ポーロはジェラールによって見出される。工事現場に集中している強度がジェラールを引き寄せたともいえる。たとえば四季のある地域、特に日本の夏の工事現場ではあたかも目に見えるかのような様態を呈する集中的な諸力の運動。
「ジェラールは、ベルリンで、鉄道線路に跨った陸橋の上を通りかかったおり、ポーロに目をとめたのである。上半身裸の作業の真最中で彼が線路に没頭している姿を見つけたのだ」(ジュネ「葬儀・P.196」河出文庫)
ジュネ作品ではいつも重要な役割を果たす「髪の毛」。とはいえ「上半身裸」という状態は余り重要でない。もし仮に「下半身裸」であってもほとんど重要でないように。ジュネの目を奪うのは「作業の真最中で彼が線路に没頭している」という動態であることが大事なのだ。その身体が上半身でも下半身でもなく《全身で》なおかつ「髪の毛」を振り乱しながら土木作業に打ち込んでいること。ジェラールにとって、したがってジュネにとって、ポーロの身体は「線路《への》没頭」そのものである。ジェラールはポーロに注目する前にポーロの「乱れた髪の毛」に吸い寄せられる。
「最初は、その展望台から、手摺りにもたれ、苔と見間違いそうな乱れた髪の毛にジェラールはもっぱら興味を示していた。それらが頭蓋を、とりわけ労働者の頭蓋を覆って、彼らの美しさに役立つのに驚きをおぼえながら」(ジュネ「葬儀・P.196」河出文庫)
ジェラールはエリックと似ている。「労働者階級は好きでなかった」。というのも、どれほど労働者の肉体が魅力的であっても、しばしば一緒に寝ることがあるにせよ、その群れの中で自分自身までが労働者化してしまうことには耐えられない、という思想を持っていたからである。ジェラールは自分の身体とその力を労働力商品として販売することにいつしか慣れてしまうだろうことを恐れている。労働力商品として「奴隷である屈辱を手に入れる羽目になりかねないこと」に嫌悪を感じている。
「エリックとおなじで、彼も労働者階級は好きでなかった。黒く汚れて胼胝(たこ)のできた手は、ときに彼を愛撫することによって、すごく強烈な快感を惹き起すことがあるとしても、たいていの場合は、彼自身いつなんどきーーー宿命に逆らう意志を無くするだけでーーー腕の先に同じように汚れた両手を、両手の先に線路を、腕の中に長い幾日もの労働の疲れを、そしてそれと同時に奴隷である屈辱を手に入れる羽目になりかねないことをさとらせるのだった」(ジュネ「葬儀・P.196」河出文庫)
そのような条件がジェラールやエリックの中に、ふだん付き合いがあり男性同性愛者としてしばしば共に性行為に励むこともある個々の労働者に対する嫌悪ではなく、集団化し階級化された労働者階級への生理的嫌悪として現われる。この嫌悪は上流階級と下層階級との違いというだけでは説明不可能な嫌悪である。もっとも、資本に隷属するのが嫌なのなら逆に資本の側に立つことを考えるかといえばそうでもない。資本の側に立つためにはそれはまたそれなりの過程を踏んで行かなければ到達しようにも到達できない。ジェラールもエリックもポーロも資本家とは縁もなければゆかりもない。そこでジェラール、エリック、ポーロらはどうしたか。彼ら彼女らはジュネのいう最も安易な過程を選んだ。最も安易な過程を暴力とともに突き進んだ部分が彼ら彼女らである。
ところで次の文章は強度の塊としての労働者群の中からポーロの「髪の毛」が立ち現れるシーン。ちなみに、プルースト作品では集団化した少女の群れの中から徐々にアルベルチーヌが浮かび上がってくる。あの海辺の町で起こった過程と大変似通っている。実際、ジュネは書店でプルーストの本を盗んだかどで逮捕されたことがあるわけだが。しかしジュネはプルーストの本だけを盗んだわけではない。プルーストという小説家の名が埋もれて消えてしまうほど多くの他の窃盗行為に手を染めた。ジュネが書店でプルーストの本を盗んだのは事実だが、そればかり言い立てるのは読者を或る種の勘違いへ導いてしまう。ジュネを文学の神として神格化するという取り返しのつかない誤解を生じさせてしまう。ジュネはたまたま見出されたがゆえに小説家への道が切り開かれたのであって、もしコクトーが監獄で書かれた囚人らの文集に目を通していなかったとしたら、ジュネは「泥棒、裏切り者、性倒錯者」として生涯をまっとうすることができただろう。ところが途中で見出されてしまったため、ジュネは小説家として表現の自由を非合法ではなく合法的に与えられる立場になった。ジュネがサルトルやコクトーに敬意を表するのはその点であって、ほとんどただその点において敬意を表するのだ。非合法に強奪した立場でなく合法的に与えられたという意味で、サルトルやコクトーの奔走は、ジュネから見れば忌まわしく穢(けが)れた世間一般の「祝福」という価値概念をジュネに与えてしまう。それは余計なお世話ではないと同時に余計なお世話でもある。サルトルやコクトーはその献身的な働きにもかかわらず皮肉にもジュネを自己分裂させた。社会から認められることで孤独から離れることはできたが、社会はジュネの作品を評価したのであり、サルトルやコクトーを除けば、ジュネを人間として評価したわけではない。むしろ嘲笑った。ジュネはかつての孤独を捨て去ることはできたけれども、その途端、また別の孤独を手に入れてしまった。ジュネ作品に漂うどことなく冷ややかな醒めたイメージ。要するにジュネは世界に対して半ば白けている。
さて、ポーロの「髪の毛」は生き生きして見える。反面、ジェラールは自分の「髪の毛」の陰鬱さを思い浮かべてしまう。しかしジェラールは「色褪せた、生気のない、陰気な雑草のよう」な自分の「髪の毛」を通して或る「郷愁に似たものをおぼえる」。
「はじめのうちはそれらざんばら髪の盛土で隠れた顔を上から見分ける作業に熱中していた。やがて、髪の毛に、楽しげな髪の毛に気をとられた、片手ですばやくぞんざいに掻き上げられる、風にたなびく、自由であることで楽しげな髪の毛、彼自身の髪の毛は、たいそう美しくはあるが、棺の中のジャンの髪の毛のように色褪せた、生気のない、陰気な雑草のように思われた。自分がまだ拒みつづけているその境遇にジェラールは郷愁に似たものをおぼえるのだった」(ジュネ「葬儀・P.196~197」河出文庫)
ジェラールはポーロのような「髪の毛」を持っていない。持っていないが、持つことによって失ってしまうかもしれない今の境遇をそう簡単に手放すこともできない。ジェラールの陰鬱な「髪の毛」はそれこそ今まさにドイツに蹂躙されようとしている祖国フランスの象徴だからである。しかしジェラールもまたポーロ同様にフランスを憎悪している。彼ら彼女らは不断に融合と分裂とを繰り返すボーダー(変則者、極限、境界線)として様々な身振りを繰り広げる。ジェラールの回想はジュネの回想へと変容しつつ監獄の中庭の風景へ移る。
「橋の手摺りにもたれて頭を、節くれ立った、日焼けした上体を、筋骨を、作業場にうごめく人間の群を見つめていたーーーそして彼の胸をしめつけたやるせない悲しみはBーーー公園のテラスの高みから私の視線が監獄の中庭の内部へ潜り込んだとき私自身がおぼえたものに似ていた」(ジュネ「葬儀・P.197」河出文庫)
監獄の中にいるあいだ、囚人たちは仲間である。たとえ監獄の中で派閥が出き、争いが生じることがあっても、彼ら彼女らは闘争する力としてはごにょごにょうごめく一つの力の融合と分裂の反復にしか見えない。あえていえば死をかけて衝突し合う性行為のようだ。その意味では彼ら彼女らは一つのものへと還元されていると言える。だが、いったん監獄の外へ出て囚人でなくなってしまえば、その時点でもう監獄からの「追放者」として「除け者にされている」被害者意識がまとい付いてくる。深い孤独に慣れるまでには時間がかかるだろう。
「どの小窓のすきまからも、一つの顔が見えた。互いに合図し合い、窓から窓へ、私がそこから除け者にされている謎めいた事柄について話し合っているのにちがいなかった、そして追放者のような気分を味わうのは私のほうだった。自分が失った美しさを、自分の楽しさの源であった限りない苦悩や不幸までも私たちは懐かしむものだ」(ジュネ「葬儀・P.197」河出文庫)
ジュネたちが「懐かしむもの」。犯罪を繰り返すために監獄から出るのか。それとも監獄へ入りたいがために犯罪を繰り返すのか。反復しているうちにわからなくなるのである。むしろ反復自体が目的化してくる。反復される資本増殖を自己目的化した資本回転のように。それは途中で停止することができない。
