「『あなたたちは、わたしの牝猫(めすねこ)をどうしたんですか』。一匹の大きな、ふとった、年をとった猫が、机の上にぐったりと四肢(しし)をのばして寝そべっていた。女教師は、あきらかにちょっとして怪我(けが)にすぎない猫の前足の傷をしらべていた。じゃ、やっぱりフリーダの言ったとおりだったのだ。あの猫が、フリーダの上にとびかかったのではないにしても(だって、こんな老いぼれ猫は、もう跳ぶことなんかできまい)、彼女の上をはって越えていこうとしたのだ。ところが、いつもは人気(ひとけ)のない部屋のなかに人間がいるのにびっくりして、急いで身を隠したが、なれない身で急いだため怪我をしてしまったのにちがいない。Kは、このことを女教師に冷静に説明してきかせようとしたが、相手は、結果だけを重視して、『あんたがたが怪我をさせたんだわ。それがここへやってきた手みやげってわけね。そら、見てごらん!』女教師は、Kを教壇に呼び寄せ、猫の前足を見せた。そして、あっとおもう間もあらばこそ、猫の爪(つめ)でKの手の甲を引っかいた。爪は、するどくはなかったが、女教師は、もう猫のことなど考えずに、爪をつよく押しつけて引っかいたので、手の甲にみみずばれができてしまった」(カフカ「城・P.219」新潮文庫 一九七一年)
女性教師は女性教師の身体のまま「わたしの牝猫(めすねこ)」から「わたしは牝猫(めすねこ)」へ変身している。人間から動物への変身は実にしばしばカフカ作品に出てくる。ここで女性教師は怪我をさせられた《債権者》として《債務者》Kに刑罰を与えた。ニーチェはいう。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫 一九四〇年)
この作業〔刑罰を与えること〕を済ませた女性教師はKたちに早く与えられた学校の仕事に取りかかるよう口にしただけで、もうKには何の用もない様子で猫の上にかがみ込んで様子を伺っているばかり。Kの側も別に怒るわけではない。進行すべき順序を踏んでいるに過ぎないかのようだ。
ところで「城」でも「審判」でもKが飢餓状態に陥ることはない。城の村へ呼び出されてからずっと測量師として何をどうすればよいのかさっぱり判然としない宙ぶらりんの状態に置かれてはいてもなぜか飢餓状態に追い込まれることはまるでない。なぜなら衣食住が保障された社会では、保障されてはいても、それはあくまで<公理系>創設のための《保障》であるため、それを条件としてさらに狡猾さを増した<資本主義・官僚制>の出現を官民総力を上げて準備するからである。ドゥルーズ=ガタリはいう。
「資本の身体は、脱土地化した社会体ではあるものの、同時にまた他の一切の社会体よりも情け容赦のない社会体でさえもある。資本主義の採用した公理系は、種々の流れのエネルギーを、こうした社会体としての資本の身体の上で束縛された状態に維持するものなのである。これとは逆に、分裂症はまさに《絶対的な》極限であり、この極限においては、種々の流れは、脱社会化した器官なき身体の上の自由な状態に移行することになる。だから、こういうことができる。分裂症は資本主義そのものの《外なる》極限、つまり資本主義自身の最も深い傾向のゆきつく終着点であるが、資本主義は、この傾向をみずからに禁じ、この極限を押しのけおきかえて、これを自分自身の相対的な《内在的な》極限に(つまり、拡大する規模において、自分が再生産することをやめない極限に)代えるのだ、と。資本主義は、自分が一方の手で脱コード化するものを、他方の手で公理系化する。相反傾向をもったマルクス主義の法則は、こうした仕方であらためて解釈し直されなければならない。したがって、分裂症は資本主義の全分野の端から端にまで浸透している。しかし、この資本主義の全分野にとって問題であるのは、ひとつの世界的公理系の中でこの分裂症の電荷とエネルギーとを連結しておくことである。この世界的公理系は、新たなる内なる極限を、脱コード化した種々の流れの革命的な力にたえず対立させているものであるからである。こうした体制においては、脱コード化と、公理系化とを(つまり、消滅したコードに代わって到来してくる公理系化とを)区別することは、(たとえ二つの時期に区別することでしかないとしても)不可能なことである。種々の流れが資本主義によって脱コード化され、《そして》公理系化されるのは、同時なのである。だから、分裂症は資本主義との同一性を示すものではなくして、逆にそれとの相異、それとの隔たり、その死を示すものなのである。通貨の種々の流れは、完全に分裂症的な実在であるが、しかし、これらの実在が現実に存在して働くことになるのは、この実在を追いはらい押しのける内在的な公理系の中においてでしかない。銀行家、将軍、産業家、中級上級幹部、大臣といった人々の言語活動は、完全に分裂症的な言語活動であるが、この言語活動が作動するのは、ただ統計的に、つながりが平板単調なる公理系の中においてでしかない。つまり、この言語活動を資本主義の秩序の維持に役立てる、あの公理系の中においてでしかない」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.294~295」河出書房新社 一九八六年)
カフカがこれら長編小説の執筆に取りかかっていた頃、一方の日本では飢餓の嵐が吹き荒れていた。その象徴的存在の一つが<からゆきさん>。山崎朋子はその過酷な飢餓状態と<からゆきさん>発生の条件についてこう述べている。
(1)島原・天草周辺の飢餓がいかにひどいものだったか。ただし女衒(ぜげん)もまた貧困ゆえに女衒となったのは理解できるにせよ、<からゆきさん>と女衒とではその後の生活水準もまるで同じだとばかりは言えない。その意味で読者にすれば山崎朋子は女衒をかばっているかのように思える面がなくもない。もっと言えば「女衒のおかげで」近代日本は大量の外貨を獲得することができたのだと読むことができる。だが始めは女衒もまた貧困状態から這い出るためにあえて女衒になったと言える。山崎の文章を読む限り、一方的に女衒がわるいと始めから決めつけるのではなく女衒を出現させるような社会環境に注目すべきだとする主張に着目しておこう。
「人間にとって<食べること>は、生きる上で最低限の要求であると言わなくてはならないが、おサキさん兄妹の生活は、着ること、住まうことはもちろんのこと、その<食べること>にすら事欠くようなひどいものであった。言葉を換えれば彼女らは、絶えず飢餓線上に喘(あえ)いでいたのであり、そしてこのような状態は単におサキさん兄妹の家だけのことでははく、およそからゆきさんをひとりでも出したような家はもちろんのこと、おそらくは、村岡伊平治や由中太郎など女衒(ぜげん)を出した家にもそのままあてはまるとしなくてはならないのだ」(山崎朋子「サンダカン八番娼館・からゆきさんと近代日本・P.251~252」文春文庫 二〇〇八年)
(2)徳川幕藩体制成立から一貫して貧困地帯だった条件として、農業に向いていない土地柄という島々がもともと持っていたという性質とそこから必然的に出てくる結果として収穫高の低さがあった点。
「松田唯雄『天草近代年譜』や山口修『天草』などによると、徳川家康は征夷大将軍となった慶長八年、関ヶ原の合戦の戦功賞与として肥前唐津の城主であった寺沢志摩守広高に天草両島を与えたと記されているが、天草を領有した寺沢志摩守が第一におこなったことは検地であった。そして全島の田畑の収穫高を三万七千石、海からの収穫高を五千石と算定し、合わせて四万二千石の領地と見なして、それだけの租税を農民たちに課したのである。周知のように、徳川時代の租税は米麦などの現物貢納であり、その税率は石高の四割から五割というのが普通だったから、天草の農民たちは、毎年およそ一万五千石ないし一万八千五百石の年貢を納めなくてはならなかった。土地の生産力が高く、かつ一軒あたりの耕作面積が広かったならば、そのような租税を納めてもなお農民たちは生きて行くことができたかもしれない。しかし天草は、すでに記したとおり自然の条件が極度に良くない土地であり、その上一軒あたりの耕地も至って少なかったから、収穫高の四、五割という税率の貢納をすませると、あとには、再生産はおろか一家の生命保持に必要な最小限の食糧さえ残らぬようなありさまであった。そしてこのような状態であったからこそ、天草の農民たちは、現世では叶えられぬ幸福への希望を彼岸につないで、折から布教しつつあったポルトガル人宣教師やキリシタン大名などの話に耳をかたむけてキリシタンとなり、寛永十四年には、貧困にもとづくその信仰を炎と燃やして、いわゆる島原・天草の乱を雄々しくたたかいもしたのである」(山崎朋子「サンダカン八番娼館・からゆきさんと近代日本・P.253~254」文春文庫 二〇〇八年)
(3)人口増加が必ずしも収穫物の増加につながらずむしろ逆方向に作用した点。
「当時の宣教師たちの記録によってみても、また幕府側の文書によってみてもあきらかなとおり、島原・天草の乱において幕府軍は、想像を絶する苛烈さでキリシタン征伐ーーーじつは農民虐殺をおこなった。そのため天草の人口は半減し、特に島原半島寄りの村々では人煙も稀れになり、山野を走る鳥けものの姿すら見かけなくなったという。そして、これではいけないと考えた幕府は、乱のおさまった翌年から、天領および九州諸藩へ強制的に人数を割り当てて天草への移民政策を採りはじめ、およそ五十年のあいだ続けたのである。これだけならまだしも、徳川時代の中期以降、他国からの入島者がしだいに増加したことや、流罪地に指定されて江戸・京都の罪人が多数送りこまれるようになったこと、さらにキリシタン改めの制度がきびしくて離島がむずかしかったことなどから、天草の人口は加速度的にふえていった。統計によると、文久三年から明治三年に至る七年間の人口増加は殊にめざましく、平均して年間千三百九十三人という激増ぶりを見せている。むろん普通の土地であれば、人口の増加はとりもなおさず労働力の増加を意味し、それだけ生産高が上昇して、殊更に貧窮をうながすということはなかったであろう。けれども、自然の条件において恵まれていない天草では、人口の増加はただちに生産高の上昇にむすびつかず、かえって島民全体の貧苦をはげしくする結果を招いてしまったのだ。敷衍(ふえん)すれば、降灰その他で痩せた天草の田畑は、増加した分の労働力を投入してもそれに見合ったみのりをもたらしてくれないのであり、以前と何ほども違わない額の収穫物に増加人口もまた依存して生きることになって、結局は天草農民のすべてを一層の貧困におとしいれてしまったのである」(山崎朋子「サンダカン八番娼館・からゆきさんと近代日本・P.254~255」文春文庫 二〇〇八年)
(4)維新政府は「現物貢納だった租税を金納に変えた」が「税率を実質的に下げる政策は何ひとつとして採ろうとしなかった」点。
「明治維新という大きな社会変革が起ったとき、天草島の農民たちは、これで自分たちの生活が楽になると期待したものと思われるが、しかしその期待は空しく終わらなくてはならなかった。なぜなら、徳川幕府を打ち倒して成立したにもかかわらずいわゆる明治新政府は、それまで現物貢納だった租税を金納に変えただけで、その税率を実質的に下げる政策は何ひとつとして採ろうとしなかったからである」(山崎朋子「サンダカン八番娼館・からゆきさんと近代日本・P.255~256」文春文庫 二〇〇八年)
(6)労働力を売って賃金を得ることができるのは基本的に男性の場合が圧倒的に多い。一方、「技術も教養も」手に入れる機会に恵まれていなかった女性たちの多くは紡績産業の中に組み込まれた部分が有名だが、それができない場合、肉体を売るケースが多発した。徳川時代と違って生来の土地から出入りする「自由」が与えられたため外国へ<出稼ぎ>に行くことができるようになったことが上げられる。
「当然天草の農民たちは、徳川封建制の支配した時代とほとんど変わらぬ生活に喘いでいなくてはならなかったが、しかし明治時代にはいって何ひとつ変わらなかったのかといえば、それはそうではなかった。たったひとつではあるが、徳川時代と大幅に違ってきた点があると言わなければ精確でない。それは、ギリシタンにたいする禁圧が解けて宗門改めがなくなり、天草から出島と帰島とが自由になったということである。生産力の極度に低い土地に強制的に縛りつけられていた徳川時代にくらべたなら、出島・帰島を気ままにおこなえるようになったことは、たしかにひとつの自由の獲得であり、農民たちの一歩の前進だと評価しなくてはならないだろう。けれども、農民を収奪する社会的な構造の根本を少しも変えず、天草農民に以前と同じ貧困を強要しておきながら、ただひとつ、出島と帰島の自由だけを与えれば、そこから導き出されるものはおよそ想像に難くない。人びとはその貧しさを、いわゆる<出稼ぎ>によって個人的に解決するという方向に走って行かざるを得ないし、事実天草の農民たちは、こぞってそこにわが一家一族の貧困の解決を求めたのだった。天草農民たちのうち男性は、長崎をはじめ主として九州一円に散らばってその労働力を売ったのだが、それでは女性は何を売ったか。子守だの女中だのといった家内労働に従事する者もあったが、それらの仕事は格別の技術や熟練を必要としない労働であるため、極めてわずかな賃金しか得ることができない。多くの天草女性のなかには、そのような労働にしたがって口減らしをしさえすればよいという者もあったが、なかには家が極貧で、もっと多額の金を入手しなければならぬという必要に迫られた者も少なくなかった。そして、彼女たちもまた特別の労働技術も教養も身につけていないとすれば、売るべきものといってはその肉体よりほかにないではないか」(山崎朋子「サンダカン八番娼館・からゆきさんと近代日本・P.256~257」文春文庫 二〇〇八年)
(7)しかし読者はおもうだろう。<出稼ぎ>ができるような環境を与えたのは明治維新政府である。とすれば貧困地域で起ってくることを見越した上であえて与えた「天草から出島と帰島と」の「自由」ではないかと。
「徳川幕府は鎖国政策によって一国かぎりの太平を二百五十年近く守って来たが、しかし産業革命を終えて資本主義体制を確立した西欧列強の政治的・経済的および軍事的圧迫に対抗するために成立した近代日本国家は、それら西欧の先進資本主義に追いつくことをみずからの至上命題とした。終始在野の人であったとはいえ明治政府のイデオローグのひとりだった福沢諭吉は、明治十八年に書いた『脱亜論』において、日本はアジアの一員たることから脱して一日もすみやかに先進資本主義国の列に加わらねばならないと説き、そのためには『支那朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人がこれに接するの風に従って処分すべきのみ』と主張するが、ここに近代日本国家の根本思想が端的に語られていると言ってさしつかえない。すなわち、福沢は婉曲(えんきょく)に『西洋人がこれ(アジア)に接するの風』と記すが、直截(ちょくせつ)に表現すれば、これは西欧諸列強のアジアならびにアフリカへの高圧的で仮借(かしゃく)ない植民地支配のことであり、日本もアジア諸国にたいして同様の態度を採らなければならないということだ。だが、明治中期までの日本は、富国強兵をスローガンにかかげて努力してはいたものの資本の本源的蓄積も十分ではなく、したがって国家的経済力も貧しく、国際的な発言力も弱かった。当然ながら当時の日本国家は、欧米諸国に太刀打ちしつつアジアの国々に植民地進出して行くことはできなかったが、しかし、だからといって進出をあきらめたわけではなかった。そしてそのような、一見して進退極まった状況において日本国家の採用した植民地進出の方法こそ、ほかならぬ底辺女性の徹底的な利用ということだったのである」(山崎朋子「サンダカン八番娼館・からゆきさんと近代日本・P.259~260」文春文庫 二〇〇八年)
しかしただひたすら<からゆきさん>が売春で獲得してくる外貨だけでそれほど莫大な国家的資金が得られるとは限らない。むしろ全国津々浦々で様々な形態の低賃金重労働に従事するかそうでなければ遊郭や闇売春に従事するしか生きていくこともままならないような社会構造が維新政府によって計画的に打ち立てられ実施されたと言えそうだ。だが<からゆきさん>に限ってみればその過酷さは他の売春産業と比較して群を抜いて過酷だったに違いないと山崎朋子は報告している。しかしこの総括的なまとめにはまだ続きがある。さらに次の機会で述べなければならない。
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