ポスト・トゥルースの時代にヘーゲル弁証法の価値を見直そうとする動きが出てくるのは当然だろう。ちなみに今なお世界三大難書のひとつに上げられるヘーゲル「精神現象学」。他の二冊はカント「純粋理性批判」、ハイデガー「存在と時間」。
とはいうものの実を言うと、どれも世界中でやかましく言われているほど難しくも何ともない。むしろ難しくしているのはいわゆる「超入門!ハイデガー『存在と時間』」、「1からわかる!目から鱗のヘーゲル『精神現象学』」、「この一冊!決定版カント『純粋理性批判』」といった入門書の類に消費者が群がる構造にある。
難解思想の暴風雨が吹き荒れたポストモダン全盛期の日本。まだ二〇代だった頃の浅田彰が言っていた。「早く読め!」。何をか。マルクス「資本論」を。
これにはれっきとした理由が幾つかある。いきなりヘーゲル「精神現象学」を手に取っても何一つわからないのは当たり前である。それよりヘーゲル「精神現象学」の中核をなすばかりでなくヘーゲルの他のどの著作(大論理学、精神哲学、歴史哲学講義など)を見てもまんま同じくステレオタイプのごとく取り出せる独特の弁証法のパターンを最も高度なレベルで用い、かおかつ最も身近な日常生活に欠かせない商品を論じた「資本論」の最初に出てくる「価値形態論」こそヘーゲル「精神現象学」、とりわけその弁証法を読者の側が自分のものにするための最短距離だという宣言にほかならなかったことに一体何人の読者が気づいていただろうか。
ヘーゲルより先にマルクス「資本論」の最初に出てくる商品の章のなかの「価値形態論」を何度か読む。余裕があれば二十五回くらいがいいだろう。わかってきたと思ったらヘーゲル「精神現象学」の「自己意識」の章をこれまた二十五回くらい読む。マルクス-ヘーゲル、ヘーゲル-マルクス、ちょっとした隙間時間を作ってはこれを何度も繰り返す癖を身に付けておくと他の難書と言われるカント「純粋理性批判」、ハイデガー「存在と時間」は何一つ怖くない。
なお途中の著作から失敗を犯した有名人に丸山眞男とマックス・ヴェーバーとを上げることができる。彼らは二人ともマルクスに憧れつつ大いにヘーゲル弁証法に取り組んだ。そこでヘーゲルが用いている単純なパターンをどの著作にもあてはめてしまった。丸山眞男なら明治近代以降の日本軍部の解剖はとても立派な仕上がりになっているわけだが、近代以前、江戸時代にまでヘーゲル弁証法を持ち込んで読解しようとした。ヘーゲル弁証法が通用するのはもちろんヘーゲルが実際に見たヨーロッパ資本主義勃興期の沸騰的運動状態においてである。そんな近代以後になって始めて有効性を発揮し得るヘーゲル弁証法を近代以前の近世江戸期の読解にまで持ち込んでもどこかおかしな理論に陥り失敗してしまうのは考えるまでもない。
マックス・ヴェーバーの場合は厳しすぎるキリスト教が逆に資本主義を結果的に謳歌するプロテスタントを産んだという逆説を弄することになった。とすれば資本主義が今や手に追えないグローバル新自由主義の世界支配という狂乱的事態を出現させることになれば逆にグローバル資本主義の世界支配の狂乱状態を厳格に取り締まり世界を安定多数へ転倒させる動きが大規模に出現してくるというのがヘーゲルに忠実な論理である。ところが今の世界はまったくそうはならない。ヘーゲル弁証法が妥当する事態と必ずしも妥当しない事態とを冷静沈着に区別する立場が必要なのはもはや言うまでもないだろう。
付け加えておくと、かなり入り組んだ社会的な諸問題の解決へ取り掛かるに当たって今なおラカン理論が有効な場合がありはする。しかしいきなりラカンを読んでも「これでわかった!ラカン入門」を読んでもいずれにしろめちゃめちゃわかりにくい。ラカンは基本的にヘーゲルの産物なのでありヘーゲル「精神現象学」に取り組まないことには始まらないし、フロイトを論じているのでフロイトを先に読むのがふつうに思えるわけだが実はそうではない。ヘーゲル「精神現象学」を通過してその後でフロイトの諸論文と対照させながら読んでいくのが最短距離である。
以上、ポストモダン辺りで今だにぐずぐずしていては天然資源に恵まれていない日本が頭脳を駆使してコンピュータだけでなくコンピュータ以上のものを発見しつつ生き残っていくためには、とにかくへんてこな流通出版業界の流れに読者が唯々諾々と付き従っているだけではもはや世界随一の劣等国家へあれよと転落してしまうのは目に見えているといえよう。