Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

微視的細部49

しばらく会っていなかった友人を見舞いに行く。ネルヴァルは統合失調を患っているのだがその友人もまた統合失調者である。白亜の慈善病院の一室に入って面会する。

「友の窶れた顔容、髯と毛髪の黒い色で一際目立つ、黄ばんだ象牙に似た顔色、熱の名残りできらきら光る眼、又恐らくは、肩に引掛けた頭巾附外套の様子も與って、友は私の知っていた人間とは半ば別人の感があった」(ネルヴァル「オーレリア・P.55」岩波文庫

長期入院者の中でも或る種の患者というのは年中そのようなものであってしかも少なくない。逆に食欲が増して見る見る間に別人のように肥えてしまう患者もいる。ただ、ネルヴァルがいう「別人の感」とあるのは、人格的変化が起こってしまった後、という意味に重心が置かれている。友人との会話を見てみよう。

「無限の最も漠とした空間に於ける荘厳な夢とか、彼自身と異なると同時に似た一人の人物との会話などである。彼は死んだと思って、その人物に、『神』は何処に居るかと尋ねた。『いや神は到る所に居る』と彼の霊は答えた、『汝自身の裡に万人の裡に居る。汝を裁き、汝の言を聴き、汝に助言を与えている。汝と《俺》とは、一緒に考え夢みているのであってーーー俺達は断じて離れたことはない、俺達は永遠だ!』」(ネルヴァル「オーレリア・P.55~56」岩波文庫

木村敏は「時間と自己」で、ニーチェドストエフスキー、ルソー、を引きつつ「祝祭の精神病理」として次の三箇所を取り上げている。三箇所とも「永遠の現在」という相で現われる症状として引用されている。そしてそれらはどれも共通して常に或る種のエクスタシー体験を伴って経験される。第一にニーチェ

ディオニュソス的なるものの魔力の下(もと)においては、単に人間と人間との間の紐帯(ちゅうたい)が再び結び合わされるだけではない。疎外され、敵視されるか、あるいは抑圧された自然が、彼女のもとを逃げ去った蕩児(とうじ)人間との和解の祝祭を、再び寿(ことほ)ぐのである。大地も、みずから進んでその貢物(みつぎもの)を捧げ、岩山や荒野の猛獣も、来たって歓を交(かわ)すのである。ディオニュソスの車駕(しゃが)は、花や花輪で埋もれ、その軛(くびき)に伏して豹や虎も歩むのだ。ベートーベンの『歓喜』の頌歌(しょうか)を一幅の画と化せしめよ、そして幾百万の人間が怖れ戦(おのの)きて大地にひれふすとき、ひるむことなく空想の翼を羽撃(はばた)かせよ、しからば、ディオニュソス的なるものに近づき得るのである。今や奴隷は自由民となった、困迫、恣意、あるいは『厚顔な流行』が人間の間に厳然と打ち建てた一切の頑迷にして敵意に満ちた境界は、今や砕け去る。今や世界調和の福音に接し、人は各々(おのおの)、その隣人と結合し和解し同化せることを感ずるのみならず、また一体たることを感ずる、あたかもマーヤの綾羅が引き裂かれ、今はもはや襤褸(らんる)となって神秘に満ちた根源的一者の前に翻るにすぎざるのごとくである。歌いつつ、踊りつつ人間はより高い共同体の一員として現われる。彼は歩むこと、語ることを忘れ果て、踊りつつ虚空に舞い上らんとしつつある」(ニーチェ悲劇の誕生・P.36~37」ちくま学芸文庫

第二にドストエフスキーから。アリョーシャが最も尊敬するゾシマ長老の死後しばらくして、不意にアリョーシャは永遠としての「絶対的瞬間」を経験する。自己と他者との境界線は消滅して一体化している。そしてそこには独特の悦び(=歓喜=エクスタシー)が認められる。

「何を思って、彼は泣いたのだろう?そう、彼は歓喜のあまり、無窮の空からかがやくこれらの星を思ってさえ泣いたのであり、《その狂態を恥じなかった》のである。さながら、これらすべての数知れぬ神の世界から投じられた糸が、一度に彼の魂に集まったかのようであり、彼の魂全体が《ほかの世界に接触して》、ふるえていたのだった。彼はすべてに対してあらゆる人を赦したいと思い、みずからも赦しを乞いたかった。ああ、だがそれは自分のためにではなく、あらゆる人、すべてのもの、いっさいのことに対して赦しを乞うのだ。『僕のためには、ほかの人が赦しを乞うてくれる』ふたたび魂に声がひびいた」(ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟・中・第三部第七編・P.187」新潮文庫

実際はほんの数秒のことに過ぎない。中には二分も続くケースもあるにはあるが非常に稀である。第三にルソー。

「しかし魂が十分に強固な地盤をみいだして、そこにすっかり安住し、そこに自らの全存在を集中して、過去を呼び起こす必要もなく未来を思いわずらう必要もないような状態、時間は魂にとってなんの意義ももたないような状態、いつまでも現在がつづき、しかもその持続を感じさせず、継起のあとかたもなく、欠乏や享有の、快楽や苦痛の、願望や恐怖のいかなる感情もなく、ただわたしたちが現存するという感情だけがあって、この感情だけで魂の全体を満たすことができる、こういう状態があるとするならば、この状態がつづくかぎり、そこにある人は幸福な人と呼ぶことができよう。それは生の快楽のうちにみいだされるような不完全な、みじめな、相対的な幸福ではなく、充実した完全無欠な幸福なのであって、魂のいっさいの空虚を埋めつくして、もはや満たすべきなにものをも感じさせないのである。ーーーそのような境地にある人はいったいなにを楽しむのか?それは自己の外部にあるなにものでもなく、自分自身と自分の存在以外のなにものでもない。この状態がつづくかぎり、人はあたかも神のように、自ら充足した状態にある」(ルソー「孤独な散歩者の夢想・第五の散歩・P.87~88」岩波文庫

ニーチェドストエフスキーの華々しさに比べるとルソーは悲劇的なまでに目立たない。だが専門的には随分以前から注目されていた箇所であり、先に上げたアリョーシャのエクスタシー体験と同じタイプのものだ。ルソーはいう。「それは自己の外部にあるなにものでもなく、自分自身と自分の存在以外のなにものでもない。この状態がつづくかぎり、人はあたかも神のように、自ら充足した状態にある」。この、自分自身の内部から湧き起こってくるような「至上の悦び」で満たされる感覚。ネルヴァルの友人は病室でそれを「神(イエス)との合一」として感じている。「『いや神は到る所に居る』と彼の霊は答えた、『汝自身の裡に万人の裡に居る。汝を裁き、汝の言を聴き、汝に助言を与えている。汝と《俺》とは、一緒に考え夢みているのであってーーー俺達は断じて離れたことはない、俺達は永遠だ!』」と。

もっとも、日本でも二〇〇〇年代に入り第三世代の抗精神薬が開発されるようになって以降、このような華々しい幻覚妄想がいきなり出現する症例は急速に減少した。しかしそれは薬物が有効に作用している限りのことであり、人間自身から「永遠の現在」を出現させる力が取り除かれたわけではない。

また、世界各地で「永遠の現在」が「神(イエス)との合一」として感じられる事例は言うまでもなくキリスト教圏に多い。ちなみに日本では織田信長だったり天皇だったりアドルフ・ヒットラーが人気である。だが問題はルソーが述べているように、過去や未来に関係なく、「自己の外部にあるなにものでもなく、自分自身と自分の存在以外のなにものでもない」うちに「自ら充足した状態」である。ドゥルーズニーチェを援用しつつこう語る。まずニーチェ

「叙情詩人の『自我』は存在の深淵から響き出る。ーーーそれ故われわれの全芸術知は、窮極のところ完全に空想的なものである。ーーー彼は主観であると同時に客観であり、詩人かつ俳優であると同時に観客である」(ニーチェ悲劇の誕生・P.56~61」ちくま学芸文庫

そしてドゥルーズはいう。

「狂気-生成は、表面に上昇するとき、アイオーン・永遠性の直線上で姿形を変える」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・第十九セリー・P.246」河出文庫

クロノス的な時間とともにある「狂気-生成」は「アイオーン《としての》瞬間」と区別されねばならない。しかしなぜ「瞬間」なのか。そしてこの「瞬間」はどうして、現在、過去、未来、というクロノス的時間概念と区別して考えられねばならないか。

「実現する現在を転覆するのは、もはや未来と過去ではない。瞬間が、現在を、存立する未来と過去に転倒する。ーーー深層が現在を避けるのは、《深層の》取乱した現在と測定される賢明な現在とを対立させる『今』の全力によって避けるからであり、表面が現在を避けるのは、『瞬間』の全力能によって避けるからである。この『瞬間』は、表面の時期を、分割と再分割がもたらされるすべての指定可能な現在から区別するのである。本性を変えずに表面に上昇するものはない」(ドゥルーズ「意味の論理学・上・第二十三セリー・P.287~288」河出文庫

過去、現在、未来、と飴のように延びた現在が問題なのではなく、ドゥルーズは、未来《と》過去との《あいだ》に閃く「瞬間」(とそれが感じさせる永遠性)について、クロノス的な時計時間とは無関係だと述べる。そしてこのことは、アポロンディオニュソスとが対立しているわけではなく、アポロンと対立するのは無媒介な流通網としてのヘルメスであることを暗示していると言える。むしろアポロンディオニュソスとの関係は「ディオニュソス祭=サトゥルヌナリア祭」として年中行事化されたことで両者は相補的関係へ還元されてしまっている。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM1

BGM2

BGM3

BGM4

BGM5

BGM6

BGM7

BGM8

BGM9

BGM10