Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

熊楠による熊野案内/ウミガメに美女を見た財務官僚の老従者

前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

或る時、官位五位を持つ「大蔵(おほくら)ノ大夫(たいふ)」で「紀(き)ノ助延(すけのぶ)」という財務官僚がいた。若い頃から米を貸し付け利息を増やし、数年経つと四、五万石にも成った。世間では「万石(まんごく)ノ大夫」と呼ばれた。説話はこの「紀(き)ノ助延(すけのぶ)」の「郎等(らうどう)」=「従者」に関する。

備後国(びんごのくに)に所用のできた紀助延は従者らと共に出向いた。今の広島県東部。その海辺の漁の網に左右の甲羅の幅30センチほどの海亀が引っかかった。それを見つけた助延の郎等らは珍しかったのか海亀をいじって遊んでいた。ただ、郎等らの中に五十歳ばかりになる一人の男性がいた。何とも奇妙なざれごとの愛好家で、仲間内では有名だった。

「年五十許(ばかり)有ケル郎等ノ片白(かたしれ)タル有ケリ。糸見苦シキ虚(そら)サレヲナム常ニ好(このみ)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十八・第三十三・P.258」岩波書店

「片白(かたしれ)」は「字類抄」によると「白痴(しれもの)」とある。「言海」を見ると「しれもの」は「愚か者・馬鹿」。今なら「萌え・マニアックな趣味者」にも当てはまる。またドストエフスキー「白痴」のムイシュキン公爵のような「馬鹿正直」も含む。で、この五十歳になる郎等のマニアックな趣味は何かというと愛犬ならぬ「愛亀」。五十歳になり老いを感じ始め、さらに愛する妻に逃げられた孤独な身であるという条件がそれに重なる。網にかかった海亀を見るやその甲羅の両端を手にとっていう。この亀こそかつて逃げてしまった旧妻に違いない、こんなところにいたのかと。

「彼(あ)レハ、己(おのれ)ガ旧妻(ふるめ)ノ奴(やつ)ノ逃タリシハ、此(ここ)ニコソ有ケレ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十八・第三十三・P.258」岩波書店

さて、この説話だが昨今の少子高齢化に伴う、認知症ケアの問題として考えてみるとかなり深刻なケースかも知れない。郎等は海亀の甲羅を手に取ったわけだが亀は当然のように甲羅の中に頭も足もすっかり引き入れてしまう。しかし郎等はその海亀を両手に捧げ持ち、幼児をあやす時のように「高いたかあい」と抱き上げ、「亀よ亀よ」と優しく呼びかける。川のほとりへ連れて行ってさらに言う。どうして顔を見せてくれないのか。そなた、わたしはもう数ヶ月の間ずっと恋しく思い続けているというのに。さあ、愛し合おう。そう言って亀の口に自分の口をぴたりとくっつけ吸い込んだ。

「捧テ幼キ児(ちご)共ニシソソリト云フ事スル様(やう)ニシテ、『亀来々々(かめこかめこ)』ト川辺(かはべ)ニテ云ツルニハ、『何(な)ド出不坐(いでまさ)ザリツルゾ、和御許(わおもと)ハ。月来(つきごろ)恋(こひし)カリツルニ、口吸ハム』」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十八・第三十三・P.259」岩波書店

すると亀は不意に頭部を飛び出させて郎等の唇を上下から挟み込んで噛み合わせた。驚いた郎等は亀を引き離そうとするが亀は上下の歯を隙間なく交差させて噛み付いているため、いよいよ喰い込んでくるばかりだ。同僚の郎等たちが寄ってきて刀の峰で亀の甲羅を打ち叩いてみる。しかし叩けば叩くほどなおのこと亀はぎりぎりと歯を喰い込ませてくる。噛まれた郎等はもう涙をこぼして泣くばかり。見ていた者らはどうすればよいやら、何とも気の毒としか言いようがなく、あるいはこっそり横を向くふりをして笑わないではいられない者もいた。郎等は亀に噛まれたまま早くも両手を泳がせて宙を掻き毟るばかり。

そのうち一人の男性が近づいて来た。と、刀で亀の頸(くび)をすぱりと斬って亀の胴体を切断した。とはいえ亀の歯は郎等の口に深く噛みついたままだ。そこでじっと動かないよう押し付け、歯を立てている亀の口の端から刀の先をそっと差し込み顎を切断し、亀の顔面を頭部と顎部分とに切り裂いた。見るとその歯は錐の先端とまるで違わないほど鋭く喰い混んでいる。男性はそれを注意深く口から抜き取った。穴の開いた郎等の唇から血しぶきがばっと噴き出しどんどん辺りに飛び散る。しばらくすると流血は収まった。そこで「蓮(はちす)ノ葉」の煮たのをひたして温め、傷口に当てて薬の効き目を待つことにした。蓮(はす)は普通、秋に成る種子だけを取り出し蒸して陰干しする。滋養・強壮・下痢などに効果がある。花の季節が終わり果実ができるが、果実を輪切りにすると断面が蜂の巣に似ているため「蜂巣(はちす)」と呼ばれる。だがこの時の処置がどうだったのかわからないが、その後、郎等の傷口はぱんぱんに膿れ上がりすっかり病み伏してしまった。

「一人男有テ、亀ノ頸(くび)ヲフツト切ツレバ、亀ノ体(むくろ)ハ落ヌ。頸ハ咋(く)フ乍(なが)ラ留(とど)マリタルヲ、物ニ押宛(おしあて)テ亀ノ口脇(くちわき)ヨリ刀ヲ入レテ、頤(おとがひ)ヲ破(やぶり)テ、其ノ後(のち)ニ亀ノ頭(かしら)頤(おとがひ)ヲ引放チツレバ、錐(きり)ノ崎(さき)ノ様(やう)ナル亀ノ歯共咋ヒ被違(ちがはれ)ニケレバ、其レヲ、和(やは)ラ構(かまへ)テオコツリ抜(ぬ)キニ抜ク時ニ、上下ノ唇ヨリ黒血(くろち)走ル事無限(かぎりな)シ。走リ畢(はて)ツレバ、其ノ後ニ蓮(はちす)ノ葉ヲ煮(に)テ、其レヲ以テ茹(ゆで)ケレバ、大キニ腫(はれ)ニケリ。其ノ後、膿返(うみかへり)ツツ久クナム病(やみ)ケル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十八・第三十三・P.259」岩波書店

説話だけを見るとただ単なる笑話で終わってよいのかも知れない。しかし「今昔物語」の流れでは、「猫恐怖」、「蛇恐怖」と来て、そのすぐ次がなぜ「愛亀」なのか。原典らしき別の類話がある。脚注では一応、未詳とされている。が、「法苑殊林」に竈の口で淫行を試みて噛みつかれた猿の説話があり、あるいはそれが源泉かと述べられている。なるほどそうかも知れない。しかしより一層重要ではないかと思われる説話を見たいと思う。浦島伝説。知らない人はいないだろう。亀を助けてやった浦島太郎を竜宮城へ案内するために登場するのは「美(うつく)しき女房(ばう)」=「美麗な女性」である。熊楠の愛読書「御伽草子」から。

「ゑしまが磯(いそ)といふ所にて、亀(かめ)をひとつ釣(つ)り上(げ)ける。浦島(うらしま)太郎此亀にいふやう、『汝(なんぢ)生(しやう)有(る)ものの中にも鶴(つる)は千年(ねん)、亀(かめ)は万年(まんねん)とて、命久(ひさ)しきものなり。忽(たちま)ちここにて命(いのち)をたたん事、いたはしければ、助(たす)くるなり。常(つね)には此恩(おん)を思ひ出(いだ)すべし』とて、此亀(かめ)をもとの海(うみ)にかへしける。かくて浦島(うらしま)太郎、其日は暮(く)れて帰りぬ。又次(つぐ)の日浦(うら)の方(かた)へ出(で)て、釣(つり)をせんと思ひ見(み)ければ、はるかの海上(かいしやう)に、小船(せうせん)一艘(そう)浮(うか)べり。怪(あや)しみやすらひ見(み)れば、美(うつく)しき女房(ばう)只(ただ)ひとり波(なみ)にゆられて、次第(しだひ)に太郎が立(た)ちたる所へ著(つ)きにけり」(日本古典文学体系「浦島太郎」『御伽草子・P.338~339』岩波書店

ちなみに「ゑしまが磯(いそ)」を詠んだ次の和歌がある。

「さ夜千鳥吹飯(ふけひ)の浦におとづれて絵島が磯に月かたぶきぬ」(「千載和歌集・巻第十六・九九〇・藤原家基・P.228」岩波文庫

今の兵庫県淡路市。瀬戸内海という点では間違っていない。しかし備後国は今の広島県東部に当たる。柳田國男はそこで「亀の恩返し」というべき説話を収集した。

「むかし備後国に、三谷寺という大きなお寺がありました。始めてこの寺を建てる時に、仏の像や御堂に塗る黄金がないので、弘済和尚という僧が土地の人に頼まれて、数多(あまた)の産物を船に積んで京都に登り、それを黄金と交易しました。その用も済んで難波津(なにわづ)、今の大阪の港に来まして、帰りの船に乗ろうとしていますと、大きな海亀が四つ、浜の漁師たちが捕って来て、殺そうとしているのを見かけました。弘済は深く憐(あわれ)みの心を起して、海人(あま)の者に金を遣ってその亀を買い取り、四つとも海へ放して遣りました。

それからいよいよ出帆しまして、備前の骨島という島の沖まで還って来ますと、日の暮れ方になって海賊の船が現われました。最初にこちらの船へ飛び込んで、先ず二人の家来を捉(とら)えて海の中へ投げ込みました。次に弘済和尚に向ってお前も海へ入れ。入らぬならば投げ込むぞと言いました。色々と静かに話をして見ても、悪者どもが承知をしてくれないので、仕方なしに自分で海に入りますと、海賊は金を積んである船を漕(こ)いで、何処かへ行ってしまいました。

弘済和尚は海に入って見ましたが、浅い所に岩のような物があって、足が其上に立って体が沈みませんでした。一晩中こうして立っていて、夜が明けてからよく見ますと、岩かと思ったのは大きな海亀の甲らであって、いつの間にか備前備中の灘(なだ)も過ぎ、故郷の備後国の浜近くまで来ていましたそうです。村に戻ってこの不思議な命拾いの話をしましたところが、一人として亀の恩返しの深き心ざしを感心せぬ者はありませんでした。

それからしばらくして後に、この村で大きなお寺が建つことを聞いて、黄金を持って売りに来た者がありました。弘済和尚は早速出て見ますと、その黄金商人の群れの中に、先日の海賊が六人までまじっておりました。海賊は和尚の顔を見まして、非常に驚き又畏(おそ)れて、黙って下を向いて青くなってふるえています。弘済もそれをよく知っていましたけれども、一言も言わずにただ黄金の価を出して交換してやりました。悪者どもはその代物を受け取って、なんともかとも云われぬような顔をして、黙って還って行ったそうであります」(柳田國男「弘済和尚(おしよう)と海亀」『日本の昔話・P.35~36』新潮文庫

この説話に出てくる「三谷寺(みたにでら)」は一体どこにあるのか、あるいはあったのか。随分昔の話だが寺院跡とされる箇所はだいたい特定されている。「日本霊異記」にほぼ全く同じ説話が掲載されており、なおかつその箇所も特定可能である。

「禅師弘済(ぜんじぐさい)は百済(くだら)の人なりき。百済の乱れし時に当(あた)りて、備後(びんご)の三谷郡(みたにのこほり)の大領(だいりやう)の先祖、百済を救はむが為に遣はされて、旅(いくさ)に運(めぐ)りき。時に請願を発(おこ)して言(まう)さく、『若(も)し、平らかに還(かへ)り卒(をは)らば、諸(もろもろ)の神祇(かみたち)の為に伽藍(がらん)を造り立てまつらぬ』とまうす。遂(つひ)に災難を免れき。即(すなは)ち禅師を請(う)けて、相共(あいとも)に還り来(きた)り、三谷寺を造る」(「日本霊異記・上巻・亀の命を贖(あか)ひて放生(はうじやう)し、現報を得て亀に助けらえし縁 第七・P.84」講談社学術文庫

「備後(びんご)の三谷郡(みたにのこほり)」に「三谷寺を造る」と。現・広島県三次市向江田町に遺跡があり国史跡指定されている。一三〇〇年以上も前の話だが、一方で僅か四十年も経てば廃炉作業の決定打一つ分からなくなる危険極まりない原発を見ると、とてもではないが比較にならない文化遺産だと言える。おまけに原発は人々が日常生活を送っていく上で欠かせない大事な貨幣を無駄にしてばかりだ。もはや原発は貨幣に化けるどころか逆に貨幣を喰い尽くす資本主義の破壊者へと転倒したのである。

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