Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

Blog21・Kと頭取代理との協同作業<「飾り縁」の「修復」>

<諸断片>発表以前の作品形式だけを見ればKは頭取代理と出世競争しているということになっている。一見するとなるほどそうには違いない。ところが<断章>の一つとして出てきた<頭取代理との戦い>で描かれているのは銀行内部の出世競争とはまるで関係のない頭取代理の不可解な行動である。Kの部屋に入ってきた頭取代理はKの事務机に施されている「飾り縁(ぶち)」に熱烈な関心を示す。そして取りかかった行為は「飾り縁」の「修復」である。なぜなら頭取代理はKと社会的地位を争いあっているわけではまるでなく、銀行にはKが愛する頭取がいるわけだが、そのもとで、二人は銀行内の官僚機構を実際の<兄弟>ででもあるかのように協力し合って「修復」するからである。

「頭取代理は最初ろくに聞いていないように見えた。Kの事務机の表面は木彫りの浅い飾り縁(ぶち)でかこまれていた。事務机全体が非常にすぐれた細工で、飾り縁もしっかりと木に嵌(は)めこまれていた。ところがちょうどそのどこかにゆるんだ箇所を見つけたのか、頭取代理は破損箇所を直すためしきりに人差指で飾り縁をはがそうとしていた。それを見てKは報告を中断しようとしたが、頭取代理は話は全部正確に聞きかつ理解していると言って、そうさせなかった。しかしKがさしあたり一つも具体的な意見を彼から引きだすことができないでいるうちに、飾り縁に特別な処置が必要になったらしく、頭取代理はポケットナイフをとりだすと、梃子(てこ)としてKの三角定規を使って飾り縁を持ちあげようとした」(カフカ「審判・頭取代理との戦い・P.351」新潮文庫 一九九二年)

文面に「Kの三角定規を使って」とあるように、読者から見れば明らかに<オイディプス三角形型家父長制>ではなく銀行組織の<官僚主義的三角形>を「Kの三角定規」=「Kが銀行内に持つ行員のまとまり」をも動員して修復強化しようととしているとしか考えようがない。頭取代理が「飾り縁」の「修復」に熱中しているあいだ、Kは自分の業務報告を行う。といってもKの業務報告は頭取代理にはなんの意味もない。Kは何一つしていないに等しい。ゆえになおさら頭取代理は修復作業に集中できる形が整うわけだ。Kもまた業務報告を行いながらまるで関係のないことを考えている。

「彼は自分の話に夢中になっていた、というよりむしろ、近頃(ちかごろ)はますます稀(まれ)になりつつある意識ーーー自分はこの銀行においてまだ何かを意味しているはずであり、いま自分の考えていることはそれを正当化するだけの力があるはずだ、という意識に非常なよろこびを感じていたのだ。ひょっとしたら自分を弁護するこのやり方は、たんに銀行においてばかりでなく訴訟においても最善のものかもしれなかった」(カフカ「審判・頭取代理との戦い・P.352」新潮文庫 一九九二年)

しかし修復作業はとても難しそうでもある。「とうとう頭取代理は立上らねばならなくなり、立ったまま両手の力でその飾り縁を机板に押しこもうとしはじめた」とある。

「頭取代理は、頭脳労働をする活潑(かっぱつ)な人によくありがちなことだが、この手仕事にすっかり夢中になってしまっていて、飾り縁の一部はいまたしかにひきあげられ、その小さな柱をどうやってまた元の穴に嵌めこむかという段階にさしかかっていた。これはいままでのどの段階よりもむずかしかった。とうとう頭取代理は立上らねばならなくなり、立ったまま両手の力でその飾り縁を机板に押しこもうとしはじめた。だがどんなに力をこめてもそれがうまくいきそうになかった」(カフカ「審判・頭取代理との戦い・P.352」新潮文庫 一九九二年)

その困難の上で頭取代理は「全体重をかけて飾り縁にのしかかった」。するとようやく「小さな柱はみなぎいと音を立てて穴にはまった」。ただ、「急いだあまり一箇所で柱の一つが折れ、その上の華奢(きゃしゃ)な桟(さん)がまっ二つになった」。Kの部屋は外から見えない。密室に等しい。「飾り縁」をはめ直す作業のみをめぐってなんとも大袈裟なエピソードが描かれているように思える。そしてこの場面はあまりにもエロティックでさえある。「縁」に関係がある。Kが逮捕された時、監視人たちはビュルストナーの部屋の壁に貼り付けたある様々な「写真」をじろじろ見ていじり回していた。

「『まあ、見て!』、と彼女は叫んだ、『わたしの写真が本当にごちゃごちゃにされてるわ。なんてことを。それじゃやっぱりだれかが不当にもわたしの部屋に入っていたのね』」(カフカ「審判・グルーバッハ夫人との対話・ついでフロイライン・ビュルストナーのこと・P.47」新潮文庫 一九九二年)

また裁判所の役人たちの「肖像画」は画家の手を通して異様に変形される。

「高い玉座のような椅子に坐っていて、椅子の金色が絵からきわだって見えた。ただその絵の奇妙なところは、この裁判官は落着きと威厳をもってそこに坐っているのではなくて、左腕は背と脇の凭れにしっかと押しつけているが、右腕はしかしまったく宙に浮き手先だけが脇凭れを摑(つか)んでいることで、それはまるで次の瞬間にもたぶん激昂(げきこう)して猛烈な勢いでとびあがり、なにか決定的なことを言うか、判決を下すかしようとしているかのようだった。被告はたぶん階段の足許(あしもと)にいるのだろうが、絵には黄色い絨緞をしいた階段の上の部分しか描かれていなかった」(カフカ「審判・叔父・レーニ・P.150」新潮文庫 一九九二年)

ラカンは欲望の「対象『a』」について「その周りを巡る縁」という言葉でこう述べている。

「いかなる欲動においても、欲動においては対象は無関係であるというようなことが言えるためには、欲動の対象をどのように考えればよいのでしょう。たとえば口唇欲動を取り上げるならば、問題は、食物でも、食物の記憶でも、食物の残響でも、母親の世話でもなく、乳房と呼ばれているなにものかである、ということは明らかです。この乳房は、同じ一連のものに属しているので、一見自然に出てくるように見えます。しかし、フロイトが欲動において対象は何の重要性もない、という指摘をするのは、おそらく乳房はその対象としての機能についてまったく考え直さなければならないからでしょう。乳房の対象としての機能、つまり私が対象『a』という概念で導入したような欲望の原因としての対象の機能における乳房、それに欲動の満足というべき機能を与えなくてはなりません。もっともうまい表現は次のようになるでしょう。『欲動はその周りを巡る』。他の対象についてもこの定式を当てはめることができるでしょう。フランス語では『tour』という語は英語の『turn』つまりその周りを巡る縁という意味と、『trick』つまり手品のトリックという意味がありますからこの定式は両義的に取ることができます」(ラカン精神分析の四基本概念・13・P.223」岩波書店 二〇〇〇年)

さて、ウクライナ関連。チェルノブイリ原発についてジジェクはいう。日本の原発にも当てはまる事情なので上げておこう。

「問題は、(パニックをあおる主張に反対する人たちのいうような)事実の不確実性にあるのではない。この問題に関するデータにもかかわらず、それが実際に起こる可能性をわれわれが信じられない、ということにあるからだ。窓の外をみてごらん、そこには依然として緑の葉と青い空がある、生活は続き、自然のリズムは狂っていないーーーというふうに。チェルノブイリ事故の恐ろしさはここにある。事故現場を訪れると、墓石がある以外、その土地は以前とまったく変わらないようにみえる。すべてを以前の状態のまま残して、人々の生活だけが現場から立ち去ってしまったようにみえる。それにもかかわらず、われわれは何かがとてつもなくおかしいということを意識している。変化は、目に見える現実のレベルにあるのではない。変化はもっと根本的なものであり、それは現実の肌理そのものに影響する。チェルノブイリの現場周辺に昔通り生活を営む農家がぽつんぽつんと数軒存在するのは、不思議ではない。そう、彼らは単に放射能に関するわけのわからない話を無視しているのである。この状況を通じてわれわれが直面するのは、きわめて根源的な形で現れた、現代の『選択社会』の袋小路である。通常の、強いられた選択の状況では、私は、正しい選択をするという条件のもとで自由に選択する。そのため私にできる唯一のことは、押し付けられたことを自由に遂行するようにふるまうという空疎な身振りである。しかし、ここではそれとは逆に、選択は実際に自由《であり》それゆえにいっそう苛立たしいものとして経験される。われわれは、われわれの生活に根本的に影響する問題について決断しなければならない立場につねに身を置きながら、認識の基盤となるものを欠いているのである。ーーー問題はむしろ、われわれが、情報に基づく選択を可能にするような知識を持たないまま選択することを強いられる、ということである」(ジジェク大義を忘れるな・第3部・9・P.680~681」青土社 二〇一〇年)

さらに日本のマスコミはアメリカの従属国待遇に置かれているため、大抵の評論家はプーチン大統領だけを一方的に非難することができる。しかしヨーロッパではそう簡単に非難できるものではまるでない。ましてや日本のお茶の間評論家たちは「国際社会が一致団結して」と連呼しているが、東西冷戦終結以後三十年以上にもなっているというのにそんなことは机上の空論以外の何ものをも意味していない。だからEU諸国の研究者たちから見れば、日本のお茶の間評論家たちは極めて無責任な連中にしか見えないといった批判を浴びる事態になっているのである。冷戦終結後三十年以上の間に特に経済面でヨーロッパとロシアとは切っても切り離しがたい相互互恵関係を築いてきた。その関係を今になって一挙に断ち切れと言われて実際にできることと言えば、実際のところ、どんな手段があるだろうか。フーコーはいう。

「権力の合理性とは、権力の局地的破廉恥といってもよいような、それが書き込まれる特定のレベルで縷々極めてあからさまなものとなる戦術の合理性であり、その戦術とは、互いに連鎖をなし、呼びあい、増大しあい、おのれの支えと条件とを他所に見出しつつ、最終的には全体的装置を描き出すところのものだ。そこでは、論理はなお完全に明晰であり、目標もはっきり読み取れるが、しかしそれにもかかわらず、それを構想した人物はいず、それを言葉に表わした者もほとんどいない、ということが生ずるのだ。無名でほとんど言葉を発しない大いなる戦略のもつ暗黙の性格であって、そのような戦略が多弁な戦術を調整するが、その『発明者』あるいは責任者は、縷々偽善的な性格を全く欠いているのだ。ーーー権力の関係は、無数の多様な抵抗点との関係においてしか存在し得ない。後者は、権力の関係において、勝負の相手の、標的の、支えの、捕獲のための突出部の役割を演じる。これらの抵抗点は、権力の網の目の中にはいたるところに現前している。権力に対して、偉大な《拒絶》の場が《一つ》ーーー反抗の魂、すべての反乱の中心、革命家の純粋な掟といったものーーーがあるわけではない。そうではなくて、《複数の》抵抗があって、それらすべてが特殊事件なのである。可能であり、必然的であるかと思えば、起こりそうもなく、自然発生的であり、統御を拒否し、孤独であるかと思えば共謀している、這って進むかと思えば暴力的、妥協不可能かと思えば、取引に素早い、利害に敏感かと思えば、自己犠牲的である。本質的に、抵抗は権力の関係の戦略的場においてしか存在し得ない。しかしそれは、抵抗が単なる反動力、窪んだ印にすぎず、本質的な支配に対して、常に受動的で、際限のない挫折へと定められた裏側を構成するのだ、ということを意味しはしない。抵抗は、幾つかの異質な原理に属するのではない。しかしそれにもかかわらず、必然的に失敗する囮(おとり)あるいは約束というのとは違う。それは権力の関係におけるもう一方の項であり、そこに排除不可能な相手として書き込まれている。それゆえ、抵抗のほうもまた、不規則な仕方で配分されている。抵抗の点、その節目、その中心は、時間と空間の中に、程度の差はあれ、強度をもって散らばらされており、時として、集団あるいは個人を決定的な形で調教し、身体のある部分、生のある瞬間、行動のある形に火をつけるのだ。重大な根底的断絶であり、大々的な二項対立的分割であろうか。縷々そうである。しかし、最も頻繁に出会うのは、可動的かつ過渡的な抵抗点であり、それは社会の内部に、移動する断層を作り出し、統一体を破壊し、再編成をうながし、個人そのものに溝を掘り、切り刻み、形を作り直し、個人の中に、その身体とその魂の内部に、それ以上は切りつめることのできない領域を定める。権力の関係の網の目が、機関と制度を貫く厚い織物を最終的に形成しつつ、しかも厳密にそれらの中に局限されることはないのと同じようにして、群をなす抵抗点の出現も社会的成層と個人的な単位とを貫通するのである」(フーコー「性の歴史1・知への意志・第四章・性的欲望の装置・P.122~124」新潮社 一九八六年)

ヘーゲルは遥か以前からこういっていた。

「《全体》はそれぞれの自立的な存立をもつところの反省した統一である。けれども、このような統一の存立は同様にまた、その統一によって反発される。全体は否定的統一として自己自身への否定的な関係である。そのために、この統一は自己を外化〔疎外〕する。則ち、その統一は自己の《存立》を自己の対立者である多様な直接性、則ち《部分》の中にもつ。《故に全体は部分から成立する》。従って全体は部分を欠いてはあり得ない。その意味で、全体は全体的な相関であり、自立的な全体性である。しかし、またまさに同一の理由で、全体は単に一個の相関者にすぎない。なぜなら、それを全体者たらしめるところのものは、むしろそれの《他者》、則ち部分だからである。つまり全体は、その存立を自己自身の中にもたず、却ってこれをその他者の中にもつのである。同様に、部分もまた全体的な相関である。部分は反省した自立性〔全体〕に《対立する》ところの直接的な自立性であって、全体の中に成立するのではなくて、向自的に〔単独に〕存在する。しかし、それは更にまた、この全体を自己の契機としてもっている。即ち全体が部分の関係を形成する。全体がなければ部分は存在しない」(ヘーゲル「大論理学・第二巻・第二篇・第三章・A全体と部分との相関・P.188」岩波書店 一九六〇年)

今やすでにロシアや中国も含めて始めて資本主義はパンデミック以前のように起動することができる状態になってしまっているのだ。

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