「弓なりの眉の下で、整った穏やかな顔立ちを不意に明るく照らす彼女の微笑みには、何かしらアテナイ風のところがあった。仲間の娘たちの愛嬌はあるが造作の整わない顔のあいだにあって、古代芸術にもふさわしいそのかんばせにぼくは見とれた。手はほっそりと伸び、腕はふっくらとして色白になり、背もすらりと伸びて前に会ったときとはまるで別人のようだった。どれほど見違えるようになったかを本人にいわずにはいられなかった。そうやって昔の、つまの間の心変わりを償えればと願いながら」(ネルヴァル「シルヴィ」『火の娘たち・P.227』岩波文庫)
しかし主人公はこの箇所で或る種の勘違いを犯している。「つまの間の心変わりを償えれば」と。しかし「心変わり」などどこにも起こっていない。主人公の性的欲望は、シルヴィ、アドリエンヌ、シルヴィと循環したに過ぎず、変わったのはただ単に相手の、目に見える姿形だけである。欲望は主人公の目の前にシルヴィ、アドリエンヌ、シルヴィという姿形を置き換えただけのことであり、性的欲望は一貫して欲望の生産再生産という作業を順調に行なったというに過ぎず、欲望そのものは何らの間違いも犯していない。ただ、日本でいえば、シルヴィはもはや高校卒業程度の女性になっているわけで、主人公にとってはまたしても順調な睡眠を妨げる諸要素の一つとして出現したことは確かだろう。主人公はシルヴィにルソー「新エロイーズ」の一節を熱心に読んできかせる。シルヴィはほとんどまったく反応しない。感心がないのかあるいはうんざりしているだろう。しかしここで起こっていることは主人公のルソー化である。ちなみにルソー自身が「新エロイーズ」発表に際して巻き起こった世論の非難に関し述べている箇所を見てみよう。
「なんということか!『永久平和論』の編者が不和を鼓吹し、『サヴォワの助任司祭の信仰告白』の作者が不信心ものであり、『新エロイーズ』の著者がオオカミ、『エミール』の著者が過激派だ、というのか」(ルソー「告白・下・P.159」岩波文庫)
ルソーはよく激怒する。激情になる。今の日本でいえばただ単に「多感」だという凡庸な言葉へと葬り去られてしまうほかないのだが。ルソーの自慰体験についてルソー自身はこう語っている。
「わたしがイタリアから帰ってきたとき、まったく行く前と同じだったのではないが、しかし、あの年ごろの人間なら、そういう状態ではもどらなかったはずだ。つまり、わたしは純潔は失ったが、童貞は失わずにもって帰ってきた。年齢の進行が自分によく感じられていた。落ちつかない気質がついにはっきりあらわれた。その最初のまったく不本意な爆発のために、わたしは健康がどうかしたのかとびっくりしたが、これが何にもまさって今までわたしが性的に無知だった証拠になる。やがて安心すると、わたしは、わたしのような気性の青年たちに、健康や元気や時には生命さえ犠牲にして、種々の放蕩をまぬがれさせるところの、あの自然をあざむく危険な手段を知った。羞恥心と内気から便宜と考えられるこの悪習は、なおまた、熾烈(しれつ)な想像力をもつものにはたいへん魅力がある。つまり、異性を自分の意のままにあつかうことができ、誘惑を感じる美しいひとを、そのひとの同意をえるまでもなく自分の快楽に都合よく利用できるからだ。こういう危険な魅力のとりことなったわたしは、自然が与えてくれた、そしてその発育を待っていた立派な体質をむざむざ損うようにせいだしたのである」(ルソー「告白・上・P.155~156」岩波文庫)
さらに或る女性に対する性的欲望について。十八世紀後半、新興ブルジョワ階級の中でも特に稀にみる知識人として出現したルソーは早くも、売春における人身売買とまでは言わないが、人身の置き換え可能性について奇妙にねじれた文章を用いて、或る種の違和感を呈しつつこう述べる。
「ママンと呼び、息子のような気安さで親しんできた結果、わたしはほんとうに子どものつもりになっていた。ーーー彼女はわたしにとって姉以上のもの、母以上のもの、友以上のもの、恋人以上のものでさえあった。ーーー待ちかねたというよりむしろ恐れていたその日がとうとう来た。わたしは何でも約束した。そして嘘をいわなかった。わたしの心は約束を再確認したが、その報酬をのぞまなかった。しかし、その報酬はえたのだ。はじめてわたしは女の腕に抱かれる自分を見た。熱愛している女の腕に。わたしは幸福だったか。いな。快楽は味わった。だがその快楽の魅力を、なにかは知らぬうちかちがたい悲しみが毒していた。わたしは近親相姦をおかしたような気持だった」(ルソー「告白・上・P.281」岩波文庫)
次の箇所では、自慰行為からママンの身体へ、ママンの身体からテレーズの身体へ、という性的対象の置き換え可能性が明らかにされる。
「彼女は、ものごころつくころ、自分の無知と、誘惑者のたくみさのために、一度だけあやまちを犯したことがあることを、涙ながらに告白した。彼女のいう意味がわかったとたん、わたしは喜びのあまりさけんだ。『処女なんて!パリで、しかも二十歳にもなった女に、だれがそんなものを求めるもんか!ああ、テレーズ!ぼくはしあわせすぎる、貞淑で健康なおまえが、ぼくのものになったんだから。そして、見つからなかったといって、それはもともと、求めていなかったのだから』。最初は、ほんのなぐさみにするつもりだった。しかしそれ以上に深入りし、一人の伴侶をこしらえてしまったことに気づいた。このすぐれた娘と少し慣れ、また自分の境遇を少し反省してみて、ただ快楽ばかりを求めていたのに、それがわたしの幸福にも大いに役立ったことを感じた。消え去った野心のかわりに、心をみたしてくれる、なにかはげしい感情がわたしには必要だった。つまり、ママンのかわりがほしかったのだ。だが、今はもうママンといっしょに暮らすわけにはいかぬ以上、ママンの手で教育されたこのわたしといっしょに暮らしてくれるひと、ママンがわたしのうちに見出したような、素朴で従順な心のもちぬしが必要だった。家庭生活のなごやかさが、わたしの断念した輝かしい将来をつぐなってくれねばならぬ。ひとりきりでいるとき、わたしの心は空虚だった。だがそれを満たすには、ただ一つの心で十分なのだ。自然はわたしを、そういう心にふさわしいようにこしらえてくれたのに、運命はわたしからその心を、少なくとも幾分かは奪いさり、遠ざけてしまった。それ以来、わたしは孤独なのだ。なぜならわたしにとって、すべてと無とのあいだに中間はないのだから。わたしはテレーズのうちに、わたしに必要な身代りを見いだしたのである」(ルソー「告白・中・P.90~91」岩波文庫)
よりいっそう厳密にいうと、あらゆる性的行為はいつもすでに何か別の対象へ置き換えられた代理行為でしかない。さらに、オリジナルな性的欲望の対象というものは始めからない。近親相姦の禁止は近親相姦が欲望されていることの反証ではない。それは一八八九年と一八九六年にフランスの親権法が改正され、親権剥奪制度導入に伴って親権(父権)の絶対性が緩和された時期に、フロイトが「オイディプス王」ならびに「症例ドラ」を発表し、もはや消滅しつつある「父権」を逆に打ち立てたという逆説的事態の発生によって最も多弁に物語られている。ニーチェのいう「神の死」(絶対的中心の消滅、絶対的基準の消滅、絶対的父権の消滅、中心的なものの分散解体、変動相場制)にともなって「父権的なもの」の《神話》(物語=ストーリー)が出現した。だからフロイトの「オイディプス」ならびに「症例ドラ」の発表がニーチェの後に位置するのは不思議でもなんでもなくむしろ必然的である。
さて、シルヴィにルソー「新エロイーズ」の一節を熱心に読んできかせる主人公の態度。それは「告白」で描かれたような内容を手紙という形式を借りて懸命に伝えたがっているという意味で、まさしく主人公と同一化したネルヴァルのルソー化を見ないわけにはいかない。シルヴィ発表の一八五三年、アレクサンドル・デュマがネルヴァルについて或る文章を発表した。それはネルヴァルの精神的変調に触れる内容だった。といってもネルヴァルを否定するわけではなく、むしろネルヴァル擁護のために書かれた要素が強い。それを目にしたネルヴァルはデュマの文章を受け止めた上でネルヴァル自身の創作態度について述べることにした。最初は引用から始まる。
「以下に掲げるのは、あなたが昨年十二月十日、私についてお書きになった文章の一部です。『読者諸君にもおわかりいただけたことと思うが、それは魅力ある、卓越した一個の精神なのだ、ーーーただしその精神においてはときおり、ある種の現象が生じる。それは幸いにも(そう願いたいが)、本人にとっても深刻な不安を抱かせるものではない。ーーーときおり、何か仕事のことで頭がいっぱいになると<一家の狂女>の異名をとる想像力が、家の女主人にほかならぬ理性を追い払ってしまう。そうなると想像力はただ一人傲然と、カイロの阿片吸引者やアルジェのハッシッシュ摂取者に勝るとも劣らず夢と幻覚によって養われたこの脳髄のなかに居座る。すると何しろ想像力とはとりとめのないものだから、彼を不可能な理論や、なし得ない書物のなかに投げ込んでしまう』」(ネルヴァル「アレクサンドル・デュマへ」『火の娘たち・P.13』岩波文庫)
デュマからの引用は続くわけだが、この「投げ込んでしまう」のすぐあとに続いている文章の一部が、ネルヴァル自身によって削除されて発表されている。ネルヴァルが削除した箇所は次の部分。
「『そのときわれらが気の毒なジェラールは、医者にとっては病人となり治療を必要とすることになるが、われわれにとってはたんに、かつてないくらい雄弁に語り、大いに夢を見、才気煥発になるというだけのことなのだ』」(ネルヴァル「訳注」『火の娘たち・P.500』岩波文庫)
ネルヴァルとすればなるほど精神病院での治療が始まったことは事実だが、それが作品を不十分なものにしているわけではないと言いたかったのだろう。世間からみれば異端者であっても、だからといってその作品までが否定されるような事態にはしたくないというネルヴァルの意志を感じる。そしてこの異端者意識という点で実はフィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」の主人公ギャツビーを思わせるものがあるのである。ネルヴァルとギャツビーとは時代も場所も全然違う。にもかかわらず、そうなのだ。
「家を見たあとでは、庭や、プールや、高速モーターボートや夏の花々を見る予定だったーーーところが、窓から見ると外はまた雨が降りだしていた。それでぼくたちは一列にならんで波立つ『海峡』の水面を眺めた。『霧がなければ、入江のむこうにあなたの家が見えたんですがね』ギャツビーが言った。『お宅の桟橋(さんばし)の突端のとこに、いつも夜どおし緑色の電燈(でんとう)がついてるでしょう』デイズィはいきなりギャツビーと腕を組んだ。しかし彼は、いま言った自分の言葉に心を奪われているらしかった。その光の持っていた巨大な意義が、いまは永遠に消滅してしまったと、ふと思ったのかもしれぬ。自分とデイズィを隔てている大きな距離に比べれば、いままでその光は彼女のすぐそばに、ほとんど彼女にふれることもできる距離にまたたいているように思われていた。月と星との仲のように、彼女の身近な存在とそれは感じられていた。それがいまでは、また単なる埠頭(ふとう)に輝く緑の灯(ひ)にすぎなくなった」(フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー・P.151~152」新潮文庫)
フィッツジェラルドはアメリカの階級社会に異議を唱えるとか政治的諸問題に積極的に首を突っ込むという小説家ではない。にもかかわらずギャツビーが愛したおそらく唯一の女性デイズィとはどのような女性だったか。
「彼女は彼がはじめて知った『良家の』娘であった」(フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー・P.244」新潮文庫)
だからといって問題は、階級間格差に伴う価値観の違いや生活様式の違いとは異なる。問題はギャツビーがアメリカ社会の中から生じてきた「成り上がり者」という異端者性にある。
「成り上がり者としての彼の生活は、そのはじまりと同じく謎のうちに終わりをつげた」(フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー・P.183」新潮文庫)
とはいえしかし、ギャツビーの生涯がもし「謎のうちに終わりをつげ」なかったとしてもなお、問題のありかは動かない。デイズィはその自由奔放な言動と切り離しても切り離さなくても「『良家の』娘」であることには何の変わりもない。このことはアメリカがヨーロッパから離陸した後も「血あるいは血族」というテーマを引き継いでいたことを物語っている。
「十九世紀後半以来、血のテーマ系が、性的欲望の装置を通じて行使される政治権力の形を、歴史的な厚みによって活性化し支えるために動員される、ということが起きた。人種差別はまさにこの時点で形成される(近代的な、国家的な、生物学的な形態における人種差別である)。植民、家族、結婚、教育、社会の階層化、所有権などに関する政策と、身体、行動、健康、日常生活などのレベルにおける一連の不断の介入とが、その時、血の純潔さを守り種族を君臨せしめるという神話的な配慮から、己れが色合いと正当化を受けとった」フーコー「知への意志・P.188」新潮社)
デイズィは血の繋がりが「象徴的機能」《としての》「現実」を果たしている側に属している。ところがギャツビーはもはや血の繋がりがほとんど意味をなさず、金銭=資本こそすべてに優先するといった「生の経営学」の時代に属している。「生の経営学」が資本主義の主流として台頭してきたまさしくそのとき、血の繋がりを重視する「象徴的機能」《としての》「現実」が「成り上がり者」ギャツビーを《異端者》として捕捉し、「近代的な、国家的な、生物学的な形態における《人種差別》」を実行する形で異端者ギャツビーを破滅させるに至る。しかし一九二〇年代好景気の時代、この種の「成り上がり者」はほかにもたくさん発生したわけだが、世界恐慌以降、「成り上がり者=異端者」という政治的形式は、あくまで「血の象徴的機能」を保持し「血の純潔さを守り種族を君臨せしめるという神話的な配慮」のもとで、今度はさらに場所を置き換え、ナチスのドイツを出現させるに至るのである。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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