ドイツ軍とフランス軍とではいったいどちらが危険なのか、という問いは無効である。ジュネは「密告沙汰」について触れておきたいとしてわざわざ頁を割く。
「ドイツ野郎から自分を解き放ったおりの、向こう見ずな美しい振舞いを発揮したパリっ児たちに私は好感を抱いている。自分を解き放つとき人間は美しくなる(さいしょ私は立派になると記したが、美しいという言葉に置き換えることにする)」(ジュネ「葬儀・P.257」河出文庫)
ドイツ軍撤退とともに抑えきれない歓喜の渦におちいったパリ市民。解放はなるほど美しい未来への扉かもしれない。だが。
「その美しさは、ほんのつかの間、愛が君臨した危険と信念の数ヶ日しかつづかなかった。ドイツ軍が密告を合法化してしまっていた、それに、ケーニッヒ将軍も、彼らを追っ払ったとき、パリじゅうの壁という壁にビラを貼りめぐらして密告を奨励した」(ジュネ「葬儀・P.257~258」河出文庫)
二重の密告がある。ドイツ軍占領下で日常化していた第一の密告奨励。そして第二に、ドイツ軍撤退後にフランスのケーニッヒ将軍が押し進めた密告奨励。フランス人は何を考えどう行動したか。言えようことは、第一の密告にも第二の密告にも非常によく応答した人々が少なくなかった、ということである。生き延びるため、といってしまえば何でもかんでも許される。はたしてそうか。もしその種の言い訳が許されるなら、ナチスドイツに、アウシュヴィッツでの大量虐殺に、協力しなければ生き延びていくことはできなかったため仕方なく応じたという言い訳もまた成立する。ジュネの目にはその光景がヨーロッパの中に生息する「フランスという恥部」あるいは「恥部としてのフランス」に見える。
「こうした処置は時代全体の傾向に応えるものであるとしか考えられない。人は《与える》ことが、いや《売る》ことが好きなのだ。誠実を誓う手を胸にあてて喋り出す。言葉が殺(あや)め、毒を盛り、傷つけ、ゆがめ、泥を塗る。誠実の値打をもともと認めていたのなら、私としても文句はない」(ジュネ「葬儀・P.258」河出文庫)
だが問題はそのような、戦時中や戦後すぐにはどこの国家にでも多少なりとも見受けられる「恥ずかし過ぎる恥部」の洗い出しではない。戦争で死んだ人々を神格化して利用する国家はどこにでもある。第二次世界大戦後、大抵の場合、その種の行為は年中行事として固定化されるようになった。しかし逆説を伴わない儀式はない。戦死者の神格化は、神格化にもかかわらずあるいは神格化ゆえに、神格化のための祭礼が行なわれるその都度、かつて国家が犯して残した「恥ずかし過ぎる恥部」を何度も繰り返し反復させえぐり出し味わい直させる拷問的価値を含む作業でもある。「泥棒、裏切り、性倒錯」をこよなく愛するジュネにすればこの上ない残酷さと突き上げる性的快感のために失神してしまうほど感動するだろう。しかしジュネは自分以外の人間がそれを行なうことに極端な違和感と湧き起こる憤激を隠しきれない。ジュネは戦前すでに世間一般の価値観とは逆方向を目指して張り切り、どんな誹謗中傷にも耐え抜き、何度も監獄を経験し、それこそ血を吐くおもいで「密告」の価値を自分の身体をもって始めて知ることになったし、またそうなることを《欲した》。
「ところが正義とか、礼節とか、要するに学校で教えられるような教訓を押しつけるように思える、名誉の法則をそなえた社会的・道徳的世界の埒外に身を置くことを望んで、私自身は、それら世間並の美徳と逆のものを美徳の高みにまで高めることによって、誰ひとり私に寄りつかない精神的孤独を手に入れるつもりだった」(ジュネ「葬儀・P.258」河出文庫)
ジュネは「慣習的道徳の世界に自分をつなぎ止めている絆を断ち切」るのにわざわざ「斧と掛け声」を必要とした。自分の手で行なう自己破壊なのだが、それにしても「斧と掛け声」が必要だったのはただ単なる自己破壊というだけでなく、ほぼ自殺に等しい行為だったからである。
「自分を裏切り者に、泥棒に、強奪者に、密告者に、復讐者に、破壊者に、拗者(すねもの)に、卑怯者に仕立てることを願ったのだ。斧と掛け声で、慣習的道徳の世界に自分をつなぎ止めている絆を断ち切り、またときにはその結び目を理屈でときほぐすことに努めたものだ」(ジュネ「葬儀・P.258」河出文庫)
世間からの自己抹殺にはそれ相当の覚悟がいる。自己抹殺した後になお、今度は転倒した価値観の持主として生きていかなければならない。死んでしまってはいけないのだ。ジュネによる世間からの切断行為は、ジュネが死ぬためではなく、ジュネ自身として新しく生きていくための自己抹殺であり自己破壊である。詩人についてジュネが「反社会的存在」として述べているような自己破壊でなくてはまったく何らの意味もない。
「この機会に繰返しておくが詩人は反社会的存在であり(明らかに)、過失を歌い上げ、さらにそれを明日の美に役立てるためにーーー或いは取って代らせるためにーーー魅惑的なかたちに仕上げる」(ジュネ「葬儀・P.241」河出文庫)
ボードレールやゾラ、プルースト、コクトーらがそうだったように、詩人は過失に引かれる。過失に魅了される。過失に快感を感じて目を止めてしまう。過失的行為や過失的光景の魅惑的言語化に専心するほか生きていくことができない。それなしでは窒息してしまう。そして過失の言語化という彼らの行為は「反社会的行為」であるほかなく、したがって詩人は「反社会的行為」自身を実際に生きることで、みずから過失と化すことでニーチェのいう「別様の仕方で」世に君臨することができたのだ。
「片輪者のように私は、諸君から、諸君の世界から、街から、制度から遠ざかるのだった。諸君の立ち退き命令を、刑務所を、逮捕状を経験したのち、私の自負心がいっそう落着きをおぼえる、人跡絶えた領域を発見したつもりだった」(ジュネ「葬儀・P.258」河出文庫)
密告や裏切りは過酷この上ない刑罰として世間から叩き出される行為だった。けれども密告や裏切りは世間による罵倒を独り占めするという意味ではジュネの欲望に奉仕するものでもあった。だからといって、世間がジュネをじろじろ見る目に変化があったわけではない。ジュネを見る世間の目はいつも軽蔑をたたえている。「ところが」とジュネは留保の身振りを見せる。周囲に蔓延する密告行為と密告天国と化したフランスのありさまを見て、今や「恥ずかしい」と言うのである。
「ところが、諸君の世界の裏面にほかならない世界をできるだけ崇高化する努力に打ち込んだあげく、おびただしい犠牲をはらったその作業ーーーまだ中途半端なーーーののちに、いまや私は、自分が跋をひきひき、血をたらしてさしかかった岸辺が、<死(よみ)の国>よりもまだ混雑しているのを見て、恥ずかしい思いを味わっている」(ジュネ「葬儀・P.258」河出文庫)
フランスは孤児として生まれたジュネを拒否した。ところがジュネは祖国フランスから受けた拒否をそれほど憎悪しているようには思えない。まったく欠けらほども憎悪がないというわけではないけれども、フランスから受けた拒否を理由に次々と「泥棒、裏切り、性倒錯」へと加速していくわけでもない。なるほどフランスに限らず世間というものは自分と同一的なものではない「異質的なもの/差異的なもの」に対して畏怖や憎悪や恐怖や暴力を向けたがる。実際に向ける。「異質的なもの/差異的なもの」が常に反復されているかぎりで同一的なものの反復が保障されるにもかかわらず。同一性は常に差異性を自分の存在の条件としているにもかかわらず、である。言い換えれば、「商品《A》」が自明であるのは「商品《非-A》」が自明であるそのかぎりにおいてでしかない。ボードレールやジュネら「商品《非-A》」が確実であるかぎりで他の「諸商品《A》」の系列は始めて確実な商品系列として群れをなして書店の店頭やネット画面に出現することができる、にもかかわらず。さらにファッション業界でいえば、「モデル商品《A》」が自明であるのは「モデル商品《非-A》」が《A》に対して常に「差異的なもの/異質的なもの」でなくてはならないという条件を持つだけでは不十分であり、なおかつ「差異的なもの/異質的なもの」の生産=再生産過程を含んでいなくてはならない。
ところでジュネはフランス人の調子のよさ、自分本意、自己中心的言動などの直接的行為に向けてやるせない憤怒をぶちまけているわけではない。ジュネが生涯の半分を費やし執念を燃やして闘い取った異端者の地位。それはみずからの血で贖(あがな)われてきたものだ。ジュネの血と汗と精液との結晶である。ところがフランスが密告天国と化した今、ジュネが異端者へと至るための数十年に渡る求道的ともいえる血まみれの過程はすでに一滴の血も必要としなくなっている。誰でもがいともたやすく異端者の地位を獲得して憚らないばかりか悦びさえ感じている。異端者はすでに少数者ではなくなっている。フランスは、とりわけパリは、密告者という異端者の群れによって「<死(よみ)の国>よりもまだ混雑している」。ジュネは少々疲れをおぼえる。だからといって、これまでの労苦を言い立てたいわけでもまたない。パリが、密告者という異端者の群れによって「<死(よみ)の国>よりもまだ混雑している」という見た目の結果を報告しているわけではない。密告の公認によって、密告者の爆発的増大によって、ジュネの稼業である「裏切り者」としての価値が下落し薄められるではないかと憤激を込めて告発しているわけでもない。なぜなら、公認された密告奨励は密告激増と密告者続発の原因では《ない》からだ。密告奨励が原因となって始めてフランスは密告天国と化したわけではない。むしろ戦時中から密告は《半ば》公認されていた。「原因と結果の取り違え」が生じていることに対する感受性がジュネにこの珍妙な事態の原因を語らせている。そもそも「人は《与える》ことが、いや《売る》ことが好きなのだ」と。パリの一般大衆は密告が公認され奨励されたのでフランス人同胞を《売る》のではない。フランス人同胞を《売りたくてたまらなかった》から、パリは、密告の公認ならびに奨励を待っていたのだ。今のアメリカで盛んに行われている司法取引のように、密告する自分に対する刑罰を伴わずに執行される、フランス人同胞に対する処刑宣告の瞬間を。
さて、アルトー。「太陽の活動中の力」を現わす「APOLLON」。アポロンはただそれだけでも十分かもしれない。だがアポロンという名前には様々な系列が接続されている。
「そして APOLLON 太陽の活動中の力であり、その名前を失うことなく、ひとつの影、一種のあだ名を伴っているが、それはいつもアポロンにはりついたままである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.146」河出文庫)
アポロンに付された名前の様々な系列は、なぜ「いつもアポロンにはりついたまま」なのだろう。
「こうして人はアポロンを次のように呼ぶことができたのである
APOLLON LOXIAS
APOLLON LIBYSTINOS
APOLLON DELIOS
APOLLON PHEBUS
APOLLON PHANES そしてこの最後のアポロン・プアーネスは、反撃、二重の打撃、あるいは二重の種子のアポロンである。
APOLLON LYCIAS
APOLLON LYCOPHAS そしてこの二番目のアポロン・リュコパスは、すべてを、闇さえも貪り食う狼のアポロンである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.146~147」河出文庫)
アポロンに付されたそれぞれの名前はすべて、アポロンによって吸収合併された神々の名前であり、すなわちアポロンによって征服された諸民族の名前か征服された諸民族が持っていた特徴的かつ伝統的技術を言語化したものだと考えられる。今さら言うまでもないことかもしれないが。今では「音楽」とか「矢」とか様々な意味がアポロンという言語の中で融合し象徴化されアポロンは「音楽」とか「矢」とかの神としても崇拝されている。しかし音楽の場合、その神はアポロンではなく明らかにアポロンの子であるヘルメスである。またアポロンはホメロス「イリアス」の中で敵軍の城壁を一気に粉砕する破壊者として描かれていることから「破壊」の神を意味するようになり、スポーツの世界へ目を移すと、アポロンはたとえばボクシングの神として祀られている。神話(「遠矢の神」伝説)に見られるように矢を射たのはなるほどアポロンかもしれない。が、矢を発明したのはアポロンではない。アポロンが矢を射るにあたって矢はずっと前から存在していた。アポロンの「遠矢の神」伝説はむしろ矢が命中した場所全域が伝染病に侵されるという部分に重点が置かれている。紀元前、矢が象徴していたものは、活動中の太陽の力、太陽が照らし出すあまねく全世界への感染力、理想的に勃起した男性器、伝染病の神、といったものだからである。音楽もまたアポロンの発明品ではない。ヘルメスがそこらへんにある木と糸とをいじって遊んでいるうちに木の一方と他方とに結び付けた糸を指で弾いてみたところ、たまたまそれがただ単なる雑音ではなく《音楽的なもの》として感じられたことに端を発する。アポロンは征服した諸民族からも自分の息子の発明からも「おいしいとこ取り」している。ジュネに言わせればそれこそ泥棒の神におもえたに違いない。しかし泥棒の神はなぜか息子ヘルメスだということになっており、泥棒ゆえにヘルメスは速度の神として崇拝されることになった。ちなみに武器が速度を所有していた時代と異なり、速度が武器と化した現代社会では今度はヘルメスは軍事力の神としていずれアポロンを凌ぐことになるかもしれない。なおかつ近現代では音楽演奏と勝利宣言とは危険なほど極めて近くに位置しており、もはや切り離せなくなっているという事情もある。しかしヘルメスは変化の神でもある。変化を好む。だからアポロンの遺産にいつまでも執着したりはしないだろう。執着するのは人間だけだ。それにしても、このような混乱や混同にもかかわらずなぜ多種多様な名前がそれほどまでアポロンにこだわりアポロン目掛けて「はりつこう」とするのだろう。それは「APOLLON」が「太陽の活動中の力」だからであり、「太陽の活動中の力」とはすわなち「力への意志」の別名にほかならないからである。
ところが「力への意志」は本来、流動する無方向的でアナーキーな諸力の運動としてしか存在しない。それは異質な他者の征服と同化を通して自己増殖する破壊と吸収の力なのだが、その一方、征服と同化につきものの不完全な統一性ゆえ、どこかでいつも差異的なものの生産をも自分自身の成立条件として含み持たざるを得ない自己分裂する力でもあるという両義性をいつも内在させている。ニーチェはいう。
「権力への意志は《抵抗に当面して》のみ発現することができる。それゆえこの意志は、おのれに抵抗するものを探しもとめる、ーーーこれが、原形質が偽足をのばして周囲を手さぐりするときの、その根源的傾向である。専有と同化は、なかんずく、圧倒しようと欲すること、形態化し、形成し加え形成しかえることであり、ついには圧倒されたものは攻撃者の権力領域のうちへとまったく移行し、攻撃者の力を増大するにいたる。ーーーこのような同化が成功しないなら、有形物はおそらく崩壊し、かくして《二分裂》が権力への意志の結果としてあらわれる。征服されたものを取りにがさないために、権力への意志は二つの意志へと分裂するのである(事情によっては両者たがいの結合を完全に失うことなしに)」(ニーチェ「権力への意志・第三書・六五六・P.178」ちくま学芸文庫)
たとえば「APOLLON PHANESーーーアポロン・プアーネスは、反撃、二重の打撃、あるいは二重の種子のアポロンである」と言われるとき、アポロンはアポロンそっくりの似姿としてのもう一人の自分の前に立たされている場面を想定することができる。アポロンは自分の目の前に出現している鏡像に対して、一体どちらが本物のアポロンなのかという問いに決着を付けなければならない事態に追い込まれている。ゆえにアポロンは戦いにおもむかなければならない。そして勝利した側が本物のアポロンとして主人の位置を獲得することができる。だからもし勝利したのが鏡像として出現してきたアポロンの似姿の側であればその瞬間、自分こそ本物だと思っていたアポロンはたちまちアポロンの似姿でしかない偽物のアポロンとしてアポロンという名前を剥奪され、それ以後は勝利して今では主人になっているアポロンの奴隷としてひたすら隷属し主人の享楽のためにひたすら奉仕しつづけていくほかない。そしてそれだけが奴隷へ転倒し名前を失ったものが生きていくための唯一の手段となる。というのは、主人の日常生活のすべては奴隷による一方的奉仕によって支えられているのであり、主人の生は奴隷による一方的奉仕を存在の条件として持つからである。
あるいは「APOLLON LYCOPHASーーー闇さえも貪り食う狼のアポロンである」とある。「アポロン=狼」説というのも古くからある。食べるということ。殺した相手を食べることで殺された相手が持っていた力を自分の身体の中に吸収し栄養源に変えるだけでなく、殺された相手が持っていた特徴的で伝統的な技術を自分のものとして同化してしまう作業。ところで、「闇さえも」食べてしまうというのはどういうことだろう。陽の高い日中は当然のことながら夜でさえも軍事力を動かせる機動性を獲得したということにほかならない。紀元前すでに地中海を中心に発達した古代の軍隊は真夜中にでも移動する技術を身に付けていた。というより、大勢の人々の目に付く真昼間に堂々と大規模な軍事行動を行なう軍隊などあったろうかと逆に疑問でさえある。そんなふうにアポロンが出てくるやいなや名前の意味は無数に、少なくとも二つの意味に、相反する両義性とともに出現する。アポロンが何をやってもその意味は常に両義的である。善となり悪ともなる。極端に善的であり極端に悪質である。古代世界でアポロンが理想的な青年像として語られるようになった理由は、知力にも体力にも長けている青年期の男性の言動をまとめ上げてあえて象徴化してみると、数々の矛盾を含みつつも、むしろ青年期に顕著な矛盾だらけであるがゆえ、たまたまアポロンという鏡像が出来上がったというのが実際のところだったのかもしれない。数知れない他民族征服、侵略略奪、吸収合併、等々における英雄的行動。そしてそれに伴う残忍さ、感染症の蔓延、無数に行われたであろう性的交雑など無政府主義的行動。しかしヘリオガバルスはそれを神話のレベルではなく、あくまでこの地上で実現しようとするのである。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM