Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

Blog21・二代目タマ’s ライフ528

二〇二五年四月十日(木)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

タマね、昨日は「玉椿」(たまつばき)の歌の話になっちゃったんだけど、ふと気づけば「ぬば玉」の歌がどっか行っちゃってるって思い出した。

 

そうだな、「ぬば玉」忘れるところだった。これまたたくさんあるんで全部知ってるわけじゃないけどそもそも夜にかかる枕詞だって言ってただろ?

 

聞いたよ。ほかにもかかるわけ?

 

実は近代以前の日本の夜っていうのは意外かもしんないけど「黄泉の国」の「黄泉」(よみ)にもかかるんだよ。

 

えっ、それって死後の世界ってことなのかな。

 

ついこのあいだ大江健三郎同時代ゲーム」の読解を振り返ってたんだけどさ、柳田國男が再評価する形で平田篤胤から引っ張り出してきた「幽冥談」というのがあるんだ。そこでの大江の解釈はどうも「イザナキ」じゃなくて「イザナミ」が取り残された死後の世界のイメージにずいぶん近い。「村=国家=小宇宙の大悪臭」とか。急速な近代化の過程で失われた独特の死生学といっていいのかな。

 

ふ~ん。

 

まあそれはそれで少しずつ読み直していってるんだけど、タマがいま言った「ぬば玉」がほぼ確実に死後の「黄泉」(よみ)にかかってるとおもわれる歌がある。古代日本の精神構造ってのがどうなってたのか一緒に研究しようとしてた門人に先立たれて動揺を隠せないという内容の歌だね。

 

「わが道もさそはん人をぬば玉のよみにおくりてまどふころなか/賀茂真淵」(「近世和歌集」『日本古典文学体系 近世和歌集・P.95』岩波書店 一九六六年)

 

なんだか深そうだね。古代日本の精神構造って言われても猫としてはピンとこないや。

 

そりゃ大昔の天皇制の成立以前にまで遡っていく研究だからタブーを気にしてたらとても出来るこっちゃないよ。でも大江はいろんな手法を駆使してやってみせた。飼い主の学生時代には文庫本になっててね、ああでもないこうでもないと議論も盛んなだけでなく実にオープンだったのさ。

 

そんな時代があったんだ。

 

あった。今は天皇制に限らずマス-コミからしてあれこれ避けて通ってるわけでね、それじゃあ日本文学も衰退していくわけだよ。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。エリオット・ギャルヴィン。何をやっているのか何がしたいのか。よくわからない音楽が世の中には溢れかえっている。ところがやっている本人たちは意外なところで知り合いどおしということがこれまた多い。音楽学校というのは世界中にたくさんあってそこで知り合り意気投合してセッションを二、三度やったことはあるというケースを数えるとおそらく無数にある。たぶんリスナーの側に情報が行き渡っておらず結果的にあまりに知らなさ過ぎるという現象を引き起こしているのかもしれない。UKのジャズシーンでは以前から名前を知られていたエリオット・ギャルヴィンだが今作の紹介を見たときはまだ二月頃でYou Tubeでも二曲しか検索できずにいたがようやくアルバム全曲が聴けるようになったようだ。で、二曲しか聴けなかった時点でとっさに脳裏をかすめたのはデビューしてすぐ一体何がしたいのかさっぱりわからんと一般リスナーからほとんど顧みられなかったセロニアス・モンクの横顔。モンクの音楽はジャズということになっているが今なお抵抗感なしに聴くことができないリスナーは数多い。ところがモンク登場と同時にその可能性にいち早く気づき「ラウンド・アバウト・ミッドナイト」という楽曲へ変奏して引っ張り出したジャズ・ジャイアンツのひとりがマイルス・デイヴィスだったということは誰もが知っている。だから決してわかりやすい音楽ではなく、ジャズ黄金時代ではさらにない昨今、むしろ暗く重いとさえ感じるリスナーがいることも承知の上でエリオット・ギャルヴィンがなぜこの音を選んだのか。考えたい。