覚えている人々も少なくなってきた。有名な「9.11」よりずっと前、レバノンでこんな事件があった。
一九八三年四月十八日。アメリカ大使館爆破事件発生。
同十月二十三日。ベイルート・アメリカ海兵隊兵舎爆破事件発生。
同十一月四日。イスラエル国防省庁舎銃撃事件発生。
ヒズボラによるこの三つの攻撃でイスラエル側(アメリカ軍、フランス軍兵士含)の死者は約三八三人にのぼった。常に緊張感ただよう紛争地でアメリカ大使館そのものが思いもよらない軍事的打撃を受けたというだけでは済まない事情がある。というより実情をいうと、レバノン在住の外国人たちの気持ちの中にはパレスチナ紛争といっても「そもそもアメリカが何とかしてくれる」というこれといって根拠のない「信仰」が広まり定着していた。
もっとも、イスラエル建国以来の政治的事情は当たり前にあるとしても、当時はまだ散発的小競り合いが見られるのが日常茶飯事という程度だったため、さほど気にする人々はいなかった。ところが一九八三年のヒズボラの劇的進攻は現地でレストランや観光産業を営む多くの外国人たちの間にそうとう深い衝撃を与えずにはおかなかった。戦後三〇年以上に渡って「中東のパリ」と呼ばれ観光産業が経済の要であっただけに、この時期を境にレバノンから撤退する自営業者が続々と出てきた。
ちなみにアガサ・クリスティのミステリ作品では中東を舞台にしたものがたくさんある。
「オリエント急行殺人事件」(ハヤカワ文庫)
「メソポタミアの殺人」(ハヤカワ文庫)
「死との約束」(ハヤカワ文庫)
「白昼の悪魔」(ハヤカワ文庫)
注目したいのはポアロの顧客について。誰もが中東に別荘を持つような富豪ばかり。そのサロンはどれも戦前すでに華やかだった。
しかし問題は「中東のパリ」とは一体なにを意味する言葉だったのかである。それがわからなければ見えるものも見えてこない。ポアロの顧客の変化を通してイギリスと中東との政治的風土の違いがほんのわずかに垣間見えるかもしれない。
それはともかく「中東のパリ」というのは西欧列強が無理やりこじ開けた「オリエンタリズム」(興味本位の異国情緒、怖いもの見たさ)の匂いを激しく立ち込めさせるはなはだ政治的で誘導的なキャッチコピーの役割を果たしたといえる。