Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

遍在する廃墟/空虚の遍在28

第三項目で改めて定式化された知-権力の《経済策》という戦略的あり方。「改めて」というのは、十九世紀以前の刑罰では《極度の残忍性》が恥とされてはおらず、むしろ刑罰(公開処刑)における《極度の残忍性》が一つの経済策として機能していたからである。

「多分《極度の残忍性》という概念こそは、古い刑罰の実際面における身体刑の経済策を最もよく指示する概念の一つであるにちがいない。《極度の残忍性》は、まず第一に、ある種類の重大な犯罪に特有な性格である。その概念が関係するのは、自然法であれ実定法であれ、神意法であれ人為法であれ、それら重罪によって攻撃される多数の法にであり、それらの犯行時の恥さらしな華々しさに、あるいは反対に、そのさいの秘密裏の策略にであり、それら重罪を犯した者とその犠牲者の地位身分にであり、それら重罪によって予測されるか、もしくは惹き起こされる混乱状態にであり、それらによって起こる恐怖にである。ところが処罰のほうも、それが犯罪を苛酷な姿のままに各人に彷彿とさせねばならぬその限りにおいて、すなわち処罰は、この《極度の残忍性》を公開してくれるところの自白・言説・刻印などによって、それを明るみに出さねばならないし、罪人の身体への処刑の儀式のさいに屈辱と苦痛の形式をかりてそれを再現しなければならないのである。この《極度の残忍性》こそは、懲罰が白日のもと華々しい姿で浮かびあがらせるため、身体刑という形で裏返しに表わす、犯罪の部分である。つまり、処罰そのもののただなかで、犯罪の明々白々たる真実を生じさせる仕組に固有な形象なのだ。身体刑が処罰の対象の現実性を確証する訴訟手続の一部分になっているわけである。ところが他面、ある犯罪の《極度の残忍性》は、統治者に加えられる挑戦の暴力でもある。しかも、その《極度の残忍性》を圧倒し、それを抑圧し、極端さの、それを消し去る極端さの点でそれに優越する、こうした機能をもつ返報を統治者の側から開始するのもそれである。身体刑につきまとう《極度の残忍性》は、したがって二重の役割を果たすのである。つまり、それは刑罰と犯罪のつながりの根本である反面、犯罪にたいする懲罰の激昂状態でもある。それは真実の華々しさと権力の華々しさとを一挙に保証するのであって、完了しつつある証拠調べの祭式、しかも統治者が凱歌をあげる儀式である。しかもそれは身体刑を課せられる身体において双方をともに結びつける」(フーコー「監獄の誕生・P.58~59」新潮社)

ところが十八世紀末から十九世紀前半にかけてこの種の刑罰は一挙に姿を消す。多大な経費がかかるというだけでなく、刑罰において目指されるものが決定的に変わったからである。

「根本の目標は矯正・感化・《治療》であり、改善回復技術こそが悪の厳密なつぐないを刑罰じたいのなかに押しとどめて、懲罰をくわえるという嫌な仕事から司法官を解き放ってくれる。近代の司法とそれを配置している人々には、かならずしも熱意の妨げになってはいないにせよ、処罰することの恥辱感が存在していて、しかもそれはたえず増大しつつある。この心の痛手がもとになって、心理学者がはびこり、精神の整形外科をめざす小役人がむらがっているのである」(フーコー「監獄の誕生・P.15」新潮社)

司法官といっても上級裁判所の裁判官からすれば、国内で発生する様々な犯罪はどれも司法が上手く作用していない証拠に見える。司法あるいは司法官自身の落ち度として感じられてくる。すべての犯罪行為は司法の至らなさを証明する動かぬ証拠として出現してくる。その意味で連日連夜絶え間なく発生する種々の犯罪は法律を上手く適用できない司法自身の恥に、司法自身の恥辱に、思われてくるのである。また同時に司法官にとっては、判決にともなって執行されざるを得なくなる懲罰行為そのものは「懲罰をくわえるという嫌な仕事」に思えて仕方がない。なぜなら、「懲罰をくわえる」行為は紳士的でないという理由からではなく、たとえば往々にして優等生の心の傷として残っているように、多くの場合、年少時代から黙って耐え忍んできた「いじめ」の後遺症を、大人になって手に入れた裁判官という立場から犯罪者に向けて逆襲しているような気持ちを抱かせるからである。その姿はまるで子どもだ。ニーチェのいうルサンチマン(劣等感、復讐感情)を社会的優位な立場から与えることによって過去に抱いた陰湿な復讐感情を司法の立場に立って加虐的に愉しんでいるかのような嘔吐を催す嫌な気分にさせるわけである。ところが司法官は実際そんなにひどくルサンチマン(劣等感、復讐感情)にまみれているわけではない。法曹界を目指す多くの人々がそうであるように、年少時代からしばしば見てきたし経験してもきた陰湿な犯罪的行為を押し進めるわけでなく逆に「正そう」として司法の世界を目指すのである。しかしその原動力はどこに端緒を持つのか。前に述べたように、主に学校教育過程で遭遇する「いじめ」問題に関し、そのとき自分の取った立場、たとえば目の前で行なわれているいじめ行為を見て見ない態度を取って通り過ぎたり、いじめ行為を止めようと思ったとしても体力的あるいは精神的に止めることができなかったことから生じる「形而上学的負い目」の意識が原動力として働く。この「形而上学的負い目」の意識に基づいて、大人になって司法の現場へ身を投じることでそれを解消し、より良い社会の実現に貢献しようとする原動力へ変換されるのである。しかし逆説的なことに司法は近代化するにつれて犯罪者の身体を裁くのではなく、引用したように、「精神の整形外科をめざす」という倒錯した戦略を描き始めたのだった。

「〔4〕権力の基本的な道具たる監禁制度は、権力のこうした新しい経済策でもって新しい《法律》形式を、すなわち合法性と自然との、規則命令と組織構成との一つの折衷である規格(ノルム)を強調してきた」(フーコー「監獄の誕生・P.303」新潮社)

問題は「規格(ノルム)」へと移る。英語で言う“normal”〔ノーマル。標準、正常、普通、基準〕、“standard”〔スタンダード。基準、模範、規格、標準規格〕といった方向へ司法の関心が変化する。この事態はしばしば国家的規模で極めて危険な社会を出現させる。二十世紀に入って出現したナチスのドイツがそうであり、さらにスターリンのロシアがそうである。ノーマルなものとノーマルでないものとの区別。スタンダードなものとスタンダードでないものとの区別。それが政治権力によって戦略的に用いられるとたちまち特定民族に対する絶滅収容所送りを出現させ、政敵に対する有無を言わせぬ精神病院送りを出現させた。

ところで十九世紀前半のフランス司法に戻ってよく見ると、司法権力の内的な自己解体というべき事態が生じてきた点に注目しなければならない。司法権力はもはや古典的な刑罰に顕著だった華々しい流血や民衆のための祝祭といったことを目指してはいない。司法権力が行なう行為は「判断〔=判決〕」という用語は同じでも、その内容はすでに別のものに置き換えられて用いられている。「規格的なもの(ノルマル)と規格外的なもの(アノルマル)を評定し評価し診断し見分けたい」という《欲望》の発露が前面に出てくる。

司法権力における、ないしは少なくともそれの運用における内的な解体であり、判断〔=判決〕を行なうさいの困難の、しかも有罪宣告をくだすさいの一種の恥辱の増大であり、規格的なもの(ノルマル)と規格外的なもの(アノルマル)を評定し評価し診断し見分けたいとの裁判官における激しい欲求であり、しかも治療したり社会復帰させたりという名誉の主張である」(フーコー「監獄の誕生・P.303」新潮社)

今なおどこの裁判長も言っていることは同じである。被告を「治療したり社会復帰させたりという名誉の主張」が裁判長の言葉の中に漲っていることを見抜くのはいともたやすい。そのとき裁判長の胸のうちにこみ上げてくる無上の権力感情と権力意志に酔っている姿はごく一般のマスコミ報道を通してさえありありと伝わってくるため、報道に接している一般視聴者の側がかえって恥ずかしくなるほどだ。アルコールも薬物もなしに自らの司法権力の威力に酔っぱらえる人々もいるのである。世間は広いというべきだろう。

しかしこの「規格的なもの(ノルマル)と規格外的なもの(アノルマル)を評定し評価し診断し見分け」る作業はそう単純な作業ではないしまた法律家個人だけで可能なほど簡略化できるものでもない。だから安易に両者を「評定し評価し診断し見分け」ようとするとただちに次のような事態が起こってくる。

「医学はもはや単なる治療技術と、それが必要とする知識の合成物であってはならない。それは《健康な人間》についての認識をも包含することになる。ということは、《病気でない人間》の経験と同時に《模範的人間》の定義をふくむということである」(フーコー臨床医学の誕生・P.74~75」みすず書房

裁判官はなるほど「規格的なもの(ノルマル)と規格外的なもの(アノルマル)を評定し評価し診断し見分け」ようとして様々な資料と取り組み与えられた仕事を慎重にこなしているつもりでも、実際に行なってしまっているのは「《模範的人間》」とは何かという「定義」であるという転倒行為なのだ。目的そのものがすでに作業の意味の横すべりを起こしている。司法はもはや裁くことを目指してはいない。それは犯罪対象が出現する以前に整えられておくべき「規格化」の作業を中心化させると同時に、《司法権力そのものの規格化》〔司法の世界標準化〕という前代未聞の作業を推し進めているのである。

「終始あらわになる彼らの果てしない《医学欲》ーーー鑑定人たる精神病医の召喚にはじまり最後には犯罪学のとめどない饒舌への彼らの注目にいたるーーーが表わしているのは、彼らの行使する権力が《変質し》てしまい、ある水準ではなるほど法律によって支配されるが、別のしかもいっそう根本的な水準では、一つの規格的な権力として機能するという主要な事実である」(フーコー「監獄の誕生・P.304」新潮社)

とはいえ、この種の傾向はただ司法の世界でのみ進行したわけではない。近代社会成立以来、大きな意味でいえばたとえばイギリス産業革命以来急速に発展した「科学」への信仰とともに多かれ少なかれどの学術分野でも生じてきた共通の傾向である。ところが科学はその厳密さにもかかわらず、その注意深さにもかかわらず、「神の死」にもかかわらず、唯一絶対的な《原因》の追求という点で相変わらず錯覚のうちに進行したことも事実である。

「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる。未知のものとともに、危険、不安、憂慮があたえられるが、ーーー最初の本能は、こうした苦しい状態を《除去する》ことにつとめる。なんらかの説明は説明しないよりもましである、これが第一原則にほかならない。根本において、問題はただ圧迫する想念から脱れたいということのみにあるのだから、それから脱れる手段のことは、まともに厳密にはとらない。未知のものを既知のものとして説明してくれる最初の思いつきは、それを『真なりとみなす』ほど気持ちよいのである。真理の標識としての《快感》(「力」の証明)。ーーーそれゆえ、原因をもとめる衝動は恐怖の感情によって制約されひきおこされる。『なぜ?』という問いは、できさえすれば、原因自身のために原因をあたえるというよりは、むしろ《一種の原因》をーーー一つの安心させ、満足させ、気楽にさせる原因をあたえるであろう。何かすでに《既知のもの》、体験されたもの、回想のうちへと書きこまれているものが原因として措定されるということは、この欲求の第一の結果である。新しいもの、体験されていないもの、見知らぬものは、原因としては閉めだされる。ーーーそれゆえ、原因として探しもとめられるのは、一種の説明であるのみならず、《選りぬきの優先的な》種類の説明であり、見知らぬもの、新しいもの、体験されていないものの感情が、そこでは最も急速に最も頻繁に除去されてしまっている説明、ーーー《最も習慣的な》説明である。その結果は、一種の原因定立が、ますます優勢となり、体系へと集中化され、最後には、《支配的となりつつ》、言いかえれば、《他の》原因や説明を簡単に閉めだしつつ、立ちあらわれるということになる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.62~63』ちくま学芸文庫

科学者の態度は現代社会において最良の態度であるといえるかもしれない。だがそのような最良の態度においてなお、それを支配しているのは「真理《に対する》信仰」という曖昧模糊たるものであるということを忘れてはならないだろう。

「なるほど彼らはどの点においても格別に拘束されてはいない。だが、真理に対する信仰という一点においては、彼らほど強く絶対的に拘束されている者は他に誰もいない」(ニーチェ道徳の系譜・P.193」岩波文庫

学術機関に関わる人々は一人残らずそのような「真理《に対する》信仰」に囚われたままだというだけではまだ足りない。むしろますます「真理《に対する》信仰」という地盤、ありもしない《形而上学的信仰》を地盤とする態度の中へ、相変わらず繋ぎ止められていくばかりなのだ。

「学問への信仰が前提としているような、あの思い切りぎりぎりの意味での誠実な人間は、《その信仰によって》生・自然・歴史の世界とは《別な世界を肯定する》ということには、疑問の余地がない。そして、この人間が、こうした『別な世界』を肯定するかぎり、どういうことになるか?彼は、まさにそのことによって、その世界とは反対のもの、すなわちこの世界、《われわれの》世界をーーー否定せずにはおれなくなるのではないか?ーーーだが、私の言おうとすることの何であるかは、とくとお解(わか)りのことだろう。すなわちそれは、われわれの学問への信仰が地盤としているものは相変らず《形而上学的信仰》である、ということだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・三四四・P.372」ちくま学芸文庫

司法官、とりわけ刑事司法を担当する裁判長は、判断〔=判決〕にあたって様々な分野から、なかでも特に医学から有力な資料を手に入れたがるそれは刑事司法の現場で精神鑑定という過程が必要不可欠なものになるにつれ加速化した傾向である。けれどもそうすればそうするほど、客体化された犯罪者の「犯罪者像」は、ますます個人的に細分化され、細かく分析され、当初の意図に反して絶対的な基準を消滅させつつ、個性としての犯罪者を出現させてしまうといった転倒におちいる。それは或る結核患者を一般的なカテゴリーで結核患者としてひとくくりに取り扱うことができても、その諸症状を細かく観察追求していけばいくほど逆に結核患者というだけではくくりきれない《個性》というものが出現してくるのに似ている。

「解剖学的知覚においては、病気は必ず、ある程度の『動いたもの』を伴ってあらわれる。それは初めから、起始点、歩み、強さ、速度などの点で、ある自由なゆとりを持っていて、それがこの病気の個別的形態を描く。この形態は、病理的逸脱に加えられた逸脱ではない。病気とは本質的に逸脱的なものだが、その本性の内部において、それ自体、たえず逸脱するものなのである。病気には個別的な病気しかない。それは個人が自己の病気に反応するからというわけではなく、病気の作用が、当然のこととして、個性のかたちの中で、くりひろげられるからである」(フーコー臨床医学の誕生・P.280」みすず書房

さらに、司法が「《治療本位の》裁定をくだしたり《社会復帰をめざす》投獄を決定したりするのは彼らが行使する権力の経済策による」というのは今や常識的認識になっているわけだが、ヒューマニズムは根本的に「経済策」(エコノミー)ということを念頭に置かないという点に注意する必要性があるだろうと思われる。というのは、知-権力装置はいつも大きな戦略的動きを描くのであり、ヒューマニズムはそもそも知-権力装置から派生した下位機構として働く部分装置なのであって、そのかぎりで権力の対極に位置するものではまったくなく、逆に権力の補完装置として権力の内部に組み込まれているからである。

「彼らが《治療本位の》裁定をくだしたり《社会復帰をめざす》投獄を決定したりするのは彼らが行使する権力の経済策によるのであって、彼らの周到さやヒューマニズムに発する経済策にもとづくのではない」(フーコー「監獄の誕生・P.304」新潮社)

無慈悲な監獄へ叩き込むより社会復帰可能な諸施設へというヒューマニズムの側の声が承認されやすいのは、知-権力装置がそれを公言する場合に比べて圧倒的に受け入れられやすいという利点がある。知-権力装置はそのようなヒューマニズムの声を大いに取り入れることで、本来なら刑務所行きだったに違いない被告を別の諸施設へ入所させて労働力商品として社会復帰できるよう効率よく言説を支配する。別の諸施設で実施されるのが労働者のための技術習得という名称を与えられていたとしても、それが規律・訓練を通してであるかぎり監獄との連続性は保持されるのであり、したがって知-権力装置としては痛くも痒くもないからである。かつて狂人を<閉じ込め>の暗闇から解き放ち、狂人保護院の中では行動の自由が保障されるという条件つきの空間へ移動させたとき、予想されていなかった奇妙な現象が起こったのもヒューマニズムという両義的な態度がもたらした或る種異様な光景だった。

クートンが狂人たちの動物性を定式化し、彼らがそこでふるまうのは自由にしておいたとき、彼は狂人(フウー)たちを動物性から解放したのではあったが、彼自身の動物性をさらけだし、そこに閉じこもってしまったのである。彼の狂暴さのほうが、狂人(デマン)たちの狂気よりもいっそう気違いじみ、いっそう非人間的だったわけである。こうして、狂気は狂人を見張る番人たちのほうへ移動した。狂人を動物として閉じこめる者のほうが、今や狂気の動物的な野蛮さを保持する者なのである。そうした人々においてこそ獣性は荒れくるうのであり、狂人たちに現われる獣性はその人々の獣性の混沌とした反映にほかならない。一つの秘密があらわになる。というのは、獣性は動物のなかにではなく、それを鎖につなぐ家畜化のなかにあったからである」(フーコー「狂気の歴史・P.499」新潮社)

司法はますます規格と規格化とに執拗なこだわりを示すようになる。もっとも、規格=基準を明確化し、すべての人間を学校、職場、病院、諸施設において規格化しようとすればするほど、逆の動きもまた明確化してくる。それは逆を目指す人々がいるということではなくて、規格=基準の明確化の過程から必然的に発生する。この逆の傾向は、人間という客体を個人的レベルで観察すればするほどそこから様々な多様性が急速に可視化されてくることから生じる。

「逆に、有罪判決のための有罪判決の必要性を裁判官たちがますます承認しなくなっているのは、規格化をおこなう権力が拡がってきている度合そのものに応じて判決〔=判断〕をくだす働きが多様になったからである」(フーコー「監獄の誕生・P.304」新潮社)

とうふうに、被告を一概に一つの有罪判決でくくりきれるのか、一つの有罪判決でくくりきってよいものか、という疑問が司法内部から起こってきた。しかし市民社会という場は、人間が生まれてから死ぬまでずっと規律・訓練によって規格化されないではおかない社会である。新生児が生まれてすぐ行なわれるのも測定であって、規格=基準と合致しているか、していないか、していないとすれば何がどの程度にか、といった様相を取っていて、社会が新生児に対して取る態度はどのような規律・訓練の場所が妥当かつ適切かという政治=経済的領域へ差し向けられている。ちなみに二〇二〇年の世界ではインターネットの普及とともその映像処理能力を活用したコミュニケーションが幅を効かせている。そこでは誰もが「規格への合致(ノルマリテ)の裁定者〔=裁判官〕」として出現する。コメントとともに。そしてそのコメントが有益なケースもあるにはあるけれども、実をいうと「大きなお世話」に属することが少なくないことも事実だ。

「各所に存在する規律・訓練の装置に支えられ、監禁のあらゆる仕掛に拠っているこの規格化の権力は、現代社会の主要な諸機能の一つになっている。規格への合致(ノルマリテ)の裁定者〔=裁判官〕が現代社会ではいたる所に存在する」(フーコー「監獄の誕生・P.304」新潮社)

この流れは止まらない。ときとして激流となって或る種の世論を一挙に打ち立てたり逆に世論を撫で斬りにしてしまうことさえある。今やどこにでも「規格への合致(ノルマリテ)の裁定者〔=裁判官〕」が、しかも唐突に出現する。だから日常生活の中ではほぼまったく無関係な人々が突然関係してきたりして戸惑うといった事態が日常茶飯事として同時多発的に起こってくる。もっとも、そのような傾向が悲喜劇のレベルで収まっていればさして問題ない。ところが次のような場合、人間の内面は終わりのない自己点検という作業を生涯背負っていかなくてはならないような状況に叩き込まれる。

「われわれが住む社会は教授=裁定者の、医師=裁定者の、教育家=裁定者の、《社会事業家》=裁定者の社会であって、みんなの者が規格的なるもの(ノルマティフ)という普遍性を君臨させ、しかも各人は自分の持場に応じて身体・身振り・行動・行為・適性・成績をこの規格的なるものに従属させる」(フーコー「監獄の誕生・P.304」新潮社)

日本の場合、実をいうと東大生と京大生との間に学力的な差異はそれほどない。試験当日以前に何度か実施される学力テストの結果を見れば容易にわかる。両者のあいだに差が生じるのはむしろ置かれた環境の違いからであって、受験生本人の実力からではない。ところがさらなる問題が入学後に生じる。「自分の持場に応じて」とフーコーは指摘する。人間は「身体・身振り・行動・行為・適性・成績をこの規格的なるものに従属させる」よう自分で自分自身の内面を常に監視する義務を負うからである。そのような義務はどこにもない。にもかかわらず社会的に配分された位置によって、東大生なら東大生、京大生なら京大生、へ向けてあらかじめ割り当てられた「規格的なるもの」への「従属」という暗黙の義務が生じる。しかし問題は、なぜ「規格的なるもの」への「従属」なのかということでなければならない。どのような規格であれ「規格がないよりはまし」という保守性に還元することができるだろう。ところが人間特有の性質は人類の最も古い時代に属する。

「《文明の最初の命題》。ーーー野蛮な民族にあっては、その意図するところが要するに風習であるように思われる一種の風習がある。綿密すぎる、そして根本において余計な規定がある(たとえばカムチャッカ人の間では、決して雪を靴から小刀で落とさず、決して炭を小刀でつき刺さず、決して鉄を火の中に入れない、という規定があるーーーそのような点に違反する者は、死ぬことになる!)。しかしこれらの規定は、風習が絶えず身近にあることや、風習に従えという不断の強制などを、絶え間なく意識させ、どんな風習でも風習がないよりはよい、という文明のはじまりの偉大な命題を強化するにいたる」(ニーチェ「曙光・十六・P.34」ちくま学芸文庫

ニーチェが見抜いた「どんな風習でも風習がないよりはよい」という人間の習性。この超古代的な保守的習性が規律・訓練を保持させる方向でどこまでも世界を包み込み続けるであろうことは間違いない。

「形態が緊密であれ散漫であれ監禁網は、〔社会への〕組込み・配分・監視・観察を旨とするその組織の点で、規格化推進の権力の、近代社会における大いなる支えとなってきた」(フーコー「監獄の誕生・P.304」新潮社)

スマートフォンの普及はさらに全世界の人間を社会参加させることを可能としつつある。そのぶん、年齢性別国籍を問わず人々の地位向上は実現されていく。反面、地位低下する人々を続出させることも事実である。だが問題は、ありとあらゆる人間の言動を商品化する傾向ばかりは依然として加速しているということだろう。人間は生まれてくるやいなやもはや経済的諸カテゴリーとして、資本の人格化としての資本家か、そうでなければ労働力商品として生まれてくるほかないと決定されてしまっている。いずれにしても人間は「諸関係の所産」なのであって、もはや誰一人として個人として独立した人間の輪郭を取ってはいないし今後取ることもないだろう。テレワークにおいて顕著になってきたように、生身の人間の形象はもはや必要なく、必要なのは言語化され映像化された労働力商品のデータだからである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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