Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

Blog21・退院後リハビリ創作(1998~1999.長岡京市在住時代)

落ちない肌(35)

 

北小路ミーティングへ病院から電話連絡があり今日の午後の女性ミーティングへ参加者三名をお願いしたいという。ひとりはすだち、もうひとりはすだちと相部屋の女性、当事者はそのふたりだけだが付き添いで看護師の初瀬が同行すると。

 

やっとすだちが戻ってきてくれる。そう安堵する一方、亜美は病院主催の学習会でまた新しい課題を提出されたばかり。どんな課題か。

 

専門病院への入院はよほどの特例でない限り原則三回とされている。そうでないと飲んでは入院し体の調子が回復するとまた飲んでは入院するという悪循環が死ぬまで続いていくからだ。この種の入退院の繰り返しはあっという間に癖になってしまい病院依存というさらなる依存症と重なってしまう。

 

だったら自助グループは違うのかといえばそんなことはない。まともな病院では相手にされなくなる患者はごろごろいる。それでもせめて自助グループへ行けば救われる形になってはいる。そのことがかえって患者にとってよくない事態を招いてしまうケースがたまに発生する。

 

専門病院への入院が受け入れられない場合、患者は何を考えるか。一度入れば二度と生きて出られないような終身監獄みたいな強制施設へ放り込まれることは嫌がる。わざと犯罪を犯して刑務所へ入る人間ならしばしば見かけるけれどもそれはそもそも体力に恵まれていて所内の厳しいスケジュールをこなしているほうが専門病院での対人関係再構築プログラムやミーティング参加より楽ちんだと思える人に限って見られる傾向で一般的とは言えない。そこで患者はどうするかというと酒浸り薬漬けになっても一度内科へかかり体の治療だけを済ませて自助グループへ入る。

 

自助グループでは基本的に来るものは拒まない。去るものを無理に追わない。すると患者は個人差はあるものの一、二年に一度くらいの頻度で酒浸り薬漬けになった後また内科治療を通して自助グループへやって来るパターンを延々繰り返すようになる。ということは自助グループのあり方そのものが本末転倒を起こし患者にとって都合のいい依存対象になってしまう。自助グループであればいつでも門戸を開いているということ自体がかえって患者との間で共依存関係を作る装置として機能する。自助グループさえあればいつでも救われるという環境が患者の頭にある限りこれまた死ぬまで同じことを繰り返すばかりだろう。

 

かといっていっそのこと自助グループを閉鎖してしまえばいいのか。それでは救われる患者も救われなくなってしまう。救われたい助け合おうと真面目に考えている患者がまだまだ大勢いるなかで自助グループ、あるいは性被害者や家庭内暴力被害者のためのシェルター的存在をまったくなくしてしまうことはできない。そしてそこでは患者の回復レベルに応じて身体的にも精神的にもでき得る限り安心安全な環境が保障されなくてはいけないだろうと思う。そうでなければ孤立無縁で劣悪な生活環境へ意図せず追い込まれた人たちの生の声を聴き届け仲間として受け入れ生活改善へ繋げていくことなどとてもできない。

 

そこで今検討されているのが必要に応じてということなのだがその具体的なプランというのがなかなか見えてこない。もっとも、わかりやすい例ならこれまで幾つか検討され実施されてきたし部分的にはここでも実現している。例えば女性限定ミーティングがそうだ。

 

異性の前では話しにくい事情をわざわざ話す必要はない。しかし誰にもなんにも言えないままたったひとりでストレスやトラウマを抱え持ったまま生きていくのはあまりにつら過ぎるし重すぎることが多く、そんなケースの受け皿としてジェンダーに寄り添う形で成立したのが女性限定というスタイルだ。それが思いのほか人気で入院中のすだちを含めキャメや患者家族の葵など毎回顔を出してくれる。夜しか時間の取れないコロや美佳のことは気がかりだが亜美は亜美にできることしかできない。しかしできることなら自分の限界を越えてしまわない範囲で取り組む。そのあたりの加減はこの四年間で身に付いてきたように思う。

 

さて、すだち一行。病院前でバスに乗り北小路ターミナルまでは十五分もかからない。途中でターミナル一階の飲食街に立ち寄ってもいいくらいだが入院中のミーティング参加では男性患者の場合でもそれはできない。直行直帰。

 

特に女性の場合喫茶店でもアクセサリー等小物の店でも立ち寄るとたちまち男が馴れ馴れしく声をかけてくる。お金がほしいなら体買うよ?と。体を買われるのは嫌だし馴れ馴れしさに苛立ちもするのだが苛立ちや腹立たしさという感情はどういうわけか飲酒欲求へ結びつきやすい。それがわかっているからこそ男はわざわざ手の込んだちょっかいを掛けてくるのであり、そんな軽々しい男の挑発に乗ってはいけない。

 

しかし同時に頭を掠める。お金が手に入ると酒を手に入れることができると。一度そこへ頭が動いてしまえばとりわけたったひとりかふたりでいる時は湧き出てくる飲酒欲求から気持ちを逸らして切り換えることは大変むずかしい。そんな場面になってしまうことを警戒して看護師の初瀬がさりげなく付き添う。

 

たとえ途中でどこかの店へ入らなくても女性が道を歩いているというだけで判で押したように付きまとう男は昼間からうじゃうじゃいる。初瀬はどうするか。まともに相手をしない。素知らぬふりで無頓着を装えばいい。

 

天気の話はどうか。

 

「すだちさん、テレビ見てたみたいだけど午後から雨降るって言ってた?」

 

ではいけない。

 

「それなら知ってるよ」

 

とこれまた軽薄な男の声が割り込んでくる。そうではなく、

 

「午後から雨だし急ごう」

 

とわき目をふらせないのが大事だ。実際の天気予報がどうであれ。あるいは、

 

「アーサー・ヘンリー・デイヴィッド・スクレパーの脱植民地宣言行さ、まだ読んでる途中なんだけどお」

 

と世界中どこを探してもありもしないホラ話を急遽でっち上げてその場をやりすごす。さらにしつこそうな相手の場合、

 

アラファトがブッシュ殺すとか逆にブッシュがアラファト殺すとか言ってるらしいんだけど写真に映ってるのはなぜかクリントンなんだよねえ」

 

とか。

 

しかし難しいのは思わず「失礼ですよ」と返す態度。どれほど正しい反論であっても相手によりけりで過剰に刺激してしまっては危険な場合が発生する。「なんだとこら。人数呼ぶぞ、おい」となれば走って逃げるほかない。

Blog21・二代目タマ’s ライフ652

二〇二五年八月十三日(水)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

 

タマね、今日も飼い主の九〇年代ノートレポート見たよ。優等生に多い治療のむずかしさってどこへ行ってもあるんだね。

 

依存症治療では過去の成功体験が治療の妨げになることが随分多い。特に人を動かす立場にいた患者はね。病気を患っていなくても思春期とか早い時期に生徒会長とか活活動でも部長経験があると成人後に職場の対人関係で何かと問題を起こすことが多いよね。コミュニケーションの取り方が始めから転倒してる。いくら仕事が人並み以上にできてもセクハラとかパワハラとか当たり前に起こす人。自分にはそうする権利があると思い込んでるケース。

 

アルコールや薬物病棟でもそう簡単に自分の思い通りに動いてくれない患者さんがいてて当然だと思うんだけど。癖が強い人だっているわけでしょ?

 

そんな時は脅迫行為で動かそうとする。主治医や看護師の前では優等生を演じ続けるんだけど患者の間では通用しない。それでは退院しても同じ失敗を繰り返すばかりで結構はやばやと再入院ってよくある。患者は病気治療に来てるわけで優等生探しに来てるわけじゃない。その前提が見えてない。自分は他の患者にとってなくてはならない優秀な人材だと勘違いして疑ってない。

 

でももし他の患者から暴言や差別的侮辱を受けたりしたら怒るんじゃないの?

 

怒るよ。けど怒ったら怒ったでもっと他に解決の方法ってたくさんある。アルコール患者の中には生まれた時から酷い差別を受けて育ってきた人々が幾らでもいる。被差別部落出身者、在日韓国朝鮮人身体障害者家庭内暴力被害者など、そういう人は少なくないから医療スタッフも心得てる。患者の中にも理解者は結構いる。でもなぜか元生徒会長、元PTA会長、元町内会長経験者とかになると、何がなんでも自分の言いなりにさせなくては気が収まらないって患者がときどき入院してきて他の患者を暴力支配しようという傾向が強い。まるっきり恐怖政治なんだけど本人はそれで良いことをやってるとしか考え及ばないから気にいらない患者がいたりするとちょっと考えられないようなねちっこい恫喝行為を繰り返すようになる。入院中の病棟で。

 

病院の外でもよくありそうな話だなあ。

 

本人は決して嘘をついてるわけじゅないんだ。ただ自分の不利になりそうなことは主治医にも看護師にもケースワーカーにもひと言も言わない。けど病棟内の患者仲間に対する人使いがどこかおかしい。患者は朝から晩まで同じ部屋で共同生活してるからすぐわかるよね。あの人ねちっこ過ぎる、患者同士なのに説教臭すぎる、気に入らない患者がいれば脅しつける、一緒に頑張ろうと声はかけてくるけど医者や看護師の見てないところではまるで小学生レベルの凶悪ないじめっ子みたいだと。

 

それで一一〇番した患者いたの?

 

いた。警察沙汰になった。でも病院スタッフの対応が早かったから誰一人逮捕されたりせずに済んだ。飼い主はたまたまね、脅迫行為やった患者が自宅待機中にその患者が退院後所属する予定になってる支部のミーティングに行ったんだ。そこでその話を聞かされてね、ああ、そこまでやったか、そりゃ自宅待機になるなあと思った。その患者が被差別部落出身者、在日韓国朝鮮人身体障害者家庭内暴力なんかの被害当事者かどうかはわからないんだけどもしかしたら入院中に暴言浴びせかけられて怒ったのかも知れないとは思ったんだ、最初は。ほんとのところは知らないよ。本人は言わないし言いたくなければ言う必要もないし。けど、たとえそうだとしてもね、飼い主にすれば学生時代から大阪、京都、兵庫を中心に社会的弱者支援に取り組んできてて右翼暴力集団とかカルト団体から散々脅迫受けてきてるわけ。だからそんな時の対応もひと通りは知ってるつもり。けどさ、左右いずれにしても自分の言うことを聞かないからって医療機関の中で治療中の患者に向かって「おれの言うことが聞けないなら夜中の寝てるうちにベッドに火をつけてやる」なんてひと言でも言っちゃいけない。他の患者やその家族にしたらもっと酷い、言葉で言い尽くせない過酷な差別受けてきた人って星の数ほどもいてるってのになんで自分だけはそんな偉そうに振る舞っていいと思い込んでいられるのか。それはもう情状酌量の余地なんてない。もっとも他に治療困難な疾患を同時多発してるってんなら話は違ってくると思うんだけど、その場合でも入院が必要なほど重篤な患者なら逆に怖がって他人を脅迫したりしない。おとなしいもんだ。陰湿なのはアルコール・薬物が抜けてシラフに戻ると過去の成功体験が通用しない場合に陰湿な暴力支配へ逆転して表面化する患者。今でも時折はいるかもしれないね。

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落ちない肌(34)

 

入院中の女性アルコール依存症者の単独での夜間外出は原則不可。身内の葬儀出席でさえ男性患者なら外出は一泊に限るとはいえ許可されるわけだが女性の場合は一泊すら許されずなおかつ医療スタッフの付き添いが必要。

 

厳格過ぎるかもしれない。しかしそれは女性を取り巻く社会的因習を原因とする陰湿この上ない数々の罠を回避するための配慮であり医療スタッフ間では共有されているものの患者が一歩外に出れば悪意はいつもすぐそこにある。さらに悪意の側に加担しているということに気づいていない市民ならもうそこらじゅうに溢れかえっている。

 

粘り強い取り組みが必要だと言われる。日本社会の構造的な諸問題だけでなく市民レベルでどこまで理解が得られるかという気の遠くなるような課題と向き合っていかねばならないことに対してともすれば医療スタッフの中でも気持ちが折れそうになる人間がしばしば出てくる事態とも関連する。しかし市民レベルでどこまで理解が得られるかという課題について気が遠くなりそうに感じ取ることができるというのはとりもなおさず問題の根深さに気づいている証拠であり否定的に考える必要はまるでない。

 

入院中のすだちの希望を汲み取る形での決定。昼のミーティングに限り、また三人以上のグループで参加できるのなら推奨するという判断。三人以上でのグループ行動が取れない場合、例えば当事者ふたりしかミーティング参加希望者が集まらない日は最低ひとりの医療スタッフの付き添いを必要としその条件を満たす限りで参加が許される。

 

男性患者と比較すればあまりにも違いすぎる行動制限。看護師のチャや初瀬は病院の外が女性にとってどれほどどろどろした暗澹たる世界なのかつくづく思い知らされる。女性患者の目の前には殺伐とした光景が広がっているか、さもなければどこまで行っても色褪せた廃墟ばかり打ち続いているとしか思えないのかもしれない。

 

すだちのミーティング参加条件を知らされて二、三日後。

 

出勤したばかりの詰所がどこか慌ただしい。チャはなんだろうと話に加わると元生徒会長とか脅迫とかライターとかいう言葉が飛び交っている。チャの顔を見た初瀬が寄って来て説明してくれる。

 

「元生徒会長、高校生の時に生徒会長やってたことであだ名でそう呼ばれてる患者さん。二号室の」

 

「何かしたの?されたの?」

 

「した。安芸の病院からここ紹介されてはるばるやって来た三号室の若い男子に」

 

「何したって?」

 

「夜中だったらしい。元生徒会長とその取り巻きが若男子の部屋に入ってきてライターをちかちかさせながら何でおれの言うこと聞けないんだ、布団に火を付けられてもいいのかって迫ったみたい」

 

「それで?」

 

「詰所は夜中もずっと開いてんだけど、詰所の人間通さないで手前の公衆電話から一一〇番した。病院で脅されたって」

 

「警察来たの?」

 

「来た。来たんだけど今日は高木先生が朝から出勤なんで警察対応はやってくれて、問題はこちらで処理できるんで引き取ってもらったって。で今は元生徒会長と若男子のふたりを同じ病棟に置いとくなんてできるわけないから、ふたりとも気持ちが落ち着くまでどちらか一方を自宅待機させると」

 

「自宅待機って、若男子、安芸の病院まで送り返すわけにいかないじゃん。何百キロもある。途中でどっか行っちゃう。そもそもこちらで責任持って預かるって話だし」

 

「元生徒会長なら自宅は市内。ついさっき男性看護師が車で家へ送ってったばかり」

 

「他の患者さん変に動揺してないかな。院内ミーティング明後日だけど。警察来たとこ見た人いるでしょ」

 

「それね、警察は直接病棟に入ってないんだ。本館の受付で止めてもらえてたんで。でも脅迫騒ぎ自体は目の前で見てる患者さん何人かいてる。若男子と同じ三号室の人ら。かなりびびってる」

 

すっと声を落として初瀬はチャの耳元でいう。

 

「びびってる患者さんに聞いたんだけど。まあ病棟のまとめ役としてはちょっとねちっこい嫌味な感じは持ってたようだ。でもまさかあそこまでやるとはって」

 

「元生徒会長、ライターちかちかやって見せたってほんとなの?」

 

「ほんと。点けたり消したりしながら若男子の顔まで近づけたみたい」

 

元生徒会長、元PTA会長、元町内会長経験者などでしばしば顕著に見られる傾向。いつも周囲から顔を立てられていないと我慢できない。なかなか言うことを聞かない人間がそばにいるといらいらしてくる。いらいらが昂じると主治医や看護師に相談せず一部の仲間と騙り合って脅迫行為も辞さない。もし暴言を吐かれたり差別的侮辱を受けて耐えられないという話ならそれを主治医なり看護師なりに伝えればいい。たとえ上手く伝わらなかったとしても、だからといって、夜中の脅迫行為へ至るまでは距離があるように思えなくはない。

 

元優等生に多い傾向だがすべての優等生がそうだというわけでは無論なく、大人になると世の中そこまで簡単に動くわけがないと通例なら身に付いてくる。それがアルコール・薬物依存の場合、シラフで身につける機会を失った状態がつづき感覚が子どものまま温存されてしまい、対人関係におけるコミュニケーションの取り方がいつまで経ってもあまりに幼いというケースがまま見られる。

 

チャは思う。明後日の院内ミーティングはできる限り落ち着いた空気を取り戻して進行させないといけない。一日置けばそれなりに収まるはずだ。他の患者は他の患者で自分自身が抱えている混み入った事情があるため人のことにばかりかまっていられない。

 

その通り、他の患者は他人のことより自分のことで精一杯な事情を幾つも抱え持っているわけでいつまでも野次馬めいた態度を取っている暇はない。一日のあいだでそれぞれ体を休めたり考えたりしないといけないことがたくさんある。さらに院内作業や学習会も入っており他の患者同士のいがみ合いにそうそう付き合ってもいられない。

 

チャや初瀬が思っていた以上に明後日の院内ミーティングは滞りなく終わった。正直ほっとする。外来診察日でもありその後でキロと上村のコンビも顔を出した。

 

「チャさん、聞きましたよ。昨日たまたま行ったミーティングで元生徒会長だっけ?来て話してました。自宅待機中なんだって」

 

「話してました?キロさん聴いてきたのかな」

 

「先生に言われたらしいですね。君はわるくないって。そりゃ言えませんよね。お前がわるいなんて言っちゃったら頭にきてすぐ飲むのわかりきってる。頭にこなくても飲む口実をわざわざ手渡すようなもんでしょ。それよりシラフの頭で、なんでそういう手段に出てしまったのか、考えさせる猶予を与えたんじゃないかな。本人にしても内心ではなぜこういう手段使ってしまったのかって悔しさがあるだろうし。自宅待機ってのも元生徒会長がいたら他の患者がびびっちゃって遠慮してせっかくのミーティングや学習会での発言が萎縮し始めたりしたら無意味になる」

 

「ミーティングの雰囲気どうでした?他の参加者さんたち気にしてたかな」

 

「たったひと晩のうちにもう話は広がってたみたいですよ。知らない人いなかった。気にするしない以前」

 

「以前というのは―」

 

「スキャンダルなら何でも飛びついて騒ぎ立てる人ってわんさといるから。けど、患者にしろ患者家族にしろお互い助け合っていこうという人ならどのミーティングでも少なからずいるわけで、会場の雰囲気はいいともよくないともどちらとも言いがたい」

 

「―本人さんどんな感じだったかな。落ち込んだりとかは」

 

「落ち込む落ち込まないじゃないなあ、多分。チャさんは病棟で見ててどんなふうに思ってるかわからないんだけど。ひと言ひと言、ひと区切りひと区切り、話すたびにいちいち周囲の同意を取り付けながらしゃべるタイプ。元生徒会長ってあだ名付いたのはわかる。よく言えば優等生、別の言葉使えば巧妙」

 

「んん~」

 

「病気治療の現場であんなことやったら特段の理由がない限り行くとこなくなりますよ。元暴力団員でも頭にきたからってそこまでやらない。警察が受付で止まったのもこれまでの病院と退院後の患者の実績の積み重ね、開放病棟始まって二〇年以上になるのかな、それがあるからでしょう。長く実績あると、あんまり複雑な話に足踏み込みたくないってのもあるかもしれないですね。ちょっと話変わるんだけど、本人、ぼくと同学年だって昨日始めて聞いた」

 

シンクの横で点滴ボトルを整理しながら背中で聞いていた初瀬が答える。

 

「言ってた?」

 

「言ってた。けど話しがちょっと違うというか。タイミング見計らってどんな話持ちかけてくるかわからないところあるかも」

 

「どんな話って?」

 

「それがわからないんだよね。最初はひとあたりがいい。最後もまあまあ。しかしその間にほんのちょっとばかり何が言いたいのか唖然とするようなことを口にする。アルコールの他に何か疾患持ってるのか、それともわざとなのか、測り難い」

 

「―」

 

「これ以上ぼくにはわかんないですね。この件は」

Blog21・二代目タマ’s ライフ651

二〇二五年八月十二日(火)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

 

タマね、今日も飼い主の九〇年代ノートレポート見たよ。作業療法って最近になって時々耳にするようになったんだけど、例えば作業療法作業療法士のことをOTって呼ぶんでしょ?けど九〇年代すでに病院の文化祭に繋がってる作業もいろいろあるんだ。

 

あるよ。中でも茶道はアルコールの女性病棟では人気の作業だった。茶道経験者が多かったから。でも茶道だけが万能ってことはなくて他にもいろいろある。茶道でいえば比較的若い頃に手に入れた茶道具を質に入れてお酒に代えて飲んじゃうとかになるとそれはもう病気だから解毒して入院治療に入るしかなくなってくる。お茶はお茶でも喫茶室の運営・接客もあってさ、そっちのほうが得意って人は喫茶室希望すればいい。ほとんど崩壊してしまった生活リズムを整え直す、新しい生活スタイルを身に付ける、対人関係を見直して再構築するというところに主眼があるわけでね。そもそも規則的な生活リズムが身に付く前の中学時代とか高校時代から親兄弟姉妹の面倒を見ないといけないような生育環境で育ってきた今でいうヤングケアラーもいるし、そこらへんは臨機応変に柔軟な対応が認められてた。だから作業も多種多様。音楽できる人は音楽だし。

 

違いってあるの?

 

向き不向きはあるけど基本的に作業自体には形の違いしかない。朗読にしても絵画にしてもレクレーションのソフトボールにしても。重視されるのは作業形態の違いじゃなくてさ、違いっていうのは、例えば絵画なら病気になる前は自分が絵画やるだけで無意識にでもそこに何らかの価値を感じられてたから無意識でいられたわけだけど、この病気になるともはやどんなことをやってもどんな仕事でも自分のやってる作業にひとつも価値を感じられない、なんの意味も見出せないとなってるってところ。価値ある作業に従事してるという気持ちを取り戻すことができないままだと、退院しても自分が生きてること自体が無価値に思えてくる。その切り換えには結構時間がかかるし依存症だと酒にしても薬物にしてもギャンブルにしても死ぬまで抱えていくほかない病気だから作業やっとくことでその後の暮らしぶりを少しでも変えていけるちょっとしたきっかけ作りにはなる。仕事依存の人もいるから作業中に適切適度に休養を取ることができるかってところも大事。

 

落ち葉の掃除が園芸に繋がってるって言われてみて始めて腑に落ちた。

 

飼い主ね、入院中に落ち葉拾いやったことあるよ。職員用ガレージの奥はもう山の中でガレージへ続く道路の両脇も林になってるから落ち葉ならいくらでも拾えて竹箒で集める。今日の連載に出てるように業務用の四十五リットルの青色のポリ袋へ十個くらい腐葉土を満載するんだ。それを病院内の植え込みの土にしてもらって季節の花を育てるって流れだったかな。

 

すだちは昼ミーティングなんだね。

 

そのへんは入院する専門病院によって決まりが異なってくるんだけど女性の外出は結構厳しい。外に出ると当事者がお金持ってなくても声かけてくる男がいるでしょ。お金ほしいなら体買うよ?って軽々しく声かけてくる。そういう男は今でもいる。今日の連載でちょっとだけ出てきたんだけど看護師の初瀬が付き添いを名乗り出て目を光らせてんのは女性患者がともすればその種のトラブルに巻き込まれて失敗しないための社会問題的な見地から。さらに性的トラブルだけじゃなくて何だかふらふらした感じの女性のひとり歩きを見つけるとカルト信者が声かけてくる。まだまだつらい思いでいっぱいの女性だと言葉巧みなカルトへずるずる引き込まれてわざわざパンフレット買ってしまったりしやすい。ミーティングへ出かけるはずの交通費をそこで使っちゃったら本末転倒でしょ。それも女性差別的な社会構造がずっと温存されてきたことに問題があるわけで、初瀬みたいなタイプの医療スタッフの付き添いは女性のプライバシー保護の観点からも重要。

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Blog21・退院後リハビリ創作(1998~1999.長岡京市在住時代)

落ちない肌(33)

 

面会へ行った翌週。すだちのミーティング回りについて亜美は病院から連絡を受けた。

 

院内での生活態度が良好な点とすだち本人が強く希望している点、さらに重要なことだが院内プログラムを順調にこなしている点などを総合的に考慮して条件付きでミーティング参加許可が得られたとのこと。看護師のチャが電話で伝えてくれた。

 

昼のミーティングに限り、また三人以上のグループで参加できるのなら推奨すると判断されたようだ。原則的に女性アルコール患者の夜間外出はとても危険なため安全確保に難点があり単独での外出は許可されない。薬物もそうだがアルコール症というのは一滴でも酒が入ればたちまち連続飲酒状態へ舞い戻ってしまうのであり、女性では医療スタッフの同伴なしにもし単独で夜間外出した場合、ただ単なる再飲酒というばかりか取り返しのつかないような性犯罪に巻き込まれてしまう可能性が男性患者よりはるかに高い。

 

さらに男性と違って日本独特の男尊女卑的な風潮やレッテル貼りゆえ自分で自分を責める自罰感情が強い。退院後も周囲の理解が得られず夜間の単独行動が自殺へ繋がるケースは後を絶たない。

 

チャの電話があった翌日、亜美は面会へ出かけた。ようやく真夏日を越したようで夜はエアコンを消して眠れるようになってきた。それでも昼間はまだ暑い日が続いている。

 

「話聞いて来たんだけど。すだちも聞いた?」

 

「うん、聞いた。昼のミーティングなら顔出してもいいんだって。出る時は三人以上でって言われてる」

 

「夜はだめなのかあ。まだまだ怖い世の中なんだ」

 

「まあでもね、相部屋の女の人も一緒だし、それでふたりでしょ?あと話を聴いてもらえるところがあればミーティング行きたいって人は結構いるみたいだ。男の人がいると話しにくいことでも女性限定ミーティングなら言わせてほしいって感じかな」

 

「それ多いよね。めちゃめちゃ多い。男だけで成り立ってる世界じゃ決してないって見たらわかるでしょって思うもんね。看護師の初瀬さんも何かのついでみたいにそんなことちょろっと言ってたような。あまり覚えてないけど」

 

「初瀬さんで思い出した。出席希望者が三人以上集まらなくてふたりの時は医療スタッフの付き添いがあればミーティングに出れるんだって。初瀬さんが付いてきてくれるって言ってる。なんでかな」

 

「初瀬さんは看護師であたしたちは患者だって立場の違いはあるんだけど初瀬さん、結構厳しいとこある。男の人見てるとき」

 

「ああ、あるかな。態度には出さないけど空気でわかるよね。でもなんでかな」

 

「あたしも詳しくは知らない。こちらからわざわざ訊くことじゃないだろうし。でも家庭内暴力とか女性特有のつらい話になるとひと際耳澄ましてるのはわかる」

 

「それでかなあ。人数集まらない時はわざわざ付き添ってくれるって。単なるお目付け役ってだけじゃないみたいだ」

 

「それはそうとお抹茶、美味しく頂けそうかな?」

 

「習ってると楽しいなあって思う。あたしとしては人生初。お茶点てさせてもらえるんだよ。それにね、初回の入院の時は文化祭の時期じゃなかったからわかんなかったんだけど、女性のアルコール病棟って若い頃にお茶習ってたって人が結構いるの。亜美は知ってるかもだけど。お茶碗手に取ってなんとか焼ってわかるんだね。好みの茶碗もそれぞれ違っててその話になるといつになく盛り上がる人いてる」

 

亜美はすだちに話していないが亜美も就職して結婚するまでは近くの茶道教室に通っていた。子育てに追われ出した頃も通ってはいたのだが、夫から暴力を受けるようになり急速に足が遠のき通うこともままならずメイクだけでは隠しようのない顔面殴打が始まってしまいぱたりと止めてしまった。夫の暴力が始まって一週間と経っていない。後頭部も割られてしまうのではと言いようのない恐怖を感じた。メイクなら拭き取れば落とせる。けれど殴られて生々しく変色した肌の傷は落とせない。肌の傷はそのまま心の傷として胸の奥深くとぐろを巻いてでもいるような気が今でも蘇ってきそうになる。

 

なるほど学習会へ行けばトラウマという簡略な言葉で語られてはいるものの、亜美の体の奥底深く乱暴に刻み付けられた傷跡はトラウマという言葉だけで語ろうとしても到底語り尽くせるものではなく、それについて懇切丁寧にしゃべり始めたとしたらいつまでも、おそらく永遠にひとりでしゃべり続けることだろう。もし誰かが強引にでも止めてくれなければ死ぬまでずっとしゃべり続けしゃべりまくりずっとずっとひとりで、そのうち誰も見ていないというのにまだずっとしゃべり続けるのだろう。頭が壊れてしまうに違いない。人の頭を壊してしまうには何も後頭部を床にごんごん叩きつける必要はないと思い至る。

 

そんな時はさっさと気持ちを切り換えないといけない。しかし切り換えに慣れてくるとこんなふうにすだちとふたりで抹茶の話のひとつもできるようになる。何年か前までは茶席と聞いただけで身震いが止まらなくなることがあった。夫の暴力と結びついた忌まわしい記憶に襲いかかられ道端でうずくまって動けなくなることもあった。何度メイクしても落ちない傷のおぞましさ。肌の奥深く心の芯まで巣食ってしまいもはや落ちそうにない傷。熱心に学習会へ顔を出している女性の中でこんな想いを抱えている人はどれだけいるのだろう。山ほどいるに違いない。亜美ひとりが自分だけを憐れんでいるわけでは毛頭ない。しかしあの夫はなぜ感情のコントロールの仕方を学ばなくて済まされているのか。亜美はそこへ来ると今なお理解に苦しむ。

 

すだちははにかむような愛嬌を見せて亜美に続ける。

 

「お茶席っていえばさ、お花が付いてくるでしょ?」

 

「うん、付いてくる」

 

「あたしお花育ててるんだ」

 

「園芸だね。それも作業療法に入ってる」

 

「この前見てたら業務用かなあ、大きな青色のゴミ袋みたいなのあるじゃん。それが十個くらい作業場に運び込まれてた。中にお花育てる土が入ってるの」

 

「あはは、それどこから来たかわかる?」

 

「亜美知ってるの?」

 

「へへへ」

 

「知ってるんならもったいぶってないで教えてよお」

 

「病院の奥に職員用のガレージあるでしょ?結構大きめ」

 

「あるある」

 

「あのあたりは落ち葉でいっぱいになるの。林の中へほんのちょっと入るだけで腐葉土がたくさん取れる。それを一度まとめて何かの土とブレンドして培養土にしたのが園芸用」

 

「でも大きなゴミ袋みたいなのが十個もだよ?どうやって持って来るのかな」

 

「一体誰がたくさんの落ち葉をかき集めて腐葉土取って来るかっていうと、男性患者なんだ」

 

「あれ?そうなの?全然知らなかった。あそこの掃除も男性のアルコール病棟がやってるわけ?」

 

「そう。ただの掃除だって思ってる患者も多いけど患者の中には自分がやってる作業が次は何になってどこへ回っていくかわかる人もいるわけでね。でも言わないなあ。四〇歳くらいの依存症者だと入院するまで職業転々としてる男の人っているからさ。そういう患者なら想像つくよね」

 

「あたし想像つかないや。想像力欠如してるのかなあ。経験が浅いのかも」

 

「そりゃわかんない人にはわかんないよ、想像力の欠如じゃなくて。一度に説明されてもぴんと来ないんじゃないかな」

 

思ったより元気そうなすだちとの会話は亜美にとってもいつしか心の支えになっていることに気づくのだ。

Blog21・二代目タマ’s ライフ650

二〇二五年八月十一日(月)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。

 

 

タマね、今日も飼い主の九〇年代ノートレポート見たよ。またまた大変なことになってきた。ガソリンかぶって自殺って。

 

男性患者で灯油とかガソリンかぶって焼身自殺とかはあるよ。珍しくない。どうやって手に入れるのかあんまりわからないんだけどピストルで自分の頭ぶち抜くとかも。

 

あるの?

 

ある。あの世界では。特に女性患者に対する嫌がらせというのは無数にあって、今でいう性的マイノリティ迫害もそうなんだけど、なんとしてでも自殺へ追い込んで笑い物にしてやろうって悪意に満ちた人間は今なおうろちょろしてる。そんな世間が続いてる限り終わらないと思うね。

 

そんなのあんまりだあ。すだちもキャメもこれからだっていうのに。

 

心配ない。ガソリンの誤飲とか自殺目的で飲んだとしてもよほどでないかぎり対処法があって、しばらく時間はかかっても点滴受けて体内の血中濃度を下げていけば元に戻る。九〇年代はシンナーとかトルエンが手に入らなくなるとさ、高校生だと免許取れるんでバイクからガソリン抜いてビニール袋に詰めて吸い込んで顔色がドス黒くなってる女子っていたし。それより長々と書いてるのは社会の空気。この手の悪循環はなぜ起こるのか、しかし傷つきながらもやり直して生きてる人が実際にいるってこと。だからそっくり似たような経験してる被害者はミーティングに出ればたくさんいてね、そういう人とどうやって出会っていくのか、一度仲間ができると多少のことでメンタル折れるなんて激減するし、逆に足の引っ張り合いしたがる人もいるけどそんな時はどう切り換えるか、それが今後のすだちやキャメの課題だね。何回か前にすだちの生育歴は結構具体的に書いたでしょ?ああいうケースがまだ山ほどあった時代。

 

秋の文化祭に間に合うのかな?

 

間に合ったから知ってるわけ。出かけて行ってお茶席見たらいてた。ちなみに飼い主は男性病棟でたこ焼き売ってた。それはそれとしてむずかしいのは入院中ね、文章読めるってんで病棟患者のサブリーダー役回ってきたことあったんだ。盆休み、秋の行楽シーズン、年末年始の公共交通機関の変速ダイヤに合わせたミーティング回りの時刻表作成とか、いろいろやったなあ。自分の治療より他の患者さんが迷子にならないようひとりひとりに説明して回らなきゃなんない。ミーティングは夜が多いから一度迷子になると帰りがわかんなくなってつい自販機で飲んじゃったってなると困るし。性格的に合わない患者がいたとしても苦手だからって理由で対応に差を付けるのはおかしいしね。のぼせ上がっても許される政治家とかならそんなことできるんだろうけど現実社会ってのはそこまで甘くない。

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Blog21・退院後リハビリ創作(1998~1999.長岡京市在住時代)

落ちない肌(32)

 

亜美の説明を聞いてすだちはいう。

 

「そんなふうになってるのかあ。じゃあ今度の文化祭であたし習いたてのお抹茶点てるけど、その時の入場券で捌けたぶんは作業療法とかレクレーションで使う交通費とか、お抹茶なら茶道教室の備品購入に当てられるんだ」

 

「そういうこと」

 

「ただ単にお客さんが来てくれて売れればいいってわけじゃないんだ」

 

「そうだよ。もっと詳しい話が聞きたければ看護師さんでもケースワーカーでも尋ねてみれば説明してくれる」

 

「一回目の入院はもう日々のプログラムこなしていくだけで精一杯だったからそこまで気が回らなかった」

 

「そんなもんだよ。あたしだって四年前になるかな。それだけで精一杯だった」

 

ふたりは喫茶店で別れ、すだちは坂道をてくてく歩いて病院へ戻っていく。亜美は案外元気そうなその後ろ姿を見送りながらすだちが泥酔してベンチで寝転んでいた時のワンピースのことをどうするか、話すべきか話さず放置しておくのがいいか、今すぐ話すべきでないとは思うもののミーティング回りが始まれば公共交通機関を利用するわけでいつどこで目に入るかわからない。

 

山王木場町から親王木場町付近の繁華街に立ち並ぶ雑居ビルには中古レコード店古書店、ジャズ喫茶なども入っている。キロはしばしば立ち寄り何かめぼしい中古品がないか結構覗いて回ると亜美は聞いていた。中古レコードにしても古書にしてもこれというものを見つければすぐ買わないと翌日にはもうないというのがその世界では当たり前のようだ。

 

そんなある日の北小路ミーティングでいつもより早い時間にキロが顔を出した。ひとつ早いバスに乗ったらしい。亜美を見つけると何か話がありそうな目を向ける。インスタントコーヒーと麦茶の用意を済ませたところで少し時間が空く。

 

「亜美さんこんにちは。上村はいつものバスで来ると思いますんで。もし急ぎでなければお時間取れますかね」

 

「ミーティングまであと三〇分ほどかな、それまでなら」

 

「ミーティングルームだとちょっとまずいかも知れないんですけど」

 

「じゃあ隣の部屋でうかがいます。多少散らかってるのは勘弁してもらって」

 

話というのはこうだ。

 

キロがよく立ち寄る雑居ビルの古書店を出たあと見慣れない看板が目に付いたという。繁華街の雑居ビルでテナントの回転が早いのは当然としても先日すだちの大量飲酒に伴う放浪癖と寝転がりがあったばかりで看板の名前が気になり覗いてみたらしい。店名は「路上アイドル秘宝」。

 

「路上、アイドル、秘宝?」

 

「写真なんですが三枚買ってきました。これです。見てもらえますか?」

 

亜美はおそるおそる手に取る。

 

「は?なにこれ!?」

 

思わず絶句しそうになる。

 

「すだちさん、泥酔して石賀茂車庫のベンチで横になって居眠ってたって聞いたんですけど、多分その間に誰か写真撮って逃げたんでしょう」

 

ベンチで横たわるワンピース姿のすだち、顔のアップ、両脚のほうから覗き見るアングルで撮られた丸見えの下着。

 

「どこかで見覚えのあるワンピースだと思って。写真は三枚ワンセットで売られてました。すだちさん、そろそろミーティング回りで市内のあちこち出ますよね。もし目に入ったら」

 

「困る、困ります」

 

「被害届出してもまともに取り合ってもらえるかどうか。それにすだちさんの意向を聞かないまま被害届出すわけにもいかないでしょう。そもそもこんなの見たらすだちさんもう耐えられないかも、と一瞬思ったんですが、そうでもないかなと」

 

「―」

 

「アイドルと銘打ってますけど店の感じからすると女性が入れるような雰囲気じゃとてもないです。手分けして買い占めてもネガがどこにあるのかわからなかったら徒労だし。けど、必ずしも耐えられないとは限らないですよね、すだちさん」

 

「というのは?」

 

「例えばキャメさんだって随分おかしな写真を職場でばら撒かれた被害者です。それ聴かされてるすだちさんにすれば外に出たらどんな事態が待ってるかある程度予想はついてると思うんですよ」

 

「すだちはすだちなりにこれまでの性被害に対する耐性ができてると。残酷というか随分変な言い方かもしれないですが」

 

「ええ、確かに変な言い方になってしまうんだろうと思うわけですけど。かといって病院に連絡してもミーティング回りは必須ですから始まります。一旦中止してほしいと頼み込んでも入院期間が延びるか自宅待機になるかどちらかだけでいずれミーティング回りはこなしていかなきゃなんない。キャメさんはそれ乗り切ってきた。そんなキャメさんの過酷な体験談をすだちさんはもう何回も聴いてるわけで。それなりの覚悟はあるんじゃないでしょうか。ミーティングに出かけるの拒否してないみたいだし」

 

「賭けるしかないと」

 

「賭ける賭けないというより時間が止まってくれるわけじゃないでしょう。巻き戻しなんてもっとできない」

 

(そう、巻き戻しはない。できるのはやり直すことで生き直すことだ―)

 

「この写真は亜美さんにお渡しします。しかしもうひとつ、むしろ気になるのはキャメさんかもしれないと思ったんですよ。もしキャメさんがこれ見たら爆発しないでいられるかな」

 

(あり得る。もしかしたらそっちのほうが危ない―)

 

キャメはいわゆる美人タイプで学生時代からずっと、会社員になったらなおさら、いろんな男から弄ばれ散々嫌な目に遭わされ死ぬことばかり考えてきた。ミーティングで話す時はそれほどでなくても関係のない世間話の途中でがらっと豹変し殺意とも呪詛ともつかない言葉を口走ることがある。盗撮されたすだちの写真が売りに出ているのを見たりしたらその店に怒鳴り込んでそれこそガソリンをかぶって火を放ち雑居ビルもろとも自分で自分を吹っ飛ばしてしまうかもしれない。

 

もしそんなことが起きれば、しかしマスコミは、酒と男に狂った女の逆恨みでなんの罪もない多数の一般市民を巻き添えにしたと、まるっきり勘違いなことしか言わずただ単なるスキャンダルで金儲けすることしか考えていない。

 

今日の診察と面会ですだちに言い出せなかったワンピースの話とはそのことだ。すだちお気に入りの白地に薄紫色の薔薇の花柄―。