判事は原則に忠実であろうとする。「線」といってもそれはいったい何を意味するのか。何かを意味する。人間の目に触れるやいなや意味してしまう。言語は多様なものを覆い隠す。一方、まったく別なものを表現したりもする。言語は便利な必要物には違いない。ところが取り返しのきかない過失を刻印する。判事はしばらく考える。「訴訟記録の中」に「《夜》という語に下線が引かれていた」ことについて。
「強調のための線は、文法的な記号、すなわち規則によって、或いはそれらの規則に基く規約によって権威づけられたしるしではないということのほかに、それはその語に正義感からではなく、密かな復讐心から発する一つの意味、もしくは判断をすら付け加える」(ジュネ「葬儀・P.263~264」河出文庫)
よく注意しないといけない。
「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下巻・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫)
ということはいつも多発しているからに違いないからだ。そして無関係であるにもかかわらずなぜか処刑された人間の数は当時すでに山々を突き崩し七つの海を掘り下げるほどにも上っていたろう。でなければ判事がこれほど注意深く考える必要性などどこにもなかっただろうからである。判事を注意深くさせる理由は実は他にもあるのだが、それは差し当たって、というよりほとんど問題ではない。ジュネが問題としているのはこの機会を利用して言語そのものに注意を向けさせる意図があった。それは「密告」あるいは「間諜」の問題に直結しているからである。さらに第二次世界大戦終結を待つまでもなく十九世紀すでに、言論界や文学界だけでなく司法関係者のあいだではよく知られている懸案事項があった。たった一個の記号にせよそれが言語的な意味を持ってしまう以上、言語はいったい何をなすかを。言語によって見出されるすべての動機について、犯罪に限らず、人間が行なうすべての行為の動機について、そこにはどのような《複合的》な事情が介在しているかについて、どれほど注意深くあっても飽きたりるということがないかを。
「《いわゆる動機の戦い》。ーーー『動機の戦い』ということが言われる。しかしそれは動機の戦いでは《ない》戦いを特徴づけている。すなわち、行為の前、われわれが熟慮するとき、意識の中には、われわれがそのすべてをなしうると思う様々な行為の《結果》が順番にあらわれ、われわれはこの結果を比較する。ある行為の結果が圧倒的に一層有利なものになるであろうと確認したとき、われわれはその行為の決心がついたと思う。われわれの考慮がこの結論に至る以前は、結果を推測し、それをその全体的な強度という点で見ぬき、しかもすべて脱漏の欠点がないようにし、この際計算はさらにその上に偶然で割り算されねばならない、という大きな困難のために、われわれはしばしば非常に苦悩する。そればかりか、最も困難なことをいうと、ひとつひとつとしては極めて確かめがたいすべての結果が、今や一緒に《ひとつの》秤の上でお互いに重さを計られなければならない。しかもあらゆるこれらの可能的な結果や《質》の相違のために、利益のこの決議論に対して、われわれは分銅のほかに秤も欠いているということが、全くしばしばなのである。しかしわれわれがこれにも話をつけ、われわれがお互いに重さを計りうる結果を、偶然が秤の上にのせたものとしよう。そうするとわれわれは今や実際に、ひとつの特定の行為の《結果の像》の中に、ほかならぬこの行為をする《動機》を、ーーーそうだ!《ひとつの》動機を持つことになる!しかしわれわれが結局行為する瞬間には、ここで論じられた種類、『結果の像』の種類とは違った種類の動機によって、われわれはしばしば十分に規定されるのである。そのときに影響を与えるのは、われわれの力の働きの習慣や、われわれがおそれたり、尊敬したり、愛したりする人による小さな刺激や、さしあたりのことをすることを好む怠惰や、決定的な瞬間に、手あたり次第の極めて些細な出来事によって引き起こされる想像力の興奮である。全く計り知れないまま登場する肉体的なものが影響を与える。機嫌が影響を与える。まさしく偶然にほとばしり出ようと準備していた何らかのわずかの感動の噴出が影響を与える。手短にいうと、われわれが一部は全然知らず、一部はほんのわずかしか知らない動機、またわれわれが《以前には》お互いに全く計算でき《なかった》動機が、影響を与える。これらの動機の間にも、戦いが、追いやりと駆逐が、分銅の量の均衡と低下があることは、《ありそうなことである》ーーーそしてこれが本来の『動機の戦い』であるであろう。ーーーそれは、われわれには全く見えもしないし、意識されもしないものである。私は結果と成果を計算し、こうして《ひとつの》非常に重要な動機を動機の戦列に編入した。ーーーしかし私はこの戦列自体を見ないと同様に、編成もしない。