Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

森の精霊ドラゴミラ3

ドラゴミラの考える苦しみの与え方を見るとそこに時間観念の重要性を垣間見ることができる。もっと大規模で華々しい刑罰が行われていた古代にはなかった感覚である。中世いっぱいを通して主にキリスト教世界の中で醸成された人間独特の苦しみに対する意識である。さらに近代の出現は銃器の出現と同時であり、銃器を用いてあっさり殺傷するよりも銃器を用いずにじわじわといたぶることに快感を覚えると言う。

「遠慮なく白状しますと、このような獲物の斃(たお)し方をする狩猟よりも狩り立て猟の方が、私にはおもしろいわ。何よりこうした猟はあっけなく終わってしまうんですもの。ずどんと一発、よくってもせいぜい刀でぐさり。それでおしまいです。でも狩り立て猟では、まず獣の居場所をつきとめ、逃げるのを追いかけ、最後に死に追いやる楽しみが味わえますわ。ーーー私は苦しみに耐えることもすばらしいと思っているのですよ、少なくともほかのものを苦しめるのとおなじくらいはね」(マゾッホ「魂を漁る女・第二部・14・P.413」中公文庫)

さらに他人を苦しめることと自分自身が苦しみに耐えることとの等価性に言及している点も見逃せない。マゾッホの同時代人ニーチェは刑罰の観念の根底には債権債務関係の意識が横たわっていると述べる。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫

次の言葉は宗教者にはありがちな思考だが、通常はただ単に思考するだけのことであってむしろ日々の世俗的生活に忙しい。ところが異端者は異端であればあるほど徹底的に信仰生活の側へ急傾斜する。

「この悲惨と罪悪の世界を離れて光のなかへと昇って行くことに、私は憧れているのです」(マゾッホ「魂を漁る女・第二部・24・P.525」中公文庫)

個々人を越えた力で時々刻々と推し進められてくる近代化の波。近いうちに自分もその大波の中に飲み込まれてあっけなく消え失せてしまうことはドラゴミラ自身よく承知している。スラヴ地域の近代化はもはや近くの大都市キエフでは日常である。ところがなおキエフ近郊の村落共同体では古くからの信仰生活が息づいている。どちらがどのような滅び方をするか、もはや誰の目にも明らかだった。ドラゴミラらは農村の古さびた簡素な教会で最後の晩餐を催す。パンと葡萄酒が用意される。キリストの肉体とその血を喰らい尽くすのだ。

「新たに喇叭が吹き鳴らされたかと思うと、まるでバッコスの巫女やキュベレーの従者たちの一団が広間になだれ込んできたような情景になった。先頭には美しい娘たちが、金色のサンダルを履き、足首まである金色の縁取りの白い衣をまとい、肩と腕は露わにして、豊かな髪には花綱を巻きつけ、笛を吹きシンバルを叩きながら入ってきたのだ。つづいて第二の組は、肩に豹の毛皮をかけ、手に手に指揮棒のような金色の細い棒をもって、歌い踊りながらやって来た。そのあとには鞭打つ女たちがつづいていた。腕も足も露わで、黒い革を身にまとい、頭には獣の頭部を載せ、赤い絹の帯を締めて、鞭を振りまわしている。ついで生け贄を捧げる女たちが登場した。ーーー若く美しく妖しい魅力あるれるこれらの娘たちは、全員がそのほっそりとした見事な肢体を回転させてバッコスの巫女のように踊り、それと同時に血に飢えているような赤い唇から歓声が漏れ、大きな輝く瞳は残酷に笑っていた」(マゾッホ「魂を漁る女・第二部・24・P.527~528」中公文庫)

教会内にみなぎる狂気。しかし「鞭打つ女たち」が登場するようなこの種の儀式はヨーロッパでは特別珍しい狂信的なものとは見なされない。たとえばドイツの復活祭で「鞭打ち」の儀式が登場する。“Schmeckostern”(シュメックオステルン)と呼ばれているが、“Schmicke”は「鞭」を意味し、“Ostern”は「復活祭」を意味する。古代ギリシアでは神々自身が狂気を巻き起こす。アテナの場合。

「アテナ それはこのわたしがしたこと、破滅を喜ぶその思いを阻んだのは。容易に振り払うことのできない妄想をその眼に投げ込んで、羊の群れの方に、そしてまたまだ分配のすまぬままに番人たちが見張りをしている家畜の群れに向かうように、わたしが彼をそらせてしまったのです。するとあの男はその中に踊り込み、角もつ獣に斬りかかり、手当り次第に裂き殺す。しかもある時は、わが手に捕え殺したのは、獣ではなくアトレウスの子の二人の王であると信じ、またある時は他の将を襲って殺したつもりでいた。そこでこの狂気に苦しむ男を駆りたてて、わたしは運命の網の中に投げこんでいった。その後、この仕事にひと息ついたあとで、あの男はまた生き残った牛や羊を一匹残らずしばり合わせ、自分の家の方に連れて行く、それも自分では立派な角のある動物ではなく、人間を駆りたてているつもりで。そして今、家の中でこれらをしばったまま傷めつけているのです。さあお前にも、この狂乱の有様をはっきりと見せてあげよう。これを見てアルゴスの皆の人に告げるがよい。しっかりして、そのままじっとしていることです。この男からの危害をおそれることもない。わたしがその眼差をそらして、お前を見えないようにしてあげようから」(ソポクレス「アイアス」『ギリシア悲劇2・P.12~13』ちくま文庫

さらにディオニュソスの場合。

「牛飼 老いも若きも、まだ嫁が娘も交えて、その規律のよさは、まったく驚くばかりでございます。まず髪をとき肩まで垂らすと、こんどは小鹿の皮の結び目の解けたところを結び直し、帯に代えて、ひらひらと舌を閃かす蛇を、その斑(まだら)の皮衣に締めたのでございます。中には仔鹿や狼の子を抱いて、雪白の乳を飲ませているものもおります。ーーー一人が杖をとって岩を打つと、その岩から清らかな水がほとばしります。また一人が杖を大地に突きさせば、神の業か、葡萄酒が泉のごとく湧いてまいります。ーーー御母上は大声に『おおわが忠実な犬たちよ、この男どもは私らを捕えようとしているのだよ。さあ、手にもつ杖を武器に、私についておいで』と申されました。私どもは逃れて、からくも信女らに八つ裂きにされる憂き目を免れましたが、女たちは草を喰(は)んでいる牛の群れに、素手のまま踊りかかってゆきました。一人が乳房豊かな牝牛の仔(こ)を、鳴き吼(ほ)えるのも構わず、引き裂いて両の手にかざすかと思えば、また他の女らは、牝牛の体をバラバラに引き裂いております。殺された牛の胴や、蹄のさけた脚などが、あちこちに散らばり、また樅の枝に懸かって、垂れ下がっている血まみれの肉片もございます。一瞬前まで傲然と、怒りを角に表わしていた牡牛ですらが、女たちの無数の手にとられ、たちまち地上に屠られてしまいます。殿様がまばたきなさる間よりも早く、女たちはその肉をちぎってしまったのでございます。それから女たちは、まるで空飛ぶ鳥のように、ほとんど足が地に触れぬほどの疾さで山を駈け下り、アソポスの流れに沿うて、テーバイ人の豊かな穀物を実らせる麓の平地に向かいました。キタイロンの山裾の村、ヒュシアイとエリュトライとを、まるで敵のように襲って、手当り次第めちゃめちゃに荒して、家々から幼な子を掠(かす)めてまいります。子供のみか、奪った銅器鉄器のたぐいを肩に載せて運んでゆくのですが、紐で結(ゆわ)えつけもせぬのに、一つとして地面に落ちることがありません。また髪の毛の上に火をかざしているのに、いっこうに火傷(やけど)をするようにも見えません。村人たちも、信女らに荒されて腹を立て、武器をとって刃向おうといたしましたがーーー殿様、このときまさに、見るも恐ろしいことが起ったのでございます。すなわち、村のものが槍で相手を突いても血が出ぬのに、女たちが振う杖は男たちを傷つけ痛めて、とうとう村人たちは背を向けて逃げ去ったのでございます」(エウリピデス「バッコスの信女たち」『ギリシア悲劇4・P.488~490』ちくま文庫

神への生贄の儀式を執り行うドラゴミラ。

「ようやく全員がそろった。その数二十一人であった。ドラゴミラは祭壇に上がり、神に向かって、慈悲をもって生け贄を受け入れてくださるようにと懇請した。それからヘンリカと二人で、生け贄のための刀をとり、死に捧げられた人々を片端から情け容赦なく屠っていった。ーーー空しく慈悲を求める人々、死の不安に震える人々を、ひとりずつつかまえ、祭壇の上に横たわらせる。するとそこには二人の女祭司が待ち構えていて、袖をたくし上げた露わな腕で刀を振り下ろすのであった。今や聞こえるものは苦痛にたえかねる人々、死んでいく人々の泣き声、溜め息、悲鳴ばかりとなって、それがいつ終わるともなくつづいた。そのうち不意に、生け贄を捧げる二人の女は一種の敬虔な憤怒に捉えられ、生温かい血を手からしたたらせながら、酔いしれたバッコスの巫女のように歓声を挙げ、残酷な歓喜のうちに笑い、抑制を忘れた狂気の賛美歌を歌いはじめた。二人は一種の血の陶酔の虜になっており、鼻翼は広がり、唇はぴくぴくと震え、殺戮の快楽に目はらんらんと輝いていた。二人のほてったからだを包んでいる猛獣の毛皮の匂いと混じった血の匂いが、そして古代ローマの闘技場の雰囲気が、二人を酔わせているようだった。二人は一瞬たりとも手を休めようとはせず、やがて最後の生け贄の息の根を止め、彼らのみが知り崇める怒りと復讐の神のために、この大殺戮を成就させた」(マゾッホ「魂を漁る女・第二部・26・P.544」中公文庫)

マゾッホは「この大殺戮」と書く。集められた二十一人が続々と処刑されていく血塗れの光景。しかし「たった二十一人でしかない」ということもロシアの代表的知識人の一人であるマゾッホにはよくわかっていた。作品の設定としては大袈裟な残忍さを精一杯演出させたわけだ。一方で血と快楽に陶酔する生贄の儀式は、他方でどこか冷淡で自動機械を思わせる処刑方法を取る。ドラゴミラの身振りは、一方で亡びゆく村落共同体の生々しい信仰生活を、他方で機械仕掛けの合理性に貫かれた資本主義的生産様式の両方を同時に照らし上げる映し鏡にほかならない。

「魂を漁る女」発表は一八八六年。その十五年前、フランスのパリ・コミューン軍事衝突でコミューン側の死者数は約三万人。それに比べてほとんど知られていないが同年ロシア軍は清朝編入されていたイリ地方を軍事制圧。清朝は徐々に軍事的巻き返しを図り、結果的に古くから同地域の住民の多くを占めていたイスラム教徒は数千人の死者を出している。また一八七七年〜翌一八七八年に渡った露土(ロシア=トルコ)戦争でのロシア側死者数約二万人。また「魂を漁る女」発表の三年後にあたる一八八九年、ロシア皇帝アレクサンドル三世は地方部長制度を設立、中央政府が任命した貴族が地方部長となり全国各地の農民の裁判権や行政権を貴族に集中させ、翌年地方自治法改定により農民階級は地方議会議員選出のための直接選挙制を剥奪された。一八六一年から始まった農奴解放令と土地売買自由化は農民の小作農化・農業労働者化を押し進め、工業労働者の激増とともに一八九〇年代にかけて資本主義的大経営体制を加速させた。

生贄の歴史的資料について若干引いておこう。

カフカス地方東部のアルバニア人は『月』の神殿に聖なる奴隷を数多く囲い、その中の多くの者が霊感を受けて予言を行った。ひとりがいつも以上に霊感の兆しを見せ、ちょうど密林を彷徨うゴンド族の男のように、森をひとりであちこちうろつきまわると、大祭司が彼を聖なる鎖で拘束し、一年間彼に贅沢な暮らしをさせる。一年が終わると彼は軟膏を塗られ、生贄として引き出される。そして、このような人間の生贄を殺すことが仕事となっている男、経験によってこれが手馴れたものとなっている男がひとり、群衆の中から進み出て、聖なる槍で生贄の脇腹を刺し、心臓を一突きにした。殺される男の倒れ方によって、国の繁栄の吉凶を占ったのである。その後遺体はある場所に埋められ、清めの儀式としてすべての人々がその上に立った。この最後の行為は明らかに、人々の罪がこの生贄に移し替えられたことを示している」(フレイザー金枝篇・下・第三章・第十五節・P.256~257」ちくま学芸文庫

