或る日の早朝。大嘗会に必要な新穀献上のための国の選定があり、さらに斎庁所(さいちょうしょ)=(神への供物を整える建物)の新築が始まろうとしていた時、院の御所に三歳ばかりの童子の頸(くび)を咥えた斑(まだら)の犬が出現。御所正殿の縁側に童子の頸(くび)をごろりを転がし置いた。御所の守護に当たる武士がそれを見て犬を追いかけようとしたところ、犬は西方に向かって三度吠えると捕まることなくふっと消え失せた。その怪異な出来事が物議をかもす。御所の中で鬼神のような忌まわしい振る舞いが出現した。
きっと「妖怪(ようかい)、触穢(しょくえ)」と見て間違いない。今回の大嘗会は新天皇即位後始めての大嘗会に当たるけれども、あるいは中止を検討すべきかどうか、法律家の意見を交えてよく勘案するのがよいだろうという意見へ傾き始めた。様々な意見書が提出された。
その中に刑部省の前の大判事を務めた坂上明清(あききよ)の意見書があった。明清の意見書の内容は、「神の意向は王の意向に沿うべしと法令にある。従って、ただ帝(みかど)のご判断次第となりましょう」というもの。その文面を主上も上皇もたいそう気に入ったようで大嘗会は行うべしとの意向がさっそく示された。
武家は院宣のとおり各国から大嘗会のための新米を即座に取り立てて廻った。一方、打ち続く戦乱に疲弊しきっている民衆たちはあれこれの負担から過労が重なり天を仰ぐばかり。大がかりな儀式をこうも続けざまに打たれてしまってはと嘆くほかない。僅かな高級官僚たちを除いて、国土の大半を占める民衆たちの間では大嘗会そのものに非難・怨嗟の声が渦巻いた。
「卜部宿禰兼前(うらべすくねかねさき)、軒廊(こんろう)の御占(みうら)を奉り、国郡卜定(ぼくじょう)ありて、抜穂(ぬきぼ)の使ひを丹波国(たんばのくに)へ下さる。その十月に、行事所始(じょうじところはじ)めありて、すでに、斎庁所(さいちょうしょ)を作られんとしける時、院の御所に、一つの不思議あり。三歳ばかりなる少(おさな)き者の頸(くび)一つ、斑(まだら)なる犬嚙(くわ)へて、院の御所の南殿(なんでん)の大床(おおゆか)の上にぞ置いたりける。平明(へいめい)に御隔子(みこうしを)進(まいら)せける御所侍(ごしょさぶらい)、箒(ほうき)を持つてこれを打たたんとするに、この犬、孫廂(まごひさし)の方(かた)より御殿の棟(むね)に上(のぼ)つて、西に向ひて、三声(みこえ)吠えて、いづくへ行くとも見えず失せにけり。
『かやうの妖怪(ようかい)、触穢(しょくえ)になるべくは、今年の大嘗会(だいじょうえ)を止(とど)めらるべし。且(かつう)は先例を引き、且は法令に(まか)任せて勘(かんが)へ申(もう)すべし』と。法家(ほうけ)の輩(ともがら)に尋ね下さる。皆、『一年の触穢にて候ふべし』とぞ勘へ申しける。中に、前大判事明清(さきのだいはんじあききよ)が勘状(かんじょう)に、法令の文(もん)を引いて曰はく、『神道(しんとう)は王道(おうどう)によつて用ゐる所なりと云へり。しかれば、ただ宜(よろ)しく叡慮(えいりょ)に在るべし』とぞ勘へ申したりける。主上(しゅしょう)も上皇(しょうこう)も、この明清が勘文御心に叶(かな)ひて、げにもと思し召されければ、今年大嘗会を行はるべしとて、武家へ院宣を成(な)し下(くだ)さる。
武家、これを巡行(じゅんこう)して、国々へ大嘗会米(だいじょうえまい)を課(おお)せて、不日(ふじつ)に責(せ)め徴(はた)る。近年は、天下の兵乱(ひょうらん)打(う)ち連(つづ)いて、国弊(つい)え、民苦しめる処(ところ)に、君の御位常に替はつて、大礼(たいれい)(止む時)なかりしかば、人の歎きのみあつて、聊(いささ)かもこれぞ仁政(じんせい)なると思ふ事もなし。されば、事騒がしの大嘗会や。今年はなくてもありなんと、世(よ)皆唇(くちびる)を翻(ひるがえ)す」(「太平記4・第二十六巻・一・P.165~167」岩波文庫 二〇一五年)
古代中国では「時宜を得ていない」国家的行事の挙行によって自滅した事例がいくつも見られる。漢から追放され匈奴の側へ就いた中行説(ちゅうこうせつ)の事例は有名。頭の良い中行説はむりやり匈奴へ送られたが、匈奴を束ねる単于(ぜんう)の前で漢の悪質性と匈奴の良質性とを大いに比較し、漢は自分で自分自身のことを中国と呼んで大国を気取っているが、その非合理性ときたら滅茶苦茶であると逐一実例を上げて滔々と述べたてた。
「燕出身の宦官中行説(ちゅうこうせつ)を公主のおもり役に任じたが中行説は匈奴に行くことを望まなかった。漢ではむりにかれを行かせたが、中行説は、『あくまでわたしに生かせるのならば、漢の災難となりますぞ』といった。中行説は匈奴に到着したのち、そのまま単于に降伏した。単于はかれをたいそう気に入りめをかけた。それより以前、匈奴では漢から送られる絹や綿、食物の類を愛好した。中行説は、『匈奴の人口は漢の一群にも相当しません。しかも強国であります理由は、衣食が相違していて、漢に頼らないですむからです。いま、単于さまは風習を変えられて漢の物資を好まれております。漢ではその物資のうち十分の二を使えば、匈奴は心を動かしてみな漢に帰属することになりましょう。だいたい、漢からの絹や綿が手に入りましても、それを身につけ、草むらやいばらの中を駆けまわり、上着とズボンをすべてぼろぼろに破れさせまして、丈夫でぐあいのよい匈奴の毛皮の衣服に劣りますことをお示しなさいませ。漢の食物を手に入れられましても、それらをすべて捨ててしまい、便利で美味な乳やチーズの類に劣りますことをお示しなさいませ。』といった。それから中行説は側近に、個条ごとに記録することを教え、その人民と畜産を計算して課税させた」(「匈奴列伝 第五十」『史記列伝4・P.40~41』岩波文庫 一九七五年)
漢の使者は匈奴を丸め込もうと言葉巧みに言い寄ってくる。匈奴は老人を大切にしないらしいと漢の使者がわざと妙な言葉遣いを用いると、間髪入れず中行説は事細かに説明する。老人や病傷者は戦闘に参加できない。そのぶん栄養のある食料を戦闘地帯にいる若者へ送り込む。老人や病傷者は必要なものを必要に応じて手にする。だから戦闘の多い匈奴は前線にいる若者も老人や病傷者も親子ともども生き延びられるわけだと、そもそも自衛の方法が漢とは決定的に異なる点を上げる。また漢の使者は匈奴の生活様式について嫌味をいう。匈奴は天幕(テント)暮らしで父親が死ぬとその息子は父の継母を妻にする。兄弟が死ぬとその後家を自分の妻にする。淫乱な風習だなと。官位を示す立派な冠や帯もない。朝廷にふさわしい儀礼もない、等々。
「漢の使者でいうものがあった、『匈奴の風習では老人を大事にしないとのことだが』。中行説は漢の使者を問いつめた、『きみたち、漢の風習では国境守備隊員として出征するものに対して、その年老いた親は自分の暖かい着物をぬぎ、うまい食物を出し、従軍兵に送って食べさせるというじゃないか』。漢の使者『そのとおりだ』。中行説『匈奴では、明白に戦闘をもって仕事としている。老人や病弱者は戦うことができない。だから栄養のあるおいしいものを、若くて健康なものに食べさせるのだ。つまり、こんなふうにして自衛するから、親子いずれも生きのびられるのだ。どうして匈奴が老人を粗末にすると言うのだ』。漢の使者『匈奴では、父と子が同じ天幕(テント)で寝る。父が死ぬと、そののちぞえの母(生母を除く)を妻とし、兄弟が死ぬと、その妻を全部わが妻とする。朝廷での冠や帯の飾(官位を示す)もなく、朝廷における儀礼もない』」(「匈奴列伝 第五十」『史記列伝4・P.41~42』岩波文庫 一九七五年)
中行説はそれら嫌味を次々転倒させていく。匈奴は家畜とともに生涯を送る。時節に応じて家畜とともに移動する。その肉を食べてその乳で育つ。風雪の季節には動物の毛皮が丈夫で長持ち。緊急時には騎馬を馳せて存分に大地を駆け巡る。一方、平時には平穏な時間をたっぷり楽しむ。時間と手間と金ばかり掛けて動きの鈍い漢とはまったく違う。さらに同族同士で婚姻関係を取り結ぶから子孫が絶えることはない。諸君らが言いふらしたがっているような乱交民族ではないのだよ。ところが中国はどうだ。父や兄弟姉妹の間で娶ったりしないというのは形ばかり。実際は家族内で喧嘩に明け暮れ、なるべく表面化させはしないものの親族間の強姦事件は山が崩れるほどもあり、その結果、親戚が遠戚になっていくという馬鹿馬鹿しい悪循環を描いているではないか。面子ばかり重んじて豪華この上ない家をおっ立ててはたちまち貧乏に陥る。皇帝を頂点として上下関係の差が余りにも激しいため、民衆はいつもどこかで怨恨をわだかまらせていて国家経営は困難を極めるほかなく、見ていて馬鹿っぽいぞ。
「中行説『匈奴の習俗では、人は家畜の肉を食べ、その汁(乳)を飲み、その皮を着る。家畜は草を食べ水を飲むから時節に応じて移動するのだ。だから緊急の場合には、人々は騎馬射術をやる。平和の場合には、人々は無事を楽しむのだ。そのとりきめは簡略で実行しやすい。君主と臣下の関係は簡便であって、一国の政治は、一身を修めるようなものだ。父子兄弟が死ぬと、その妻をとってわが妻とするのは、子孫が絶えることを心配するからだ。だから、匈奴は混乱があっても、必ず本家の一族を立てる。ところが、中国ではおもて向きは自分の父や兄の妻をとらないけれども、親戚の間はますます疎遠となり、殺しあいさえし、異姓にくらがえするまでになる。みなこういったたぐいさ。そのうえ礼儀も道徳もすたれてしまい、上と下は互いに恨みあう。住宅を豪奢にしたはては、生活のかては必ずつきてしまう。だいたい農耕養蚕につとめて衣食を手に入れ、城郭を築いて自衛する。だから、その人民は緊急な場合には戦闘に習熟しておらず、平和なときには仕事に疲れきっているのだ。やれやれ、土の家に住む民はだな、口先多くべらべらがやがやしゃべるべきでない。冠などいったい何の役に立つのだ』」(「匈奴列伝 第五十」『史記列伝4・P.42』岩波文庫 一九七五年)
おまけに贅沢な冠とか帯とか。それが何の役に立つ?
「これ以後、漢の使者が言いまかそうとしても、中行説はそのたびに言った、『漢の使者よ、おしゃべりはもうたくさんだ』」(「匈奴列伝 第五十」『史記列伝4・P.42~43』岩波文庫 一九七五年)
お前らにはもう愛想が尽きたと言っているのがわからないのか。もう来なくていい。おれと話すのは百年早いと。中行説はただ単なる風習とはいえ、それらどちらの質についても実によく通じていた。さらに他国の使者とやりとりする場合、その場の空気を十分読んでいたがゆえ、売り言葉に対して買い言葉で返すという馬鹿げた手法は始めから取らない。珍しい逸材に思えるが、その根底にあるのは怨恨ではなく「時宜に応じて」てきぱきと回転する《ユーモア》の精神だったに違いない。
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