或る時、魯洲(ろしう)に兄と弟との二人の兄弟がいた。魯洲(ろしう)は今の中国河南省魯山県。兄は父の嫡男。弟は父と後妻との間にできた次男。最初の父母ともに亡くなり、家には二人の兄弟と後妻との三人が残された。
或る日、隣人が泥酔して家にやって来た。そして後妻を罵(ののし)り恥ずかしめた。具体的に何があったのかわからないが、類話が載る「沙石集」にこうある。
「二人ノ子他行(たぎやう)ノヒマニ、隣ノ人、母ニ恥(はぢ)ガマシキ事ヲアタフ」(日本古典文学体系「沙石集・巻第三・六・P.157」岩波書店)
「他行(たぎやう)ノヒマ」は外出中ということ。兄弟二人とも家にいないのを見計らって隣人が後妻を捉えて恥ずかしい目に合わせたとある。
その時、兄弟二人は泥酔している隣人を責め立てて暴行に及び、とうとう殺してしまった。殺人は重罪に相当する。だが子どもらにしてみれば母を思い慕っての上での殺害である。その場から逃げず門を開けたまま家にいた。
「其ノ時ニ、此ノ二人ノ子、此レヲ聞テ、此ノ罵(の)ル人ヲ咎(とが)メテ打ツ程ニ、既ニ打チ殺シツ。子共(ども)、犯ス所ノ罪重シト云ヘドモ、母ヲ思(おもひ)テニ依(より)テ、不逃(にげ)ズシテ門ヲ開(ひらき)テ家ニ有リ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第4・P.184」岩波書店)
しばらくすると家に官吏が到着。兄弟二人を捕らえただちに死刑執行しようとした。すると兄はいう。「この殺人は私の過(あやま)ちです。速やかに私を処刑して下さい。弟に罪はありません」。
「此ノ事、我ガ犯ス所也。速(すみやか)ニ我レヲ可被殺(ころさるべ)シ。弟ハ其ノ咎(とが)無シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第4・P.184」岩波書店)
一方、弟はいう。「兄はまったく殺人など犯していません。私が殺しました。だから処刑されるのは私のはずです」。
「兄ハ更ニ殺ス事無シ。此レ、我ガ殺セル所也。然レバ、我レヲ可被殺(ころさるべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第4・P.184」岩波書店)
当惑した官吏はその場で決めることができず、一旦持ち帰って、国王の裁定を仰ぐことになった。国王は二人の兄弟だけでなくその母を召し出して事情を問うことにした。王から出頭するよう命じられたと伝えられ、兄弟の母はただちに参上した。王は母に尋ねる。「この兄弟はなぜ二人ともかばい合っているばかりで、自分自身の命を惜しまないのか」。母は答える。「この子たちの教育に当たってきたのは私でございます。ですからこの罪は兄弟にはなく私にあります。私が二人を誤(あやま)らせ殺人を犯させたに等しいのです」。
国王はいう。「殺人ゆえ、刑罰に当たって同情の余地はない。何も手を下していないし犯行をそそのかしたわけでもないそなたが、子供らの犯した罪の身代わりになることはできない。ただちに兄弟二人とも処刑すべし。ただ、死刑執行に当たり条件を与えることにしよう。一方の処刑を免れることはできないが、もう一方を助けることはできる。そなたは兄弟のうちどちらを愛しており、どちらを愛していないか。それを聞きたい」。
「罪法有限(かぎり)アリ。汝(なむ)ヂ、子ノ罪ニ代ラムト云フ事不可有(あるべから)ズ。只、其ノ子二人ヲ可殺(ころすべ)シ。但シ、一人ヲ殺シテ一人ヲ可免(ゆるすべ)シ。汝ヂ、何レノ子ヲカ愛シ、何レノ子ヲカ憎(にく)ム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第4・P.184」岩波書店)
後妻は答える。「兄弟のうち、兄は先妻の子。弟は私の実子です。兄弟の父が存命の頃、前妻は亡くなって既に私が妻になっていました。そこで兄弟の父は私を呼んで次のように言いました」。と当時の事情を一旦整理してこう述べた。この父が亡くなる直前、私を呼び寄せて兄の将来について語ったのです。「この子はもう実の母がいない。さらに私は今や死が近い。私が死ねばこの子は信頼できそうな身寄りを失ってしまう。それを思うと死を前にして心の動揺を抑えられないのだ」。
「此ノ我ガ子ハ母無シ。我レ、亦死(し)ナムトス。独身ニシテ憑(たの)ム所不有(あら)ジ。我レ、死スル時ニ臨(のぞみ)テ此ノ事ヲ思フニ、心(むね)不安(やすから)ズ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第4・P.185」岩波書店)
私は答えてこう言いました。「私はそなたが仰ることに従って、この子をおろそかにすることのないよう、実子同様に母として育てていきます。だからご心配なさらず、この世に執心を残さないようにして頂きたいと思います」。
「我レ、汝ガ言(こと)ニ随(したがひ)テ、此ノ為ニ愚(おろか)ニ無クシテ母ガ如クナラム。汝ヂ此ノ事ニ依(より)テ思ヒヲ留ムル事無カレ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第4・P.185」岩波書店)
すると子どもたちの父上はご安心されたようで、安らかに亡くなっていかれました。そのような次第でございます。従いまして、「その時に交わした約束にそむくことなく振る舞わねばなりません。よって、私は私の実の子(弟の方)が処刑される代わりに前妻の子(兄の方)を免除して差し上げるのが道理かと思われます」。
「其ノ言ヲ不誤(あやまた)ジト思フニ依テ、妾、我ガ子ヲ殺シテ父ガ子ヲ免(ゆる)サムト思フ也」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第4・P.185」岩波書店)
国王は後妻の言葉を聞くと、後妻がかつての約束を忠実に果たそうとしている姿勢に深い感慨を覚え、後妻・二人の兄弟ともに罪を免除すると決定された。また、その異例の評決を喜んで後妻は兄弟を二人とも家に連れて帰った。
「国王、妾ガ言ヲ聞テ、契(ちぎり)ヲ不忘(わすれ)ザル事ヲ哀(あはれ)ビ感ジテ、皆免(ゆる)シ給ヒツ。妾、亦喜テ、二人ノ子ヲ引キ具シテ、家ニ帰リニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第4・P.185」岩波書店)
さて。最初から父とその嫡男が優先されている点から見れば、よくある男性優先社会の倫理が遂行されているに過ぎないといえる。後妻は実子を嫡男の代わりに処刑対象として差し出さなければならない。結果的に男性優位、嫡男優位、女性不利な状況には何らの違いもない。そしてそれが古代中国の国家的倫理でもあった。また前妻か後妻かを問わず継母・継父による継子いじめが後を絶たなかったことも社会的背景にあり、なおさら「逆=継子いじめ」の物語が賞賛される土壌は東アジアに限らずどこにでも常にあった。とはいえ殺人によって出現した債権・債務関係は何らかの形で解消されなければならない。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)
ところが兄弟並びに後妻の言葉は、三人が三人ともにかばい合うことで、いずれも「真犯人」という概念を消去してしまう方向に働く。「真犯人」という中心は姿を消し、逆に諸商品の無限の系列がどこまでも延長され、次のように脱中心化される。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)
ラカンがいうように脱中心化の発生は関係するすべての人間を「宙吊り」にしてしまい、中心にいるのは誰かが問われるや否やそれは「あれでもあり、これでもある」という事態が生じるに至る。言い換えれば、どの人物へも置き換え可能になる。身代わりになることができるという等価性が出現している。冤罪が発生するのはなぜかというのも、常に既に置き換え可能性が社会に蔓延しているからである。今の日本を見ても、高級官僚の間で上司の責任を部下になすりつけることができるのは置き換え・代理が成立する限りで可能なのだ。
「私達はこれまで、ヒステリー者の置かれている位置の特徴は、まさに男と女というシニフィアンの二つの極に関わる問いであるということを見てきました。ヒステリー者は全存在を賭けてこの問いを問うのです。つまりいかにして男であり得るか、あるいはいかにして女であり得るか、と。しかし自ら問いを立て得るということは、ヒステリー者はそれでもそのことの拠り所を持っているということをも意味しています。この問いにおいてこそ、ヒステリー者自身の性が疑問に付されていることを示す異性の人物への基本的な同一化によって、ヒステリー者の構造のすべてが導入され、宙づりにされ、保たれているのです。ヒステリー者のこの『あれか、これか』という問いに対して、強迫症者の解答、つまり『あれでもない、これでもない、男でもない、女でもない』という否定が対置されます。この否定は、死すべき運命にあるという経験に関わるものですが、そのような存在を問わないように隠すこと、つまり宙ぶらりんのままに留まる一つの仕方です。強迫症者は確かにあれでもないこれでもないのですが、彼は同時にあれでもあり、これでもあるのだと言うこともできます」(ラカン「精神病・下・20・呼びかけ、暗示・P.157」岩波書店)
この脱中心化を条件として兄弟並びに後妻は、三人が三人とも無罪放免の身になることができた。等価性の条件はどの「人間」も「人間」であること。どの人間も人間という意味では同等でなければならない。そのための前提としてすべての人間は《算定される》ものへ加工・変造されていなくてはならない。或る人間と別の人間との《間》にある様々な「差異」はすべて無視され削ぎ落とされていなくてはならない。その作業には途方もなく長い年月が架けられたとニーチェはいう。
「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫)
しかし一方、最後に事態を終結させるのは、ほかならぬ国王の言語しかなくなる。それは紛れもない王として「貨幣」に等しい「力」を発揮して事態を収めることになる。ところが。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
というふうに「貨幣《としての》王」の言語が発動されるともはや、そこへ至った経緯、王が法律を超越して独断的判決に及んだ経緯は、すべて覆い隠されてしまう。
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