「門の前にくるとしかしすぐかれらは、これまでKがおよそ人間とやったことがないような仕方で腕を絡(から)ませてきた。肩を彼の肩のうしろに密着させ、腕を曲げるのではなくむしろそれを利用して、Kの腕の長さいっぱいに絡みつき、下でKの手を、訓練どおりの熟練した有無をいわせぬ握り方で掴(つか)んだ。Kはふたりのあいだをぎこちなく伸びきった格好(かっこう)で歩いた。かれらはいま三人全部で統一体を形作っていたので、かれらの一人がぶちのめされれば、全員がぶちのめされてしまうだろうと思われた。それはまさに無生物だけが形作れるような統一体だったのだ」(カフカ「審判・終り・P.315」新潮文庫 一九九二年)
二人の監視人に挟まれながらKはこう考える。「一年間の訴訟によってさえおれはなにひとつ教えられなかったことを、いま人前に示せというのか?それとも物わかりのわるい人間のまま退場すべきだろうか?」。しかしKがどこまでも「物わかりのわるい人間」を演じている限りで始めて読者は、カフカが描いた「官僚主義・資本主義・ファシズム」のいずれもが危険な罠で充満した世界だということを<未来への警告>として知ることができる。
「<いまおれがなしうる唯一(ゆいいつ)のことは>、と彼は心につぶやいた。そして自分の歩みとふたりの歩みのぴったり合っていることが、自分の考えの裏付けになるような気がした、<おれがいまなし得る唯一のことは、冷静に事を分類する理性を最後まで保ちつづけることだ。おれはいつでも二十本もの手でこの世にとびこんでいこうとした、しかもそれも、とうてい是認できない目的のために。が、あれは間違いだった。一年間の訴訟によってさえおれはなにひとつ教えられなかったことを、いま人前に示せというのか?それとも物わかりのわるい人間のまま退場すべきだろうか?やつは訴訟の初めにはそれを終らせようと思っていたのに、いまその終りになってそれをふたたび始めようと思っている、などと人に陰口をきかせていいものだろうか?おれは人にそんなことを言われたくない。それにしてもこの道中、こんななかば口の利(き)けぬ物のわからぬやつらを付添いにして、おれに言いたいことを勝手に言わせておいてくれたとは、有難いことだ>」(カフカ「審判・終り・P.317~318」新潮文庫 一九九二年)
ストーリーらしきものを排除してでもカフカが選んだ方法に間違いはなかった。今や世界中の読者がカフカ的世界の住人と化したことを毎日のように思い知らされるほかない日常生活を営んでいる。そこでは、<諦めろ>、という声なき声を聞かされない日はない。Kは裸にされ、石にもたれた姿勢で固定される。監視人だけでなくK自身も積極的に石に固定されようと協力し合う。にもかかわらず「彼の姿勢は信じられぬぐらい無理なものだった」。両者ともに協力し合ってもなお理想的な姿勢は訪れない。ニーチェのいうように「神は死んだ」。理想もまた消滅したのだ。
「男たちはKを地面に坐らせ、石に凭(もた)れかからせ、頭を上向きにのせた。かれらが非常に苦心したにもかかわらず、またかれらの意のとおりにしようとKが努めたにもかかわらず、彼の姿勢は信じられぬぐらい無理なものだった。そこで一人の男がもう一人にむかって、Kを横たえる作業をしばらく自分一人に任せてくれと頼んだが、それでも事情はよくならなかった。ついにかれらはKをある状態に置いたが、それでさえこれまでなされた状態のうち一番いいものだとは言えなかった」(カフカ「審判・終り・P.319~320」新潮文庫 一九九二年)
Kは「両手をあげ、全部の指をひろげた」。できることはすべてやり尽くした。ところがKの問いは延々引き続いていく。「一度も見たことのない裁判官はいったいどこにいるのだ?おれがついに行きつけなかった上級裁判所はどこにあるのだ?」と。
「一度も見たことのない裁判官はいったいどこにいるのだ?おれがついに行きつけなかった上級裁判所はどこにあるのだ?彼は両手をあげ、全部の指をひろげた」(カフカ「審判・終り・P.321」新潮文庫 一九九二年)
カフカはKが「死んだ」とは一言も書いていない。こうある。
「しかしKの喉(のど)には一人の男の両手がおかれ、もう一人の男は包丁を彼の心臓に深く突き刺し、二度それをえぐった」(カフカ「審判・終り・P.321」新潮文庫 一九九二年)
ところがKにはまだ意識がある。このままでは「犬のようだ!」とKは言う。「恥辱だけが生き残る」かのように思う。さらに当初出版されたとき「審判」は一連の完結作品という形を取っていたが、それは出版過程で辻褄合わせが行われた結果であり、後で判明した原稿を重ね合わせてみると<完結性>はほとんどない。実は<諸断片のモザイク>だった。しかし問題がなければ当初出版された時の形式でも構わない。ところが問題はそう簡単でなく、従って残された<諸断片>についても少しばかり論考すべき箇所が見られる。
なお、ウクライナ関連について。エネルギーが問題にされている限りでは今なお「南北問題かその蒸し返し」(二度目は茶番)でもあるということを頭に置いておかねばならない。蒸し返せるのは世界中どこへ行っても不動産でないところはもはやなくなったからである。その上でこう言えるだろう。
世界的規模を誇る欧米の多国籍企業はロシアに対して、口を揃えて「人権擁護」を叫んでいる。大規模な戦争のために労働力が失われ流通に支障が出ることを非常に危惧している。先進諸国はどこも少子化問題と加速化する貧困格差に頭を抱えている。ゆえに資本主義は常に新しい機械を発明しながらそれを稼働させてさらなる剰余価値を増殖させるため必要最小限の労働力を確保しておく必要性を痛感している。多国籍企業が盛んに「人権」を口にするのは人々の基本的人権の擁護のためにではまるでない。逆に将来的な労働力商品の確保のために差し当たり「人権擁護」と絶叫するしか方法を知らない頭の回転の鈍さ、貧困なアイデアのさらなる枯渇の表明でもある。過労死や労働災害関連の訴訟をたっぷり抱えているという陰湿な企業内部の実状はなかなか回復できない。このような時期に起こったロシアの軍事侵攻に対して「人権擁護」という<大義名分>を投げつけておくのは、ただ単なるイメージ回復のために過ぎないとはいえまたとない絶好のチャンスではある。例えば「生命保険」は今が儲けどきだ。
だがアメリカでは今なお白人警官による黒人殺害事件について、裁判を起こしている被害者側の親族のもとに脅迫メールが届き続けていて事件はまるで未解決。アメリカが「人権」を口にするたびに失笑を買い国際社会をしらけさせる理由はそのような国家的病気を抑え込むことに失敗し続けていることによる点が随分多い。アジア系移民に対する差別が後を絶っていないことも事態を厄介なものにしている。
またロシア批判に積極的な多国籍企業の特徴は第三次産業へ重心を移動させた企業であること。サービス・情報通信・商業金融など。市場経済のグローバル化は情報通信の世界化でもあったわけだが、それは先にインターネットを筆頭とする革新的技術開発なしには不可能だった。その点でこの種の技術開発は当分続いていくと見られていた。ところが速ければ速いぶん、この分野もあれよという間に飽和状態を呈している。今の世界で戦われている「情報戦」というのは「情報<技術開発>戦争」を基盤として初めて始めることができるわけなので仕方ないのかもしれない。
そして第三次産業の世界的台頭とともに第二次産業の衰退が目立ってきた。ロシア批判に踏み切った企業の中には世界三大自動車メーカー「テスラ(米)・フォルクスワーゲン(独)・トヨタ(日)」が含まれている。日本ではトヨタが過労や労災関連の裁判で有名なため陰湿なイメージにまみれ果てているが、何十年もかけて横行させてきた人権無視に等しい労働待遇について、イメージ回復にはまだまだ長い試練を乗り越える必要性があるだろう。しかしイメージ回復のためには実質的な労働環境改善が不可欠。さらに輪をかけて世界的ネット社会の実現によって自動車の必要性がそれほどなくなってきたという実にリアルな事情が横たわっている。その点ではテスラもフォルクスワーゲンも同様。
サービス業は様々な業種があるけれども、例えばコンビニ・スーパーは大都市では多過ぎ、地方の小規模市区町村では少な過ぎるのが現状。大都市中心の思考方法(昭和的な思考法)から早く脱却しなければならない。また「医療・福祉」はコストばかりを中心に考える限りサービス業として区別される現状は変わらないだろう。「医療・福祉」は「ケア・サポート」面で人間のアナログ的な動き(言葉遣い・身振り仕草・非機械的専門性)がその<質>を大きく左右する。その意味でしばしば議論される「<医療・福祉>はサービス業か?」との問いの中には<位置決定不可能性>という極めて今日的な問題性を見出すことができる。
さらに観光産業。エンターテイメント的な要素を多く含む場合と逆にエンターテイメント性をほとんど含まない場合との二極化が顕著である。いずれにしろ宿泊施設は必要。だがしかし例えば日本の京都のような地域では交通の便の有利な地域にホテルが乱立しており、逆に世界史的遺産であっても交通手段が不便なところは今なお不便なままといった露骨なコスト重視型資本が幅を利かせていて呆れる。とはいえマニアにとってはあまり有名になってほしくない素晴らしい「庭」などたくさんあるためこのままそっとしておいてほしいという意見があるのも十分うなずけるわけだが。
さて、マスコミが執拗に口にする「国際社会がどのような審判を下すのか」というフレーズだが、今回は無数の地域紛争のほとんどを無視してきたマスコミ諸機関を含めて「国際社会が国際社会自身を裁く」のである。ヘーゲルはいう。
「自己意識に対しては別の自己意識が在る。つまり自己意識は《自分の外》に出てきているのである。このことは二重の意味をもっている。《まず》自己意識は自己自身を失っている。というのは、自己意識は、自分が《他方の》もう一つの実在であることに気がつくからである。《次に》、そのため自己意識はその他者を廃棄している。というのは、自己意識は他者もまた実在であるとは見ないで、《他者》のうちに《自己自身》を見るからである。
自己意識はこの《自らの他在》を廃棄しなければならない。このことは最初の二重の意味を廃棄することであるから、それ自身第二の二重の意味である。《まず》、自己意識は《他方の》自立的な実在を廃棄することによって、《自分》が実在であることを確信することに、向って行かねばならない。そこで《次に、自己自身》を廃棄することになる。というのは、この他者は自己自身だからである。
このように、二重の意味の他在を二重の意味で廃棄することは、また、二重の意味で《自己自身》に帰ることである。というのは、《まず、自らの》他在を廃棄することによって、また自己と等しくなるゆえ、廃棄によって自己自身を取りかえすからである。だが『次に』、自己意識は他方の自己意識に自らを取りもどさせる。というのも、自己意識は自ら他方のうちにあったからである。つまり、他方のうちでのこの自らの存在を廃棄し、したがってまた他方を自由にしてやるからである。
だが、他方の自己意識と関係している自己意識のこの運動は、いま言ったように、《一方のものの行為》と考えられていた。とはいえ、一方のもののこの行為は、それ自身、《自己の行為》でありまた《他者の行為》であるという、二重の意味をもっている。なぜならば、他方もやはり独立であり、自分で完結しており、自己自身によらないであるようなものは、他方のなかには何もないからである。初めの自己意識は、さしあたり、欲求に対して在るにすぎないような対象を、相手にしているのではなく、それ自身で存在する独立な対象を相手にしているのである。それゆえ、初めの自己意識がこの対象にしかけることを、この対象が自分自身でもしかけない場合には、自己意識も自分ではその対象に対し何もしかけることはできない。だからこの動きは、端的に言って、両方の自己意識の二重の動きなのである。各々は、自分が行うことと同じことを、《他方》が行うのを見る。各々は、自分が他者に求めることを自分でやる。それゆえ、各々は、他者が同じことを行う限りでのみまた、自分の行うことを行う。起ってくるはずのことは、両方によってのみ起りうるのであるから、一方だけの行為は役に立たないであろう。
したがって、行為が二重の意味のものであるのは、《自分に対する》ものであり、また《他方に対する》ものでもあるという限りでだけのことではなく、分かたれることなく、一方の行為であるとともにまた他方の行為でもある限りでのことである。
この運動においてわれわれは、〔悟性において〕両力のたわむれとして現われた過程が、繰り返されるのを見るわけである。ただし、このここでのたわむれは意識のなかで行われる。前のたわむれの場合には、われわれにとって行われたことが、ここでは両方の極自身〔二つの自己意識〕にとって行われる。媒語〔中間〕は、両極に自ら分裂する自己意識である。各々の極は、その規定態を交換し、その対立極に絶対的に移行する。各々は、意識としてたしかに《自分の外に》出るのではあるが、その自己外存在にいながら、同時に自分にもどされたままである。つまり《自分だけで》ある。そして自らの自己外は《各々の極に対して》いる。各々はそのまま他方の意識《であり》また《ない》ということが、各々に対してある。同じように、この他方は、自分だけで〔対自的に〕あるものとしての自分を廃棄し、他者〔一方〕の自分だけでの有〔対自存在・自独存在〕においてのみ、自分だけでいることによって初めて、自分だけであるということが、各々に対してある。各々は他方にとり媒語であり、この媒語によって各々は自己を自己自身と媒介し、自己自身と結ばれる。各々は、自己にとっても他方にとっても、直接の〔無媒介の〕、自分で存在する実在であり、これは同時にこの媒介によってのみ、そのように自分だけで〔対自的で〕ある〔自分に対している〕。両方は、《互いに他方を認めて》いるものとして、互いに《認め》合っている。承認というこの純粋概念、自己意識をその統一において二重化するというこの純粋概念の過程が、自己意識にとりどういうふうに現われるかということが、ここで考察されねばならない。初めに、この過程は、両方が《等しくない》という側面を表わす、つまり、媒語が両極のなかに歩み出てくることを、両極は極としては対立しているが、一方はただ承認されるだけなのに、他方はただ承認するだけであるという形で、歩み出てくることを表わす。
自己意識は、まず、単一な自分だけの有であり、すべての《他者を自己の外》に排除することによって、自己自身と等しい。その本質と絶対的対象は自己意識にとり、《自我》である。自己意識はこの《直接態》において、言いかえれば、自分だけでの〔対自的な・自覚的な〕有という自らの《存在》において、《個別的なもの》である。自己意識に対して他者で在るものは、非本質的な対象として、否定的なものという性格をしるされた対象として存在する。しかし他方もまた自己意識である。一人の個人が一人の個人に対立して現われる。そういうふうに《そのままで》現われるが、互いの間では普通の対象のような態度をとっている。つまり、ともに《自立的な》形態であり、《生命という存在》に沈められたままの意識である。ーーーというのも、ここでは、存在する対象が自己を生命として規定したからである。ーーーそこで、これらの自立的形態、意識は、すべての直接的存在を絶滅するような、また自己自身に等しい意識という、否定的な存在であるにすぎないような、絶対的な抽象化の運動を、まだ《互いに対し》実現してはいない、言いかえれば、互いにまだ純粋な《自分だけでの有》〔対自存在〕としては、すなわち《自己》意識としては現われてはいない。各々は自己自身を確信してはいるが、他者を自分のものとして確信してはいない。それゆえ、自己についての自分自身の確信はまだ真理をもっていない。なぜならば、この真理というのは、自分自身の自分だけでの有〔対自存在〕が、自分にとり自立的な対象として、あるいは同じことであるが、対象が自己自身を純粋に確信するものとして現われる、というような真理にほかならないであろうからである。しかし、いま言ったことは、承認という概念から見て、不可能である。つまり他方が自分に対するように、自分も他方に対し、各人が自分の行為により、また他人の行為によって、自分自身で、自分だけでの有〔対自存在〕に対するというふうな、全くの抽象を敢行するのでなければ、不可能である。
だが、自己を自己意識という全くの抽象作用であると《のべる》ことが成り立つのは、自らを自己の対象的な姿の全き否定として示す点においてである。言いかえれば、いかなる一定の定在にも結びついていないこと、定在一般という一般的な個別性にも、生命にも結びついていないことを、示すことにおいてである。この叙述は、他方の行為と自己自身による行為という《二重の》行為である。だから、行為が《他方の》行為である限り、各人は他方の死を目指している。だがそこにまた、《自己自身による行為》という第二の行為もある。というのも、他人の死を目指すことは、自己の生命を賭けるということを含んでいるからである。そこで、二つの自己意識の関係は、生と死を賭ける戦いによって、自分自身と互いとの《真を確かめる》というふうに規定されている。ーーーつまり、両方は戦いにおもむかねばならない。なぜならば、ともに、《自分だけである》という自己自身の確信を、他者においてまた自分たち自身において、真理に高めねばならないからである。そこで自由を保証してもらうためには、生命を賭けねばならない。自己意識の本質は《在ること》でもなければ、現われる通りの《そのままの》姿でもなく、また生命のひろがりのなかに沈められていることでもなく、ーーーかえって自己意識には、自分にとって消え去らない契機であるようなものは、何も現にないということ、自己意識はただ《自分だけでの有》〔対自存在〕にすぎないということ、これらのことを保証してもらうためにだけ、生命を賭けるのである。敢えて生命を賭けなかった個人は、《人格》とは認められようけれども、自立的な自己意識として承認されているという真理に達してはいない。同じように、他者はもはや自分自身にほかならないと考えられるから、各人は、自分の生命を賭けるように、他者の死を目指さざるをえない。各人にとり自分の実在が他方の者として現われる。自分の実在は自分の外に在る。そこで各人は自らの自己外有を廃棄せざるをえない。他方の者は、さまざまに束縛された存在する意識である。各人は自分の他在を、純粋の自分だけでの有〔対自存在〕、つまり絶対的否定として直観しなければならない。
だがこのように死によって、真を確かめることは、そこから出てくるはずの真理をも、したがって自己自身の確信そのものをも、同じように廃棄してしまう。というのは、生命が意識の《自然的な》肯定であり、絶対な否定性のない自立性であるように、死は意識の《自然的な》否定であり、自立性のない否定であるからである。だからこの否定は、承認という求められた意味をもたないままである。死によって、両方が自らの生命を賭け、自分でも他者においても、生命を軽んじたという確信が生じているけれども、この確信は、この戦いに堪えた人々にとって生じたのではない。両方の自己意識は、この、自然的な定在である、見しらぬ本質態のうちに置かれた自分たちの意識を、廃棄する、つまり自らを廃棄する。そこで、自分だけで在ろうとする《極》としては廃棄されてしまう。だが、それとともに、対立した規定態の極に分裂する本質的な契機が、交替のたわむれから消えてしまう。そして媒語〔中間〕は死んだ統一のなかに崩壊してしまい、この統一は死んだ、ただ存在するだけの、対立していない極に分裂している。両方は意識によって互いに与えかえされ、受けかえされることなく、物として互いに無関心なままに放任し合っているだけである。両者の行為は抽象的な否定であって、廃棄されたものを《保存し》、《維持し》、その結果自らが廃棄されることに堪えて生きるような形で、《廃棄を行なう》意識の否定ではない。
以上のような経験において自己意識にとっては、純粋に自己意識と同様に生命も本質的なのだということが、この自己意識に明らかになる。直接的〔無媒介〕な自己意識においては、単一な自我が絶対的な対象である。だが、この対象はわれわれにとっては、言いかえれば、自体的には、絶対的な媒介であり、存立する自立性を本質的な契機としている。前に言った単一な統一が解体するのは、最初の経験の結果である。この解体によって、純粋の自己意識と、純粋に自分だけが有るのではなく、他方の自己意識に対して在るような意識とが、措定されている。この後の意識は、《存在する》意識もしくは《物態》という形での意識〔僕〕である。両方の契機はともに本質的である。ーーーつまり、両者は、初め等しくなく、対立しており、統一に反照〔省〕することもまだ起こっていないので、意識の二つの対立した形態として在る。一方は独立な意識であって、自分だけでの有〔対自存在〕を本質としており、他方は非独立的な意識であって、生命つまり他者のための存在を本質としている。前者は《主》であり、後者は《僕》である」(ヘーゲル「精神現象学・上・B-自己意識・四-自己意識の確信の真理・A-自己意識の自立性と非自立性 主と僕・P.219~227」平凡社ライブラリー 一九九七年)
どちらが本物か決めるためにわざわざ国家的暴力装置同士で争い合う。両陣営〔両極〕に対立し合う「言語・身振り仕草・映像・リズム等々」、すべてが戦争機械として無意識のうちに動員されている。これまでも動員されてきたように。さらにカフカ作品に描かれている今日的な<監視管理社会>のことを忘れてはならない。ロシアによるウクライナ侵攻もまた「マーケティング対象」である。その点で一つも変わりはない。しかしリゾーム型社会は唯一絶対的な本物を決定することが永遠に不可能な<位置決定不可能>な世界を作り上げた。また管理に伴うマーケティングに携わる業務の快楽に抵抗できるほど〔強靭なメンタル〕を持つ人々はほとんどいない。ドゥルーズはそれを「労働組合の無能」と併せて述べている。東京五輪でも北京五輪でもマスコミは盛んに「メンタル、メンタル」と連呼絶賛していた。慢性鬱病者の立場から言わせれば鬱病者や統合失調者は「人間でない」と耳元で連日怒鳴られているような沈鬱な時間をひたすら耐え抜くほかなかった。
好き好んで鬱病を患ったわけではないのだが。学生時代(一九八〇年代バブル期)、東京の日大は「学生運動のない大学」という言葉を売り文句にしていた。だが関西の大学生だった立場から見れば日大のキャッチ・フレーズは馬鹿馬鹿しいトリックに過ぎなかった。体育会系右翼暴力学生集団による全面的学園支配に覆い隠されていたため「学生運動のない大学」である<かのように>見えていたというだけでなく、日大の理事会や体育会に異議を訴えようとした学生が集まりだすと、それを見つけた体育会系右翼暴力学生たちにたちまち取り囲まれ、日本刀を振りかざされたり、木刀で滅多打ちにされ全身打撲にされたり、背後を取られて落とされたりした。一九八七年、関西の大学(京大・阪大・京都府医大・関関同立など)にも日大で巨大化した体育会系右翼暴力学生(「生長の家」系)が大きなビラを学舎に貼り出し始めたため、有志が集まり体育会系右翼暴力学生の関西進出を阻止したことがある。さらに「生長の家」系右翼暴力学生「反憲学連」だけでなく岸信介元首相時代に日本の大学に入り込ませた「統一教会」などは何かにつけて脅迫してくる。そのような経験を持っていると五輪中継を見ていても「メンタル」という言葉が連呼されるたびにマスコミもまた反社会的勢力の太鼓持ちなのかという憂鬱に襲われるほかない。
にもかかわらずマスコミ(特にNHK)は責任一つ感じていない様子である。マーケティングすればするほど世界はよりいっそうリゾーム化する。さらにドゥルーズの指摘通りテレビによる視聴者の「覗き魔化」も進行した。だがネットの普及に伴うテレビ離れはますます激しい。アルトーはアメリカもロシアも批判した上でこういう。
「私は強調する、その身体構造を作り直すため、と。人間は病んでいる、人間は誤って作られているからだ。決心して、彼を裸にし、彼を死ぬほどかゆがらせるあの極微動物を掻きむしってやらねばならぬ、
神、
そして神とともに
その器官ども。
私を監禁したいなら監禁するがいい、しかし器官ほどに無用なものはないのだ。
人間に器官なき身体を作ってやるなら、人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう」(アルトー「神の裁きと訣別するため」『神の裁きと訣別するため・P.44~45』河出文庫 二〇〇六年)
すべてが見えない鎖で繋がれてしまった<有機体としての世界>から逃走しろと。
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