Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

言語化するジュネ/流動するアルトー58

ジュネはジャンから始めて告げられた言葉を忘れはしない。その言葉をエリックとリトンとの情事のシーンをもっと華々しく飾り立てるために利用する。

「はじめて、私が幸福に酔い痴れ彼の背中で身もだえしたおり、ジャン・Dーーーが私に言ったすばらしい文句《これで、前よりもっとあんたが好きになったみたい》という言葉をリトンは口にしなかったとしても、その言葉を生み出した深いいとしさ、それを彼はエリックの眉の上に接吻を一つ置くことによって表明したも同じである」(ジュネ「葬儀・P.254」河出文庫

故人となったジャンが生きていたとき発した決定的言葉。「《これで、前よりもっとあんたが好きになったみたい》」。ジュネはリトンの背後からその身体の中に精液を噴出したとき、「かつてないほどすさまじい射精に茫然自失し」たと書いている。なぜそれほど「すさまじい射精」で《なくてはならなかった》のか。ジュネは息が詰まるほどジャンの身体を求めながらも何かにつけてジャンにじらされていたともいえるし、レジスタンス運動で多忙を極めるうちに無駄を削ぎ落とされ洗練され躍動する二十歳の美少年の肉体美を勝手気ままに引き止めることも憚られたのだろう。しかしとうとうジュネはいう。「かつてないほどすさまじい射精に茫然自失し」ていたとき、思いがけずジャンが発した言葉「《これで、前よりもっとあんたが好きになったみたい》」。男性同性愛の交接シーンなのだが、異性愛の場合にも当てはめて考えることは十分可能である。その意味でも次の一節は重要な意味を持つだろう。「《これで、前よりもっとあんたが好きになったみたい》」という言葉を含むかぎりで、作品「葬儀」は「一種の聖遺物匣と化する」。

「若い死者が私に向かって言ったこの文句、それを私は自分の作品のいちばん明確な一節の中にしまい込むためにこんにちまで取りのけてきた、そしてそうすることによってこの作品は聖遺物のうちで最も貴重なものを迎え入れるにはまだふさわしくないにせよ一種の聖遺物匣と化する」(ジュネ「葬儀・P.254」河出文庫

しかしさらにジュネの思考は先へ先へと進行する。留まるところを知らない。ジャンとともに作り上げた愛の行為の回想を通してジュネは「もう死んでもいい」とまで考える。

「(今なら死ねる)と私はひとりごちるのだった。(なにをためらうことがあるのか?この苦しみに匹敵する苦しみはない。死んでしまえば、悩みが過ぎ去ったときの、将来の悦びの利益(りやく)を失うことになるだろう。だけど)とさらにひとりごとをつづけるのだった。(なにひとつ失うことにはならないだろう、だってその悦びはまだ存在せず、それを味わう人間はまだ存在してもいないのだから、だって彼はその悦びによってつくられることになるわけだから。この場で私がジャン・ジュネを殺すと仮定しよう、そしてすぐまたジャン・ジュネに生れ変るとーーーこの場で私は自分の生命を断ち切る。やった。存在しもしない未来を惜しむわけにはいかない)」(ジュネ「葬儀・P.256」河出文庫

というふうに。誰もがそう考えるわけではない。別様にも考える。ところが考えるという行為は多くの場合、力を使い果たしてしまうことがある。逆にしばしば力を増大させることもある。このときのジュネの思考は力の増大に役だった。それを表現するのに「興奮」と述べた。しかし「崇め祀ること」の重要性にもかかわらず「興奮」だけでは物足りないとおもったのだろう。「一種興奮に似た気持」と記している。

「いつも私の身近にいる一人の若者を崇め祀ることがひたすら目的であるこの作品を書き出して以来、私は一種興奮に似た気持を味わっている」(ジュネ「葬儀・P.256」河出文庫

ジュネが「一種興奮に似た気持」と言っているのは、ニーチェのいう「増大する力の感情」を指すといえる。それは固定された形を持たないし持つことがない。いつも増大しているか減少しているかのどちらかでしかあり得ない動態である。ゆえにジュネは自分の《身体を手引きとして》正当にも「一種興奮に似た気持」という動的状態として描いたのだろうとおもわれる。もっとも、そもそもジュネは、凝固し固定しステレオタイプ化されたものにはほとんど関心を持たない。射精にしても、射精そのものの行為より、その一瞬手前で湧き起こり殺到し渦巻き我を忘れさせる破壊的欲望の高まりに重点を置いている。その力の爆発と比較すれば射精そのものはどこかサービス残業にも似た虚しさの侵入を認めないわけにはいかない。ともかく、この場合、思考は力の増大に役立った。ジュネはさらなる自己練磨に駆り立てられる。ジュネにとっての自己錬磨とは何か。

「それはジャンの栄光という不在証明(アリバイ)を楯に、ますます烈しい、ますますすてばちな暮らし、よりいっそうの大胆さへと私を駆り立てるのである」(ジュネ「葬儀・P.256」河出文庫

ということだ。増大した力を無駄な行為に向けることなく「人間のもっとも高尚な制度にたいしてまでも、怖じ気なく立ち向かうちからを身内に感じ」つつ、より一層「自暴自棄」になる。かといって、「自暴自棄」になることが目標ではない。思考することで「増大する力の感情」を全身で受け止めているうちに、これまで以上のより一層すさまじい「自暴自棄」が目標として見えてきたのである。そして目標としての「自暴自棄」が姿形を取って出現するやいなや「自暴自棄」へ至るためにこそ思考の「力の増大」があったのだと転倒して受け止められてしまう。

「そして私はますます大胆な盗みを繰返すだけでなく、それを破壊する目的で、人間のもっとも高尚な制度にたいしてまでも、怖じ気なく立ち向かうちからを身内に感じるのである。生命に、暴力に、自暴自棄に私は酔い痴れている」(ジュネ「葬儀・P.256」河出文庫

ところが「自暴自棄」という目標は結果ではない。後から出現したからといって、目標にはなり得ても、それが結果だという保障はどこにもない。むしろ結果は「力の増大」の側なのだ。ジュネが思わず知らず目指しているのは「力への意志」なのであって、間違っても「自暴自棄」ではない。「自暴自棄」という態度は「力の増大」の結果ではなく、「自暴自棄」という暫定的な仮の結果から考えて事後的に見出された「力の増大」という言語が、後になって、時間的に先行する或る位置に押し付けられ押し込まれ「原因」と見なされるに至ったというのが根本的事実である。なるほどジャンとの愛の思い出がジュネの身に「力の増大」を結果したということはできるけれども、実のところ事情は逆であろうと考えられる。「原因と結果の取り違え」。というのは、ジュネが身体的精神的な健康を取り戻すとともにジュネの身に回帰してきた「力の増大」が、ジャンとの愛の思い出をこれまで以上に強烈な印象として浮上させ再刻印されたと言えるからである。そしてジュネ自身なぜだがわからないが、知らず知らずのうちにそうすることによって、作品「葬儀」は「一種の聖遺物匣と化する」ばかりでなく、「聖遺物匣」としての作品「葬儀」はより一層価値を増しつづける伸縮自在な「匣」へと変化を遂げる。力というものはふだん人間が考えている以上にしなやかで柔軟なものなのだ。なお、ジュネのいう「自暴自棄」は、周囲の目から見て暴れるとか陰湿化するとかいったことを意味しない。むしろジュネはより一層洗練された作品執筆に打ち込むのである。

さて、アルトーアポロンは太陽でありサトゥルヌスもまた太陽である。二つの太陽を同等のものとして認めるわけにはいかない。どちらかが下降しなければならない。下降するのはサトゥルヌスの側である。だが、下降することでサトゥルヌスは「その行動の形態とともにその形と権能を変化させる」。

アポロンが太陽であるように、サトゥルヌスが太陽であること、それは、下降する神がその行動の形態とともにその形と権能を変化させることをわれわれが知っているなら、もはやわれわれを驚かすにあたらない」(アルトーヘリオガバルス・P.145」河出文庫

サトゥルヌスは下降する。形も能力も変化させながら下降する。時としてアポロンを支える力になる。時としてアポロンを再生させるために、年中行事として封じ込められたにせよ、出現しないわけにはいかない。一年を通して古くなった秩序を解体して新しい秩序を形成するために繰り返し呼び声に応えて与えられた事業を果たしていかなければならない。この反復によってアポロンならびに秩序は、サトゥルヌスの下降にもかかわらず、あえてサトゥルヌスを引っ張り出してこざるを得なくなった。アポロンならびに秩序は、どん底まで下降したはずのサトゥルヌスを、秩序更新のために何度も復帰させなくては立ち行かなくなった。アポロンならびに秩序は、アポロンならびに秩序だけではみずから特権的位置を保ちつづけることはできず、逆にサトゥルヌスの側をみずからの存在の条件としてのみ、始めて成立しまた更新することができるようになった。アポロンならびに秩序は思わず知らずのうちに「サトゥルヌス依存症」におちいっていた。そしてこの病は不治の病である。地上全体にいつも流動する力がだらだらにょろにょろと蠢き漂い、時には忽然として暴発したりする移動する強度。

ちなみに資本主義はこの力の流動性を巧妙に捉えることに成功した。人間が本来持っている自然力を労働力に変換し、労働力商品として活用するシステムを作り出した。さらに資本と資本の秩序の維持のために役立つ公理系を次々と付け加えていくことで資本の脱コード化の余地を自分で開拓していくことを学んだ。だから資本による脱コード化と新しい公理の付加とは同時に行われる同じ動作になる。具体的に言えば、一方で新しい設備をふんだんに取り入れた新規事業を創設する脱コード化は資本主導でなされる。その一方で新規事業の創設により必要性を発生させる種々の腐敗物の処理施設や治療施設の完備といった一つの公理の設立もまた資本主導で行われなくては誰も納得してくれはしない。だから資本にとって、不動産買収を含む新規事業の創設による脱コード化(新天地開発)と新しい公理の付加(新天地開発に伴って出現する腐敗物の処理機関の完備)とは同時に行われる同じ動作だとされるのである。もっとも、前者に専念する業者と後者に専念する業者とを区別し二つに分割して分業体制を取るのは合理的かもしれない。そして公理の側(新天地開発に伴って出現する腐敗物の処理機関の完備)を法的次元で引き受けるのは多くの場合行政機関である。法的措置の検討ならびに実施を含む点で、公理系化する作業は国家に行わせるのがより一層合理的だからだ。さらに行政機関の実質的民間化にともない行政機関から委託された民間業者が公理としての諸施設完備ならびに運営に携わることも珍しくない。そしてこのような場合行政機関から委託された民間業者というのは、不動産買収を含む新規事業の創設による脱コード化(新天地開発)を手がける資本かその系列に属する一次下請、二次下請、三次下請、等々であることが少なくない。だから資本は脱コード化と公理の付加との両方を同時に行なっていることに違いはないのである。

それがより一層大規模化すると今の日本やアメリカのように揺り籠から墓場まで、医療機関教育機関、金融機関、商業施設、市場管理、マーケティング、データ処理ならびにその応用、経営コンサルタントメンタルヘルス、葬儀場、墓地整備、等々、すべての創設と回収とを資本のみで行なう一大区画の生産が可能になる。公理系(安定的雇用水準のための公理、障害者(児)福祉施設のための公理、労働組合のための公理、等々)の創設は法的措置を必要とするため相変わらず国家に委託されるわけだが、国家はすでに実質的に民間化された資本の所有物に限りなく近い社会的管理機関に過ぎない。商業施設の創設も児童福祉施設の設置完備も資本が投資し資本が建設し資本が運営する。だから国家地方公務員の職務は資本によって与えられたものと化す。あらかじめ資本の側が創設した種々の公理を通してすべての物流を整流器にかけ整理整頓する作業が国家地方公務員の職務と化す。資本による公理系の創設にともなう国家の転倒は、国家ならびに地方公務員の精神を転倒させる。国家ならびに地方公務員は資本によって職務を与えられ資本によって労働賃金を受け取ってようやく生きていける心細い労働力商品でしかなくなる。もはや国家地方公務員は国家に期待するのではなく資本に依存し資本に隷属する資本の代理人でしかない。なるほど見た目には脱コード化するもの (資本)と公理系化するもの(国家)とを区別できるにせよ、どちらの収支も同じ系列に属する同じ資本の手の中に回帰してくることに変わりはない。もしその都度その都度で算出される決算において当初の計画とは大きく異なる収益しか上がっていなかったり著しく偏った想定外の事態が出現していれば、それはただちに事業の失敗を意味する。この失敗。それはもともと一つの同じ資本から発しているだけでなく、一定程度の年数を経たあと、同じ資本の手元へ戻るべくして戻ってきた資本自身の変わり果てた姿である。

「そして周知のように RA 太陽 は、エジプト人たちにとって一匹のハイタカであるが、同じく一匹の仔牛またはひとりの人間であり、人がそれからつくり出した慣習にしたがうなら、人間の前に置かれた仔牛である」(アルトーヘリオガバルス・P.145」河出文庫

この移行は興味深い。「ハイタカ」、「一匹の仔牛またはひとりの人間」、「人間の前に置かれた仔牛」という変化。ハイタカは紀元前から鷹狩に用いられていた鷹の一種。地上の人間よりも遥かに太陽に近い位置にいる天空の猛禽類であり、人間の食糧を捕獲する狩猟動物として重宝され大切に取り扱われた。それが「仔牛または人間」の意味を持つ。仔牛は食料なのだがただ単なる食料ではない。仔牛は食料であると同時に生産と再生産、そして人間に奉仕する様々な動物の象徴を一身に兼ねる。さらに「人間の前に置かれた仔牛」でもある。しかしそもそも太陽ではなかったか。頭の硬い人々は戸惑う。とりわけ専門家は。動物と人間とは近い関係にあるけれども同じ程度に遠い関係にある。動物と動物との関係は人間と人間との関係とは根本的に違っている。人間は人間〔ロゴス〕中心主義という傲慢さを断ち切ることができない。できないから人間でいられるとも言える。動物と動物との関係はあくまで自然界の中で自然の循環に任されたまま流動していく。だが人間と人間との関係は自然界の中で自然の循環を撹乱しつつ出現するほかない。人間と人間との関係は自然界から出現しながらも、出現した後は逆に自然界を破壊していくことで発展する何か根本的に異質で倒錯的な関係しか持ち得ない。人間は自然との不断の新陳代謝を通して生きていく。どんな人間も神から生まれたのではなく、自然との不断の新陳代謝を通して生まれてくるほかなかった。「人間の前に置かれた仔牛」は、自然界の中で自然の循環に任されたまま生まれて死んでいく動物の位置を剥奪されてしまっている。「人間の前に置かれた仔牛」は、もはや人間の所有物と化し、人間の再生産のために再生産される仔牛でしかない。仔牛は黙って何も言わないが。ところでこの「太陽、ハイタカ、一匹の仔牛またはひとりの人間、人間の前に置かれた仔牛」という系列に見られる大胆な変化には、どこかスピノザを思い起こさせるところがある。

「《様態》とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する」(スピノザ「エチカ・第一部・定義五・P.37」岩波文庫

太陽を「実体」として考えてみる。すると後につづく「ハイタカ、一匹の仔牛またはひとりの人間、人間の前に置かれた仔牛」という系列は、太陽という「実体」が時と場所とに応じて取る様々な「《様態》」の一つ一つとして考えられる。さらにまた“RA”は、カルデア語では「《裁判官》」となる。

「だがこの RA は カルデア語では BEL-SCHAMASCH となる。 そしてそれはカルデア人たちの風習を裁定する《裁判官》である」(アルトーヘリオガバルス・P.145~146」河出文庫

“RA”の系列。「太陽、ハイタカ、一匹の仔牛またはひとりの人間、人間の前に置かれた仔牛」と並んで今度は「《裁判官》」が加えられる。「《裁判官》」は“RA”の系列の中で太陽を「実体」として様々に変化する「《様態》」の一つとして《言語的》に合体される。ヘリオガバルスの名前は、火、破壊、形成、変形、周期性、回帰性、能動性、受動性などと並んで、今や司法を含んだ。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM