都にいる各国の大名たち、そして将軍補佐役から政務・軍事を司る長官、裁判所長官、財務・不動産関連を司る役所の長官、それらの補佐役・書記局長や一般の役人まで大勢で寄り集まって「茶の会」を開いた。横溢する異国趣味、全国から集められた数々の名物・珍品。一堂には百箇所に及ぶ飾り付け、豪華な寺院で用いられる椅子に豹皮や虎皮が張られずらりと並べられている。百の福徳で飾られた仏の三十二面相をあしらった床の上に、三劫(過去・現在・未来)にそれぞれ出現するという仏が高貴な光を放って並入り座しておられる光景にも等しい。「異国の諸侯が遊宴を行う際には食膳方丈といって、座の周囲に三メートル四方ことごとく世の珍物をびっしり備えて並べ置くという。それに勝るとも劣るまい」。そういって幅一メートル五十センチの大きな食台を十揃え用意し、十種類のおかずを盛った点心料理が百種、五種(甘・辛・酸・苦・鹹)の味の魚料理・鳥料理、甘い菓子・酸っぱい菓子、ありとあらゆる珍味が置き並べられている。
「都には、国々の大名、并(なら)びに執事(しつじ)、侍所(さぶらいどころ)、頭人(とうにん)、評定衆(ひょうじょうしゅう)、奉行(ぶぎょう)、寄人(よりうど)以下(いげ)の公人(くにん)ども、衆を結んで茶の会をしけるに、異国(いこく)本朝(ほんちょう)の重宝(ちょうほう)を集め、百座(ひゃくざ)の粧(かざ)りをして、皆曲録(きょくろく)の上に豹(ひょう)虎(とら)の皮を敷いて並(な)み居(い)たれば、ただ百福荘厳(ひゃくふくしょうごん)の床(ゆか)に、千仏(せんぶつ)の光を並べて座し給へるに異ならず。『異国の諸侯は、遊宴をなす時、食膳方丈(しょくぜんほうじょう)とて、座の廻り四方一丈(じょう)に珍物(ちんぶつ)を備へり。それに劣るべからず』とて、面(おもて)五尺の広折敷(ひろおしき)を、十枚並べて、十番菜(じゅうばんさい)の点心(てんじん)百種、五味(ごみ)の魚鳥(ぎょちょう)、甘酸(かんさん)の菓子(かし)、色々様々(さまざま)に置き並べたり」(「太平記5・第三十三・三・P.234~235」岩波文庫 二〇一六年)
食後すぐ美酒三献(九盃)が飲み干されたところで、ようやく闘茶のための賭物が百品用意される。ここでの闘茶は栂尾(とがのお)産・宇治(うじ)産の「本茶(ほんちゃ)」とそれ以外のものとを言い当てる競技。さらに引き出物だが、第一の世話人は奥州産の摺り衣を百点ずつ六十三人の前に積む。第二の世話人は筒袖の衣装を十重ずつ置く。第三の世話人は沈香(香木)の切れ端を一五〇〇グラムずつに麝香鹿の臍部分から取れる香を三つずつ添えて置く。第四の世話人は作りたての鎧一式に鮫皮で装飾された銀の太刀・金の太刀にそれぞれ虎皮の火打ち石を入れる袋を添えて置き、全員に引出物を積んだ。残る二十人ばかりの世話人も我こそはもっとより多くのものをと意匠を凝らし数量も増して積み、とうとう山のように積み重なった。それらに要した費用は幾千万にのぼっただろう。ともあれ皆が皆それらを取って帰ったわけだから、それぞれがそれぞれの珍品・貴品を相互に交換し合ったのと変わらない。
「食後に、旨酒(ししゅ)三献(さんこん)過ぎて、茶の懸物(かけもの)百物(ひゃくぶつ)、百の外(ほか)に、また前引(まえひき)の置物(おきもの)しけるに、初度(しょど)の頭人(とうにん)は、奥染物(おくのそめもの)おのおの百づつ、六十三人が前に積む。第二の頭人は、色々の小袖(こそで)十重(とかさね)づつ置く。第三番の頭人は、沈(じん)のほた百両づつに、麝香(じゃこう)の臍(ほぞ)三つづつ副(そ)へて置く。四番の頭人は、ただ今威(おど)し立(た)てぬる鎧一縮(しゅく)に、梅花皮(かいらぎ)懸けたる白太刀(しろたち)、金作(こがねづく)りの刀に、おのおの虎皮の燧袋(ひうちぶくろを下げて、一様(いちよう)にこそ引きたりけれ。以後の頭人(とうにん)二十余人、われ人に増さらんと、様(さま)を替へ数を副(そ)へて、山の如くに積(つ)み重(かさ)ぬ。その費(つい)え幾千万ぞ。これをもせめて取つて帰らば、互ひにこれを以て、かれに替へたる物どもなるべし」(「太平記5・第三十三・三・P.235~236」岩波文庫 二〇一六年)
ちなみに今の京都市西京区大原野(おおはらの)で佐々木道誉が主催した茶会は次のようなもの。本堂の庭園にのぼってみると巨大な桜の木が四本ある。その周りを三メートルばかりの真鍮製の花瓶で囲い、二本一組の生花に仕立て上げた。その間に二抱えほどもある香炉を置き六百グラムばかりの名香を一度に焙き上げると、薫風は忽ち四方に打ち広がり人々はあたかも芳香充満する香積浄土を漂っているかのようだ。さてその陰(かげ)に幔幕を引き寺院な椅子をずらりと並べ、幾種類もの珍味を調理して出す。栂尾・宇治の茶(本茶)とそれ以外の茶とを区別して言い当てる闘茶は百回分用意され、そのために積み上げられた賭品は山のようだ。舞人の舞いは優雅この上なく、傀儡(くぐつ=遊女)らの歌唱は時に細やかで時に春の鶯のように煌めく天女のようだ。聴いている人々はみんな大口袴(おおぐちばかま)や筒袖(つつそで)の着物を脱いで、舞台に放り投げて喝采を贈る。興は乗り宴たけなわに達し誰も皆したたかに酔っている。夜も更けてそれぞれ帰路につく頃、月の光がなければ焚いた松明が夜空を焦がすばかりに天まで輝かせている。
「遥(はる)かに本堂の庭に躋(のぼ)れば、十囲(じゅうい)の花木(かぼく)四本あり。この本(もと)に、一丈余りの鍮石(ちゅうじゃく)を以て華瓶(かびん)に鋳懸けて、一双の立花(りっか)に作り成し、その間に、両囲(りょうい)の香炉(こうろ)を置いて、一斤(きん)の名香(めいこう)を一度に焙(た)き上(あ)げたれば、香風四方に散じて、皆人浮香世界(ふきょうせかい)に在るが如し。その陰(かげ)に、幔(まん)を引き、曲録(きょくろく)を立て並べて、百味(ひゃくみ)の珍膳(ちんぜん)を調(ととの)へ、百服の本非(ほんぴ)を飲みて、懸物(かけもの)山の如くに積み上げたり。優工(ゆうく)一度(ひとたび)廻鸞(かいらん)の翅(つばさ)を翻(ひるがえ)し、傀儡(かいらい)濃(こま)やかに春鶯(しゅんおう)の舌を暢(の)ぶれば、座中の人々、大口(おおぐち)、小袖(こそで)を解(と)いて抛(な)げ与(あた)へ、興(きょう)闌(たけなわ)に酔(え)ひに和(か)して、帰路(きろ)に月なければ、松明(たいまつ)天を耀(かかや)かす」(「太平記6・第三十九・六・P.163」岩波文庫 二〇一六年)
ところで「浮香世界(ふきょうせかい)」は「維摩経」にある「香積如来(こうしゃくにょらい)」の浄土のこと。「維摩経」のサンスクリット原典は現存しないがチベット訳からの邦訳を次に上げておこう。
「この仏国土から上方へ向かって、四十二のガンガー河の砂の数ほどの仏国土を越えて《あらゆる香りのなかで最もよい(一切妙香、衆香<しゅこう>)》とよばれる世界がある。現在そこには《すぐれた香りの峰(最上香台、香積<こうしゃく>)》と名づける如来があって、現に日を送っておられる。この世界にある樹からは、十方の仏国土の人々や神々が発する香りのいずれよりも、はるかに上等の香りが発散している。この世界には声聞とか独覚とかいう呼び名すらなく、かの最上香台如来は、ただ菩薩たちだけの集まりに対して説法をされる。この世界では、あらゆる楼閣は香気からなっており、遊歩道も園林も宮殿も、すべて香気でできあがっている。その菩薩たちのとる食事の香りは、無数の世界にゆきわたるのである」(「維摩経・九・仏陀の食事をもらう・P.134~135」中公文庫 一九八三年)
また舞人の優雅な舞姿に喩えられている「廻鸞(かいらん)の翅(つばさ)」。「山海経」に「鸞(らん)鳥」とある。実在するのかどうか判明しないようだが、差し当たり三箇所、列挙しておこう。
「鳥がいる、その状(かたち)は翟(きじ)の如くで五彩の文(あや)あり、名は鸞(らん)鳥」(「山海経・第二・西山経・P.34」平凡社ライブラリー 一九九四年)
「諸〔夭(よう)〕沃の野は鸞(らん)鳥がわれと歌い、鳳(ほう)鳥がわれと舞う」(「山海経・第七・海外西経・P.122」平凡社ライブラリー 一九九四年)
「開明の西に鳳凰・鸞(らん)鳥がいて、みな蛇を(頭に)いただき、(足には)蛇をふみ、胸には赤い蛇(を守っている)。ーーー鳳凰・鸞鳥はみな盾を(あたま)にいただく」(「山海経・第十一・海内西経・P.139」平凡社ライブラリー 一九九四年)
そして解散となるわけだが、金と青貝とで装飾された車、美しく飾り立てられた馬、それらは夜中の街路をわいわいがやがやと通り過ぎていく。誰もが酒に酔って歌い叫んでいて、どう見ても「三尸(さんし)百鬼(ひゃっき)」の行列にしか見えない。白居易が詠んだ「牡丹妖艶(ぼたんようえん)」の一節もなるほどこのようなものだったのだろうと変に納得してしまいそうではある。
「鈿車(でんしゃ)軸々(じくじく)として轟(とどろ)き、細馬(さいば)轆々(ろくろく)として鳴らして馳(は)せ散(ち)り、喚(おめ)き叫(さけ)びたる有様、ただ三尸(さんし)百鬼(ひゃっき)の夜深(よふか)くして衢(ちまた)を過ぐるに異ならず。『花開き花落つる事二十日、一城(いちじょう)の人皆狂せるが如し』と、牡丹妖艶(ぼたんようえん)の色を風(ふう)せしも、げにさこそはありつらめと思ひ知らるるばかりなり」(「太平記6・第三十九・六・P.164」岩波文庫 二〇一六年)
なお「三尸(さんし)」は道教でいう「三尸虫(さんしちゅう)」。人間の体内に住んでいるが庚申の夜に身体の外に出てその人間の悪徳を天帝に報告するという。だから三尸(さんし)を封じておくため庚申の夜は寝ずに徹夜するという風習があった。許渾(きよこん)の詠。
「年長毎労推申子 夜寒初共守庚申
(書き下し)年長(とした)けては毎(つね)に労(いたは)しく甲子(かつし)を推(お)す 夜寒(よさむ)うしては初めて共(とも)に庚申(こうじん)を守る」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・庚申・六五〇・許渾(きよこん)・P.244」新潮社 一九八三年)
さらに菅原道真の詠。
「己酉年終冬日少 庚申夜半暁光遅
(書き下し)己酉(きいう)の年(とし)終(を)へて冬の日少なし 庚申の夜(よ)半(なかば)にして暁の光遅(おそ)し」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・庚申・六五一・菅原道真・P.244~245」新潮社 一九八三年)
そして白居易「牡丹芳」の一節。
「花開花落二十日 一城之人皆若如
(書き下し)花開き花落つ二十日 一城の人皆狂えるが若(ごと)し」(白居易「牡丹芳」/陳舜臣『唐詩新選・P.66』新潮文庫 一九九二年)
南北朝期の武士は遊んでばかりいたわけではない。もちろん軍事専門である。しかし当時から武士たちの戦いの様相は大いに変化してきた。武士自身がそれ以前の侍とは異なる出身階層から成り立ってくるケースが随所で見られる。そこに見物衆が集まり、一騎打ちなどはもはや濃厚なパフォーマンスの様相を呈する。一騎討ちに名乗りを上げる武士らも平安時代初期からの名門とは限らない。その中でも秋山九郎(あきやまのくろう)と阿保肥前守忠実(あぶひぜんのかみただざね)の一騎打ちの場面は有名である。秋山九郎は「清和源氏の後胤(こういん)」として登場する。が、甲斐源氏・武田一族の者。今の山梨県南アルプス市秋山出身。後の歴史から逆に見れば「武田信玄の祖先」と言ったほうがインパクトは強い。しかし特にこれといった有名な兵法に通じているわけではなく、逆に、京の鞍馬寺のある愛宕山・神護寺のある高尾山の天狗から源義経が習ったという兵法をすべて身に付けたと名乗るのである。
「鞍馬(くらま)の奥、僧正谷(そうじょうがたに)にして、愛太子(あたご)、高雄(たかお)の天狗どもが、九郎判官(くろうほうがん)義経(よしつね)に授け奉りし所の兵法に於ては、某、一つもこれを残さず伝へて得たる処なり」(「太平記4・第二十九巻・二・P.391」岩波文庫 二〇一五年)
もう一方の阿保忠実もまた「張良・呉氏・孫氏」といった有名な兵法のことは何一つ知らない。けれども幼少期から東国(あづまのくに)の山野を駆け巡り、臨機応変な戦法を独自に身に付け生き残ってきた叩き上げだという。
「幼稚の昔より東国に居住して、明け暮れは、山野の獣(けだもの)を追ひ、江河(ごうが)の鱗(うろくず)を漁(すなど)つて業(ぎょう)とせし間、張良(ちょうりょう)が一巻の書も、呉氏(ごし)、孫氏(そんし)が伝へし処をも、かつて名をだに聞かず。されども、変化(へんげ)時に応じて、敵のために気を発する処は、勇士の己れと心に得(う)る道なれば、元弘(げんこう)建武(けんむ)以後、三百余ヶ度の合戦に、敵を靡(なび)け、御方(みかた)を助け、強きを破つて、堅きを砕(くだ)く事、その数を知らず」(「太平記4・第二十九巻・二・P.392~393」岩波文庫 二〇一五年)
「張良(ちょうりょう)が一巻の書」については「後漢書」から「和漢朗詠集」に引かれている。
「漢高三尺之剣 坐制諸侯 張良一巻之書 立登師傅
(書き下し)漢高三尺かんこうさんじやうの剣 坐(ゐ)ながら諸侯(しょこう)を制(せい)し 張良(ちやうりやう)一巻(いつくゑん)の書(しよ) 立ちどころに師傅(しふ)に登(のぼ)る」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・帝王・六五三・後漢書・P.245」新潮社 一九八三年)
そして両人の一騎打ちは「数万の見物衆」が「堅唾(かたず)を呑んで」見守るなか、「軍(いくさ)の花」として語り継がれる形式を取っている。
「両陣の兵は、あれ見よとて、軍(いくさ)を止(や)めて手を拳(にぎ)る。数万の見物衆は、戦場とも云はず走り寄り、堅唾(かたず)を呑んでこれを見るに、寔(まこと)に(今日の)軍(いくさ)の花は、ただこれに如(し)かずとぞ見えたりける」(「太平記4・第二十九巻・二・P.393」岩波文庫 二〇一五年)
それにしても佐々木道誉はなぜわざわざ大原野の大花会を開いたのか。貞治五年(一三六六年)、日頃から斯波道朝(しばどうちょう)のことを快く思っていなかった道誉は、斯波道朝が将軍足利義詮(よしあきら)の御所で花見の遊宴を開催する案内を出したところ、「わざと引(ひ)き違(ちが)へて、京中の道々(みちみち)の物の上手ども独(ひと)りも残さず皆引き具して、大原野(おおはらの)の花の下(もと)に宴(えん)を儲(もう)け、席を粧(かざ)つて」、空前の祝祭空間を出現させてみせたのだった。
「道誉、かねては必ず予参(よさん)すべしと領状(りょうじょう)したりけるが、わざと引(ひ)き違(ちが)へて、京中の道々(みちみち)の物の上手ども独(ひと)りも残さず皆引き具して、大原野(おおはらの)の花の下(もと)に宴(えん)を儲(もう)け、席を粧(かざ)つて、世に類(たぐ)ひなき遊びをぞしたりける」(「太平記6・第三十九・六・P.162」岩波文庫 二〇一六年)
非日常的な祝祭性。とはいえ佐々木道誉の一人芝居ではけっしてない。「道々(みちみち)の物の上手ども」とは誰か。諸芸諸道に通じた芸能民である。既に「喫茶往来」で見た当時の茶会場の様子。
「爰(ここ)に奇殿有り。桟敷(さじき)二階に崎(そばだ)って、眺望は四方に排(ひら)く。是れ則ち喫茶の亭、対月の砌(みぎり=場所)なり。左は、思恭の彩色の釈迦(しゃか)、霊山説化の粧(よそおい)巍々(ぎぎ)たり。右は、牧谿(もっけい)の墨画(すみえ)の観音、普陀(ふだ)示現(じげん)の姿蕩々(とうとう)たり。普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)脇絵を為し、寒山(かんざん)・拾得(じっとく)面餝(めんぼう=おもてかざり)を為す。前は重陽(陰暦九月九日の節句、この場合は菊の異称)、後は対月(明月に向かう)。言わざるは丹果の脣(くちびる=仏の顔かたちの一つをいう)吻々たり。瞬(またたき)無し青蓮の眸(ひとみ=仏の目)妖々たり。卓には金襴(きんらん)を懸(か)け、胡銅の花瓶(かびん)を置く。机には錦繍を敷き、鍮石(ちゅうじゃく=しんちゅう)の香匙(こうし=香道具の一つ、こうさじ)・火箸(こじ)を立て、嬋娟(せんけん=あでやか)たる瓶外の花飛び、呉山の千葉(沢山の木の葉)の粧(よそおい)を凝(こら)す。芬郁(ふんいく=香りのよい)たる炉中の香は、海岸の三銖(さんしゅ=かすかな)の煙と誤つ。客位の胡床(こしょう=いす)には豹(ひょう)皮を敷き、主位の竹倚(竹のいす)は金沙(美しい砂)に臨む。之に加えて、処々の障子に於ては、種々の唐絵を餝(かざ)り、四皓(しこう)は世を商山の月に遁(のが)れ、七賢は身を竹林の雲に隠す。竜は水を得て昇り、虎は山に靠(よ)って眠る。白鷺は蓼(たで)花の下に戯(たわむ)れ、紫鴛(おしどり)は柳絮(りゅうじょ)の上に遊ぶ。皆日域(日本)の後素(絵画)に非ず。悉(ことごと)く以て漢朝の丹青(彩色画)。香台は、並(なら)びに(ならんで)衝(つい=堆)朱(しゅ)・衝紅(ついこう)の香箱。茶壺は各(おのおの)栂尾(とがのお)・高尾(たかお)の茶袋。西廂(せいしょう=西側の座敷)の前には一対の餝棚(かざりだな)を置き、而して種々の珍菓を積む。北壁の下には、一双の屏風を建て、而して色々の懸物(かけもの)を構(かま)う。中に鑵子(かんす=ちゃがま)を立てて湯を練り、廻りに飲物を並べて巾(ふきん)を覆(おお)う」(「喫茶往来」『日本の茶書1・P.122~123』東洋文庫 一九七一年)
そして道誉の催した大原野大花会の条にこうある。
「供(とも)に連れたる遁世者(とんせいしゃ)、見物のために集まる田楽童(でんがくわらわ)、傾城(けいせい)、白拍子(しらびょうし)なんど」(「太平記5・第三十三・三・P.236」岩波文庫 二〇一六年)
このような「遁世者(とんせいしゃ)」=「同朋衆(どうぼうしゅう)」、「田楽童(でんがくわらわ)」、「傾城(けいせい)」、「白拍子(しらびょうし)」たちによって室町時代の文化・芸能は成熟へ向かっていく。
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