ドイツ人労働者はむろんのこと、当時のフランス人労働者は誰でも疲弊していた。労働者階級全体に疲労の色が濃かった。諦観が支配していた。もう何をしても無駄だというニヒリズムにおちいっていた。しかしこのニヒリズムはドイツでなく始めはフランスの労働者のあいだで蔓延したニヒリズムであり、結果的にナチスとその大躍進を推進することになったドイツのニヒリズムとは違っている。当時フランスで蔓延していたニヒリズムは第一次世界大戦以前から広くヨーロッパで蔓延していたニヒリズムがさらに怠惰化したものだ。長期間にわたっており、すでにかなり重症化したステレオタイプにおちいっている。ドイツの首都ベルリンの工事現場ではドイツ人労働者のニヒリズムとフランス人労働者のニヒリズムとが入り混じっている。そんな集団の中に「一つだけ活々した手が、すごく気品のある腕の先で、神経質な、知的な動きを示している」のをジェラールは発見する。ポーロの身振りがジェラールを捉えた瞬間である。ジェラールはポーロにではなくポーロの身振りに引っかかった。ポーロは無意識の裡(うち)にジェラールを誘惑していたことになる。ポーロには何の落ち度もない。ところがポーロはヒットラーを演じるヒットラーに提供されるべく連れ去られる。
「ふとジェラールは全員フランス人である労務者たちの無気力ぶりに驚かされるのだった。どの腕も、行動する代りに、諦めた様子で線路を見つめているみたいだった。いま居る場所からは、みんなの言っていることは聞えなかったし、それにジュラールにはまったく理解しえない中味だったろう、ところがこの膠(にかわ)で固めたような身ぶりの群の中に、一つだけ活々した手が、すごく気品のある腕の先で、神経質な、知的な動きを示しているのを見て、彼は強い興味をおぼえ、その敏捷な手の持ち主はものを考え、そして行動するすべを心得ていることをさとるのだった。その顔が見たくなった」(ジュネ「葬儀・P.197」河出文庫)
後は問答無用で工事現場から連れ去ってきたというわけだ。ポーロの身振りだけがジェラールの目に照り映えて見えたのはポーロの身体が所属不明におもえたからである。ポーロが労働するのはほんの一時の金儲けのために過ぎない。ポーロは友人知人を多く持っているが、親しいといえる関係は誰とも持っていない。そもそも親しい関係を作ることができない。家族にもよそよそしい冷淡さで接することしか知らないしできない。ただ言語能力に長けており、なおかつ貨幣の力を知っている。そのようなポーロが工事現場の中で生き生きと見えたのは、親しい友人も知人もいる他の労働者らと異なり、ポーロの身体だけが、知性〔言語〕と貨幣とに代表される俊敏で光り輝く眩しい象徴としてジェラールを虜にしたからにほかならない。それは「身振り」、とりわけ「乱れた髪の毛」としてジェラールを巻き込んだのである。
「線路に下りねばならなかった。そこでジェラールは彼を見分けるためにその髪の毛と青いズボンを目印として頭へたたき込み、そして三分後、線路の上で降(お)り立ったとき、自分と同年輩の、片肱で額の汗を拭っている美しい若者と彼は向かい合ったのである。ドイツ人の現場監督にジェラールは理由を告げずに彼を差し出すよう要求した」(ジュネ「葬儀・P.197」河出文庫)
連れ去られたポーロはジェラールを介してヒットラーを演じるヒットラーの前に差し出される。
さて、アルトー。徐々に明らかになってくるのは作品「ヘリオガバルス」は戯曲として書かれたものだが小説として見ると一つの「家族小説」としても読めるということだろう。ヘリオガバルスの一族はいつも策謀を意志している。権力闘争に執念を燃やしている。転落が恐ろしいからでもあるが、転落する快感を知らないからでもある。ヘリオガバルスの祖母ユリア・マエサは妹ユリア・ドムナと同様に知性に恵まれている。しかしマエサの知性とドムナの知性とは逆方向へ傾斜している。
妹ドムナの知性は抽象的であり姉マエサの知性は具体的である。ドムナの知性は王妃であったにもかかわらずヘーゲル的であり、マエサは王妃でなかったがゆえ逆にマルクス的である。両者がバランスを保つことは皇帝が生きているかぎりで必要とされる条件に過ぎない。死ねば事態は急転する。ドムナはヘーゲルのいう「絶対精神」を信じているが、皇帝の死と同時に解き放たれた血を受け止めることができない。一方、姉のマエサは皇帝の死と同時に解き放たれた血を受け止めて行動原理へ置き換える。「絶対精神」ではなく、その実現としての「物質的生産力」を起動させる。妹ドムナはともすれば歴史を天上の神々の闘争として神話化してしまう。ところが姉マエサはあくまで地上において歴史を切り開く人物である。
「マエサは、熱狂を再びかきたてるやり方を心得ていて、太陽の黄金をふんだんに惜しみなく分配するのだが、夜になると、神殿の階段状になった地下倉庫に降りてゆき、金塊の分類を監視する。彼女はまるで荷役係か税官吏のようにそれらに札をつけたり集めたりする。生涯を通じて、ユリア・マエサは細心周到な先見の明、遠くを見据え、しかも遠くから事を準備する聡明さの証拠を示した」(アルトー「ヘリオガバルス・P.119~120」河出文庫)
ユリア・マエサはせっせと地下工作に励む。とはいえ、まず必要なのは何をおいても軍資金の確保である。エメサの町を舞台にマエサの指揮する軍隊によって日夜金品の移動が行われる。
「彼女は地下工作を恐れないし、ひそかに行われる破壊工作、坑道の掘削、こっそり行われる前進に通暁している。だがこれらの策動が彼女の役に立ち、何か大きな結果に至らねばならない」(アルトー「ヘリオガバルス・P.120~121」河出文庫)
地下工作を遂行するに当たってエメサの町の騒然たる賑わいは一にも二にも役立つ。エメサは一つの都市だ。近代ヨーロッパの出現とともに地中海沿岸にできた国際的港湾都市に似ている。アルジェやチュニスのように。
「というのも地雷を設置する者は、最後にはすべてが火で、太陽の大爆発で、真っ昼間に、物質のまっただなかで、物質を根こそぎにして終わるだろうということを知っているからで、それはすべての地下工作を消し去ってしまうのである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.121」河出文庫)
マエサの地下工作は「大爆発」で終わる規模と破壊力とを持っていなければならない。さらにそれは王権の転倒でありバッシアヌス王朝の再興でなくては意味がない。しかし地下工作が本当に「大爆発」と呼べるようになるのは事後的である。王権が転倒されバッシアヌス王朝の再興が確実なものになって始めて歴史的「大爆発」として後から承認される。もし失敗すればそれはただ単に失敗したクーデタで終わり、後々の笑いものとして語り継がれていくほかない。そうではなく、王権が転倒されバッシアヌス王朝の再興が確実なものになって始めて「破壊工作」は成就されたと見ることができる。さらにこの「破壊」は「物質を根こそぎにして終わる」かぎりで、始めて光り輝く貨幣となって、貨幣自身の多種多様な由来をすべて「消し去ってしまう」。「破壊工作」は跡形もなく消えてなくなる。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
という経過をたどるほかない。「太陽の大爆発」としての貨幣が出現するやいなやそれまでの過程〔地下工作、破壊工作〕は覆い隠されてしまう。言語が意識とともに出現するやいなや、なぜその言語が意識にのぼってきたのかという過程を消し去ってしまうように。太陽神は貨幣であり言語でありその意味では凝固なのだが、同時にそれは絶え間なく反復する欲望でもある。凝固し固定しステレオタイプ化してしまった死物としての力をただちに溶融させ流動させ無方向的アナーキーへと解放して世界中へ流通させる力でもある。太陽神は両方であり両義的な贈与である。パルマコン(医薬/毒薬)という両義性として常に流動している。そこに一方でアナーキーが、もう一方でアナーキーなものの統一の感覚が、見出されるのである。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM