しばらくして大きな沼の辺(ほとり)を廻り歩いていると、水上を游(およ)いでこちらに近づいて来るものがいる。見ると三メートルばかりの大蛇。その頸(くび)には箭(や)が突き立てられている。俗人は足を止めて待ち伏せ、頃合いを見計らって箭(や)で射殺した。その後帰宅の途についたが、やおら脈略を逸した言葉を喚き散らし出したかと思うと、家に帰る着く暇もなく狂死してしまった。
「大(おほき)ナル沼ノ辺(ほとり)ヲ打廻(うちめぐり)テ行(ゆく)ニ、水ノ上ニ游(およぐ)物アリ。見レバ、大蛇ノ一丈斗(ばかり)ナルガ頸(くび)ニ矢タテナガラ水ヲ游(およぎ)テ来(きた)リケリ。又待(まち)ウケテ射殺(いころ)シツ。サテ家ヘ返リツカズ、軈而(やがて)物狂(くる)ハシクテ、種々ノ事ドモ云(いひ)テ、狂ニ死(シニ)死(し)ニケリ」(日本古典文学体系「沙石集・巻第七・五・P.300」岩波書店 一九六六年)
さらに別の日、同じく下野国の沼で魚を獲っている者がいた。岸辺の下に岩穴が開いており、そこから数知れぬほどの魚がどんどん出てくる。よく覗き込んでみると穴の奥に瓶子(へいし=徳利状の土器)があり、そこから三十センチばかりの小さな蛇が一匹出てきた。漁師はその蛇を捕まえ串刺しにして道端に立て、大量の魚を家に持ち帰り調理しにかかった。するとそこへ串刺しになった蛇が上り込んできた。見つけるとすぐさま殺した。するとまた串刺しにされた蛇が上がり込んできたのでそれも殺した。殺せばまたやって来て殺し、また殺せばまたやって来る。一度串刺しにした同じ蛇までも再び上がり込んでくるため、幾ら殺しても殺しきれない。恐怖のあまり遂に身の毛もよだち、心細さがつのり苦しみ始め、ほどなく狂死してしまった。
「是(これ)ヲトテ串ニサシテ道ノ傍(かたはら)ニ立(たて)テ、家ニ返(かへり)テ魚サバクリケル所ニ、串ニサシナガラ蛇来レリ。軈而(やがて)打殺(うちころし)ツ。コロセバ来(き)コロセバ来(く)ル。サキニ殺シタルモアリナガラ重(かさね)テ来ル。イクラトモ数モ不知。ハテハ身ノ毛イヨダチ、心地ワビシクテ、軈而ヤミ狂(くるひ)テ死(し)ニケリ」(日本古典文学体系「沙石集・巻第七・五・P.300」岩波書店 一九六六年)
さて。両者ともに共通しているのは一度殺したはずの蛇が殺された時とまったく同じ姿形で繰り返し再出現してくる点。殺害者が狂死するまで何度も繰り返し反復される。疲れを知らない欲望にも似る。
古代インド。生前のブッダの前で汲めども尽きぬ愛欲を蛇に喩えた人々がいた。多くは女性である。愛欲は自分の身体内部から湧き起こってくるのだが、それは遂に自分自身を「炬火(たいまつ)のように焼きつくします」と女性らはいう。
「もろもろの欲望は、剣や槍に譬えられます。もろもろの欲望は、蛇の頭に譬えられます。それは炬火(たいまつ)のように焼きつくします。それは骸骨に似たもので、〔無惨に打ち砕かれます〕」(「尼僧の告白・四八八・P.83」岩波文庫 一九八二年)
或る遊女の証言と祈り。
「〔遊女としての〕わたしの収入(みいり)は、カーシー(ベナレス)国〔全体〕の収入ほどもありました。町の人々は、それをわたしの値段と定めて、値段に関しては、わたしを、値のつけられぬ〔高価な〕ものであると定めました。そこで、わたしはわたしの容色に嫌悪を感じました。そうして嫌悪を感じたものですから、〔容色について〕欲を離れてしまいました。もはや、生死の輪廻の道を繰り返し走ることがありませんように!」(「尼僧の告白・二五~二六・P.13」岩波文庫 一九八二年)
さらに遊女の証言。
「愚かな男たちの言い寄るこの身体を、いとも美しく飾って、網をひろげた猟師のように、わたしは娼家の門に立っていました。秘密に、あるいは露(あら)わに、多くの飾りを見せながら、多くの人々を嘲笑(あざわら)いながら、妖(あや)しげな種々の術を行ないました」(「尼僧の告白・七三~七四・P.24」岩波文庫 一九八二年)
欲情を支配するのではなく逆に欲情に支配され、自分で自分自身を制御できない状態へ陥る。首縊(くびつ)り自殺寸前に至った証言。
「欲情に悩まされ、わたしは、以前には浮わついていて、心を制することができませんでした。煩悩にとりつかれ、快楽の想いに馳せ、欲情に支配されていて、わたしは心の平静を得ることができませんでした。痩せて、青ざめ、醜くなって、わたしは七年間、遍歴しました。いとも苦しみ、昼も夜も、安楽を得ることはできませんでした。そこで、わたしは、縄を手にして、林の中へ入って行きました、ーーー『卑しいことをさらにつづけて行なうよりは、わたしはここで首を縊ったほうが良い』と思って。強靭な吊り縄をつくって、樹の枝に縛りつけ、わたしはその縄を首のまわりに投げかけました」(「尼僧の告白・七七~八一・P.24~25」岩波文庫 一九八二年)
女性の場合、男性の発言と決定的に異なる印象を受ける。というのはその愛欲に血の匂いが漂っているからにほかならない。女性には生理の期間がある。定期的に流血する。そのぶん自然生態系の力をまともに見せつけられることになる。男性が何としてでも女性に穢(けが)れというものを押し付け遠ざけようとした理由は、その種の深く命に関わる自然の猛威を間近で見るのに恐怖を感じていたからかもしれない。古代中国の戦争で敵国の首脳陣を逮捕した際、殺害したその血を軍鼓(ぐんこ=軍事行進時の太鼓)に塗りつける儀式があった。
「楚子が駅伝の馬車で羅汭(らぜい)に駆けつけると、呉子(夷末=いばつ)の弟の蹶由(けつゆう)を派して楚軍をねぎらわせたが、楚の人はこれを逮捕し、軍鼓の血塗りに用いようとした」(「春秋左氏伝・下・昭公五年・P.86」岩波文庫 一九八九年)
これについて「韓非子」に「釁鼓」とある。
「荊王伐呉、呉使沮衛蹶融犒於荊師、而将軍曰、縛之、殺以釁鼓、
(書き下し)荊王(けいおう)、呉(ご)を伐つ。呉、沮衛蹶融(しょえいけつゆう)をして荊の師を犒(ねぎら)わしむ。而(すなわ)ち将軍曰わく、これを縛(ばく)せよ。殺して以て鼓(こ)に釁(ちぬ)らんと。
(現代語訳)楚王(そおう)が呉(ご)の国を討伐した。呉では沮衛蹶融(しょえいけつゆう)を派遣して楚の軍隊を慰労させた。すると、楚の将軍は言った、『これを縛(しば)りあげろ。殺してその血で進軍の太鼓を神聖にしよう』」(「韓非子2・説林下・第二十三・P.164~166」岩波文庫 一九九四年)
軍事行動で用いる太鼓の音はただ単に拍子を整えたり編成を組み換えたりするためのものだ。その軍鼓は最後までただ単なる太鼓に過ぎないというわけではなく「神聖化」することができると信じられていた。「釁(ちぬ)る」は「血祭り」を意味する。それは力の吸収・分配であり力の贈与として考えられていた。もっとも、古代中国ばかりでない。「聖杯」とは何か。
「彼らが食事をしているとき、イエスはいつものようにパンを手に取り、神を賛美して裂(さ)き、弟子たちに渡して言われた、『取りなさい、これはわたしの体(からだ)である』。皆がそれを受け取って食べた。また杯(さかずき)を取り、神に感謝したのち彼らに渡されると、皆がその杯から飲んだ。彼らに言われた、『これは多くの人のために流す、わたしの《約束(やくそく)の血(ち)》である』」(「新約聖書・マルコ福音書・第十四章・P.57」岩波文庫 一九六三年)
晩餐の日に葡萄酒を飲み干すことは葬儀であるとともに、或る力と別の力との婚姻でもある。聖杯を飲み干した人々はその瞬間、もはや別の何者かに《なる》のだ。中学生が高校生になったからといって、ただそれだけでは自分一人の頭の中でだけ考えられた想像上の移動に過ぎない。そうではなく、《なる》ということは、中学校の制服が脱ぎ捨てられて高校の制服へ変換された時、始めて達成される祭祀に等しい。帰宅して風呂に入ったからといって、ただそれだけで会社から解放され家に帰ったことにはならない。スーツが脱ぎ捨てられ浴衣へ変換されだらしなく寝そべった姿勢に崩れ果てた時、始めて達成されないではいられない祭祀に等しい。例えばアルベルチーヌの場合。
「私がもどってくると、彼女は眠っていた、そして私がそばに立って見る彼女は、真正面になったとたんにいつもそうなったあのべつの女だった。しかしまたすぐその人が変ってしまったのは、私が彼女とならんでからだをのばし、彼女を横から見なおしたからであった。私は彼女の頭をかかえ、それをもちあげ、それを私の唇におしあて、彼女の両腕を私の首に巻きつけることができた。それでも彼女は眠りをつづけていて、あたかもとまっていない時計のようであり、どんな支柱をあてがってもその枝をのばしつづける蔓草か昼顔のようであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.191」ちくま文庫 一九九三年)
もはや無意識のうちに人間は動物に《なる》し、動物から植物にさえ《なる》。それは蛇の脱皮のように何度も繰り返し反復され新生する。
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