戦いそれ自身が私には隠されている。勝利そのものも同様である。なぜなら、私が最後に何を《なす》かは、私のよく知るところであるが、ーーーいかなる動機がそれによって本来勝利を収めることになったかということは、私のよく知るところではないからである。あらゆるこれらの無意識的な過程を勘定に入れないこと、そして行為の準備を、それが意識されるかぎりにおいてのみ考えることが、《まさしくわれわれの習慣である》。そこでわれわれは、動機の戦いを、様々な行為の可能的な結果の比較と《取り違える》。ーーー最も効果があり、そして道徳の発達にとって最も宿命的な、取り違えのひとつである!」(ニーチェ「曙光・一二九・P.151~153」ちくま学芸文庫)
「取り違え」こそが「道徳の発達」にとって必要だったと。言語が必要物であるにもかかわらず「極めて粗雑な必要物」だとニーチェはいうが、この文章で言われていることもまた違わない。人間は今なお不断に「取り違え」ていると。「取り違え」こそ人間とその「道徳的発展」のための生存の条件であると。
また活字にせよ記号にせよ文章にせよ言語に類するとされているものは《言語ゆえ》に読者とは切り離されているという事実がある。言語を見るやいなや瞬時に何らかの意味を生じさせないわけにはいかないという事情を、人間は、自分自身をその内部に含む社会的諸関係において持っている。
「模写すること(空想すること)は、私たちには、知覚すること、たんに知覚することよりも、いっそう容易になされる。このゆえに、私たちが、たんに知覚している(たとえば運動を)と思っているいたるところで、すでに私たちの空想は助力し、捏造し、私たちが多くの個別的な知覚をする苦労を《免れさせ》ているのだ。この《活動》は通常見のがされている。私たちは、他の諸事物が私たちに影響をおよぼすさい、《受動的》であるのでは《なく》、むしろ、即座に私たちは私たちの力をそれに対抗させる。《諸事物が私たちの琴線に触れるのだが、そこから旋律をつくり出すのは私たちなのだ》」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一九・P.21」ちくま学芸文庫)
さらになるほど言語を見るやいなや「《そこから旋律をつくり出すのは私たちなのだ》」が、「そこからつくり出された旋律」はすでに言語として意識化されており、言語として意識化されたもののみが意識にのぼってくるのである。次のように。
「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫)
諸条件に拘束されつつ判事は考える。夜という語の下に引かれた「線」。それは「一種の密告」であり、報告という形式を取った「間諜の作品である」と。
「夜という語の下の線、それは一種の密告であり、そしてこの報告は間諜の作品である、だから私はそんなものを取り上げるわけにはいかない。わたしは深い正義を表明するつもりだ)」(ジュネ「葬儀・P.264」河出文庫)
判事はおもう。「下線」について現段階で「正しいもの」か「正しくないもの」かを「区分け」してしまえば、その行為はすでに法廷でなされるべき行為に踏み込んでしまうことになる。「密告」であり「間諜の作品」でもある書類を公認することはできない。しかし判定しないとすれば判事は判事でなくなるのではないか。判事としては「完全に溶け去り、椅子の足もとに垂れ流した小便の水溜りでしかなくなってしまう」かもしれないと、無意識のうちに渦巻く変身への意志を露呈させてもいる。
「判事の職務は判定すること、すなわち正しいものと、正しくないものを区分けすることだとすれば(判定しそこなうことはもはや判定するうちに入らない以上)、彼はますます判事ではなくなり、完全に溶け去り、椅子の足もとに垂れ流した小便の水溜りでしかなくなってしまうということも考えられる」(ジュネ「葬儀・P.264」河出文庫)
判事は保留的態度を取ろうというのだろう。しかしなぜなのか。言語についての考察をすっかり忘れて、もう判事はポーロの身体を愛の対象としか見ていない判事に変化している。人間は、姿形はそのままで瞬時に全然まったくの別人になれるのである。判事はポーロにひとこと声をかける。
「(正しく《振舞ってみせるぞ》)だけど正しいということは同時に慈悲深いということをも意味する。声に出して彼は付け加えた。『この訊問では夜のことは出さないつもりだ』『有難うございます、判事さん、あんたはいいおひとだ』」(ジュネ「葬儀・P.264」河出文庫)
と、犯罪者と判事とのあいだに閃光のように出現する「和平」。
「ポーロの声はやくざっぽい調子を取り戻した、それは心から真っ直ぐに発して、そこに見出される言葉を運んだからだ。一瞬のあいだ、それもなんというすばらしい一瞬!彼は社会と和平を結ぶのだった」(ジュネ「葬儀・P.264」河出文庫)
ポーロは質問しようとするが、判事はそんなことに構ってはいない。
「『報告書は裁判長のお目にとまるでしょうか、判事殿ーーー場合によってはーーー』」判事は答えなかった。タイプで打った半透明の薄紙を見つめ、下線の引かれた、夜という語に惹きつけられていた」(ジュネ「葬儀・P.265」河出文庫)
犯罪者の命運を判事が左右しようとするその瞬間、判事自身は「夜という語」が発する燦爛たる「夢想の中へ自分が旅立つのに任せ」てしまう。書類に構っているつもりは毛頭ない。むしろ「下線」と犯罪とをどんな悪質さにでも結びつけて止まない慣習化しステレオタイプ化した悪質な空想世界が現実世界へと取って代わっている世間で、判事の言動が転倒しているかいないかは問題にならないのだ。判事の夢想は天翔る勢いでどこまでも、神話の国までも上昇していく。
「美わしの夜、おお、恋の一夜!陶酔と愛撫の夜々ーーー俺たちはあんたの昼より美しい夜を持っているーーー俺たちの上には夜がヴェールを拡げているーーー聖ジョルジュ祭の夜々ーーー聖ジャン祭の夜、ヴァルプルギスの夜ーーー夜の三時でした、丸。<夜>夜という語の下に線。判事は考えるのをよし、むかつきをもよおす反省に取って代る夢想の中へ自分が旅立つのに任せるのだった」(ジュネ「葬儀・P.265」河出文庫)
さて、アルトー。キリストという前例が上げられる。といってもずっと以前からキリストを持ち上げているのはローマ帝国なのだが。そこでまずアルトーはこう述べる。
「ひとりの人間はひとりの神ではないし、キリストが人となった神であるとしても、彼が死んだのは、人としてであるようだし、神としてではない」(アルトー「ヘリオガバルス・P.150」河出文庫)
キリストは人間のまま神になったと語られ信じられている。ところが死んだのは人間として死んだのであって神としてではないと。その論理はローマでは一般的に普及していたようで違和感なく慣習化されていたらしい。ヘリオガバルスは考える人間である。ローマ市民が、ローマ帝国がそのように信じ込んでいたとしてもなお慎重に思考する。慎重たらざるを得ない状況が生まれていた。
「そうすると何故にエラガバルスは自分を人となった神であると思わないのだろうか、そして何故にヘリオガバルス皇帝が人間より先に神を据え、神の下に人間を圧し潰すのを人は妨げるのだろうか?」(アルトー「ヘリオガバルス・P.150~151」河出文庫)
というふうに。今のところシリアにいるヘリオガバルスがそうしようとするとなぜローマは逆上したのか。直系ではなく傍流に過ぎないマクリアヌス皇帝の前では大人しくかしずいているローマ市民。なのになぜ傍流ではなく紛れもない直系の皇帝として出現しようというヘリオガバルスに対しては逆の態度を取るのか。ローマ帝国は直系の子孫より傍流に過ぎない子孫の側の前でひざまづくのがたいそう好きでたまらなかったのだろうか。はなはだ危険な矛盾だらけの態度に思える。
ちなみにマクリアヌス皇帝はたいそう無能な皇帝として有名だった。しかし無能だからといって皇帝になってはいけない理由はない。実際マクリアヌスは皇帝であり皇帝として傍若無人に振る舞っている。政治的にも無能である。そのマクリアヌスが皇帝として君臨し、皇帝としてばかりかキリストででもあるかのように崇め奉られているにもかかわらず、ではなぜ、ヘリオガバルスではいけないのか。ローマ帝国はまだヘリオガバルスが何ものかを知らない。だから拒否しようとしたのだろうか。それとも単なる気まぐれからか。気まぐれだとしてもなお余りにも自己破壊的な態度の取りように思える。そのような事情をつぶさに眺めながらローマ全土に蔓延する矛盾についてヘリオガバルスは怒る、のではなく、差し当たり解消させておかなければならないと思われる懸案事項、「相反するもののこの磁化、この二重の葛藤にさいなまれている」。
「生涯を通じてヘリオガバルスは、相反するもののこの磁化、この二重の葛藤にさいなまれている。
一方には、神 他方には、人間。
そして人間のうちに、人間の王と太陽の王がいる。そして人間の王のうちに冠を戴いた人間と冠を奪われた人間がいる」(アルトー「ヘリオガバルス・P.151」河出文庫)
落ち着いて思考するというよりむしろ「さいなまれている」という部分に皇帝になるものとしての自覚の高さを見ることができる。こうして得られた思想をいずれ現実化するためには避けて通れない苦悶の過程だとみずから位置づけている。他方、マクリアヌス皇帝は日夜乱痴気騒ぎに耽っている。いかにも皇帝らしいといえばいえようが。同時に二人の周囲には無数の多様性が種々の権力意志の人格化として、親族、軍人、民衆、という姿形を取ってうごめき立ち働いていることは前にも述べた。そしてこれら無数の権力意志は流動する。二人の皇帝が死んだ後もなおうごめき立ち働くことを止めない。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM