《お前のたるみをぴんとしろーーー(急げ)》《面(つら)をもどすにゃ当らねえーーー(おととい来い)》《ーーーやつは太陽を刺激した(顔が赤くなった)》《ーーーどうして梯子段をのぼるんだろう(あいつはどうしてこう信じやすいんだろう、お人好しなんだろう)》《ーーーおい、姐ちゃん、おれは十二時を指してるぜ(勃起している)》《流しとけーーー(勝手に喋らせておけ)》等々。こうした表現は決して明瞭な言葉では語られず、むしろ口のなかで意味も分らぬまま、もぐもぐと呟くように語られる。つまり、口から飛び出すわけではないので、クレルの話を聞いても、クレルがどういう人物であるかはさっぱり分らない。あえて言えば、クレルの輪郭すらはっきりう泛び上ってはこない。むしろ逆に、こうした表現は、彼の口から彼の内部に入りこみ、彼の内部に蓄積され、そこに沈殿して厚い泥土を形成するように思われる。時として、この泥土から透明な一粒の泡が立ちのぼり、彼の唇のところまで上ってきて、ぱちんとはじける。この立ちのぼってくる一粒の泡が、つまり彼のぼつりと洩らす隠語なのであった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.16~17」河出文庫

少なくともクレルの生活世界と同様の次元に属する世界の先輩住人にあたる語り手からみれば、クレルが何か言葉にして語り始めようとしているものは紛れもない隠語であると理解できるのである。たいへん緻密に描かれているため、実際どうなっているのかよくわからないかもしれない。「むしろ逆に、こうした表現は、彼の口から彼の内部に入りこみ、彼の内部に蓄積され、そこに沈殿して厚い泥土を形成する」、そして「この泥土から透明な一粒の泡が立ちのぼり、彼の唇のところまで上ってきて、ぱちんとはじける。この立ちのぼってくる一粒の泡が、つまり彼のぼつりと洩らす隠語」とある。この描写には注目すべき点がある。

言語はもともと内面にあるものではない。それは繰り返し反復され身体と結合し、そのあとで事後的に、内面に蓄積されたものとして受け止められる。ところが人々は言語が口から発せられるとき、何か確固たる内面が先に実在していて、その上で内面を表現するものとして言語が口から発声されるに違いないという転倒した錯覚に陥っているのだ。ニーチェは音楽についてこう述べている。

「《音楽》ーーー音楽はそれ自身だけでは、感情の《直接的》言語とみなしてもよいほどわれわれの内面に対して意味深いものでも深く感動させるものでもない、むしろ音楽は詩と太古に結合していたので、非常に多くの象徴性が韻律的運動の中へ、音の強弱の中へこめられて、その結果われわれは今では、音楽が直接内面《へと》語りかけ、内面《から》出てくると《妄想する》」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・二一五・P.226」ちくま学芸文庫

「《身振りと言語》ーーー言語より古いのは身振りの模倣である、これは思わず起こるものであり、身振りに物をいわせることを全般的に抑制したり筋肉をたしなみ深く統御したりしている今でもなお非常に強いので、われわれは感動した顔をみて自分の顔の神経支配を失わずにはいられない(つくりあくびが、それをみる人のところでも、本物のあくびを呼び起こすのを観察することができる)。まねられた身振りは、まねた人を、その身振りがまねられた人の顔や体に現わしていた感覚へとつれもどした。こうして人はたがいに理解することを学んだ、ーーー人が身振りでたがいに理解するようになるや否や、身振りの《象徴性》もまた発生することができた、つまり人はアクセントのある言語をたがいに了解しあうことができた、しかもはじめはアクセント《と》身振り(この身振りにアクセントが象徴的に加わってきた)を、のちにはただアクセントだけをあらわす、というようにしてである。ーーー音楽、とくに劇的音楽の発展において、そこでは現在われわれの眼や耳に起こったのと同じことが、昔たびたび起こったように思われる、はじめ音楽は、説明する舞踏や身振り舞踏(身振り言語)がないと、空虚な騒音であるが、音楽と運動とのあの並行に長らく馴れることによって、耳は音の比喩を即座に解釈するように仕込まれ、ついには眼にみえる運動をもはやまったく必要とせずに、それがなくても作曲家を《理解する》ような、すばやい理解の高みに到達する」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・二一六・P.227~228」ちくま学芸文庫

だからこれは音楽という言葉が芸術を現わしていればいるほど勘違いされがちな事情でもある。むしろ芸術としての音楽は、今のような形態を獲得するまでにおそらく無限といえるほど複数かつ錯綜した幾多の歴史に彩られた野蛮な行為の連続を要している。そして途方もない時間をみっちりかけて洗練された後の、まだまだほんの先端しかなしていない可能性に満ちた形態なのだ。

そしてまた、身体で理解するとはどういうことか。それは何一つマッチョな過程を要請するものではない。事情は単純である。

「反復される努力は、それがつねにおなじものを再生するにすぎないならば、いったいなんの役にたつというのだろう。反復がほんとうに効果を有しているとするなら、それはまず《分解し》、つぎに《ふたたび合成し》ながら、かくて身体という知性に語りかけるところにある。反復は、それがあらたにこころみられるたびごとに、ふくまれていた運動を展開し、そのつど身体の注意をあらたな細部に対して呼びおこすが、その細部はそれまでは気づかれずに生起していたものなのである。反復は身体に分割させ、分類させる。かくて身体に対して、なにが本質的なことがらであるかを強調してみせるのだ。反復は、全体的な運動のうちに一本一本、内的構造をしるしづける輪郭線を見いだしてゆく。この意味で運動は、身体がそれを理解したときに習得されたといえるのである」(ベルクソン物質と記憶・P.220~221」岩波文庫

話題が音楽におよんだので、ジュネにおける音楽と犯罪的行為との緊密な関係について述べておこう。ジュネはいう。

「すべて倫理的行為の美しさは、その表現の美しさによって決定される。それは美しい、と言えば、それですでにそれが美しい行為となることが決る。あとはそれを立証すればよいのだ。そしてその役目は、もろもろの表象(イメージ)、すなわち、さまざまな物理的世界の壮麗さとの照応、が行う。それがもし歌を、我々の咽喉(のど)の中で発見させ、湧き起こさせるならば、その行為は美しいのだ。ときとして、下劣とされている行為を我々が思い描くときの意識が、やがてそれを表示するときの表現の強烈さが、我々を否応なく歌に駆りたてることがある。もし、裏切りが我々を歌わせるとすれば、それは、それが美しいからにほかならない」(ジュネ「泥棒日記・P.24」新潮文庫

倫理的行為。それはジュネにとって「裏切り、泥棒、同性愛、等々」を意味する。それが美しいかどうかを決めるのは、その行為がジュネを不意に歌わせる場合だけである。自然に歌が咽喉から流れ出てくるとき、その行為がどのような行為であっても、それは美しい。行為の美しさを計量しようとしたとしても、何かこれといった基準は存在しない。それだけでただ美しいというものがあるわけでもない。むしろ逆に何の気なしに不意に身体が歌を歌いだすとき、その行為は美しい行為に《なる》。倫理とはもともとそういうものだ。美しさと正しさとはまた別問題なのである。さらにジュネの場合、正しい行為とはつねに愛と美とを伴っていなくてはならない。しかしそれが「真理」かどうかなどはまったく別次元に属する。ジュネはジュネ自身が生息する世界の掟を知り抜いている。どのような卑劣な行為にみえていてもなお、それがみずからの身体から音楽を発生させるとき、その瞬間、それはまさしく美しく正しい倫理的行為に《なる》のだ。倫理的かどうかの決定権は、行為しているときに行為がなされている場所全体に向けて燦然と歌があふれかえってくるという事実によって定められる。上位に位置するのはあくまでも音楽なのだ。

長崎県島暮らしさんから訪問頂きました。ご健康そうですね。犬も人も。島暮らしですかあ。いいですね。自然がまだまだ一杯残っているような。とりわけ、どちらのウエスティもお人好しぶりがなんとも良いなあと。見ていて微笑んでしまいます。猫よりお返事です。まだ子猫だった頃、暑い日はこんなふうにかごの影で涼んでいました。


BGM