極めてアニミズム的な色彩が見られる。生贄はただちにスケープゴートとして取り扱われている。

「害悪の一掃が定期的に行われるようになる場合、この儀式は概して一年に一度ということになり、それが行われる時期は通常、北極帯や温帯の地域では冬の終わり、熱帯地域では雨季の始まりか終わりといった、はっきりとした季節の変わり目になる。こういった天候の変化は、とくに食糧事情や衣料事情や住宅事情の悪い蛮族にとっては死亡率の上昇をもたらしがちであり、この事態を未開人は悪霊の仕業と考えることになる。ならば悪霊こそ追い払うべきものである。そこでニューブリテン島やペルーでは、悪魔は雨季に始まり追い出される。あるいはかつてはそうであった」(フレイザー金枝篇・下・第三章・第十五節・P.257~258」ちくま学芸文庫

フレイザーは、ギニア、トンキン、ラサ、ホー族、イロクォイ族など、広く行われていたスケープゴートの登場する儀式に特有の「公的・定期的」性格について述べる。

「公的・定期的悪魔祓いは、一般に全住民の放埒三昧の期間に、先行もしくは後続する」(フレイザー金枝篇・下・第三章・第十五節・P.258」ちくま学芸文庫

スケープゴートの必要性並びに機能について。

「なぜ人々の罪や悲しみをその身に引き受ける者として死にゆく神が選ばれねばならなかったか、という疑問については、スケープゴートとして聖性を用いる慣習において、かつて明確に別個のものとしてあった二つの風習が、結びついてしまったという可能性を考えることができる。一方では、すでに見たように、人間もしくは動物の神を殺すという風習は、その聖なる命を年齢ゆえの衰弱から救うことが目的であった。一方で、これもすでに見たように、一年に一度罪や害悪を全面的に追放するという風習があった。そして、人々がたまたまこの二つの風習を結びつけてしまうと、死にゆく神をスケープゴートとして雇うという結果になる。これが殺されるのは、元来は罪を拭い去るためではなく、老齢による衰弱からその聖なる命を救うことを目的としていた。しかし、ともかくも彼は殺されねばならないのだから、人々はこの機会に、罪や苦しみという自分たちの重荷を、いっそ彼に背負わせてしまおうと考えたのかもしれない。この男ならば、墓場を越えた見知らぬ世界まで、その重荷を運んで行ってくれそうだからである」(フレイザー金枝篇・下・第三章・第十五節・P.260」ちくま学芸文庫

古代ギリシアもまた文明化されてくると実際に生きている国王をスケープゴートとして殺害するわけにはいかなくなる。するとその代理として殺害される者は死刑囚の中から選ばれるようになった。死刑囚ほどの人間は人間でありながら同時に実在する「過剰=逸脱」の体現者として考えられたからだろう。

「聖なる存在をスケープゴートとして用いることは、以前述べた。『死神の追放』というヨーロッパの習俗にまつわる曖昧な部分を、消し去ってくれる。この儀式において『死神』と呼ばれるものが、本来は植物霊であったと考える根拠はすでに述べた。この植物霊は、再び若い活力を備えて蘇るようにと、毎年春に殺されたのだった。だが、すでに見たように、この仮説だけでは説明不可能なある種の特徴が、この儀式にはある。『死神』の像が運び出されて埋葬され、もしくは焼かれる際の、歓喜という特徴、そしてまたその担ぎ手たちが見せる、恐怖と憎悪という特徴である。だが、『死神』は単に植物の死にゆく神であるのみならず、同時に、過去一年の間に人々を苦しめた一切の害悪が負わせられる、公共のスケープゴートでもある、と考えれば、これらの特徴は即座に理解可能なものとなる。このような機会に歓喜が伴うのはもっともなことである。そして、死にゆく神が恐怖と憎悪の対象であるように見えたとしても、それは正確には神に対するものではなく、神が負わされている罪と不幸に対するものであって、その恐怖と憎悪は単に、荷を追う者とその荷を区別することが難しい、あるいは少なくとも、両者の違いをはっきりと目にすることが難しい、という原因によるものである。重荷が不吉な性格のものであれば、その担ぎ手は、それら危険物の特性をわが身に染み込ませているぶんだけ、恐れられ、また遠ざけられる。彼はたまたまその媒体となったに過ぎない。ーーーまた、これらの風習において、『死神』が聖なる植物霊を表すのみならずスケープゴートでもあるという見解は、この追放がつねに春に行われ、それもおもにスラヴ民族によって行われるという事実からも裏付けられる。スラヴの一年は春に始まるからである」(フレイザー金枝篇・下・第三章・第十五節・P.261~262」ちくま学芸文庫

全住民の放埒三昧の期間を含むギリシアの祭祀は中世に入ってもなおしばらくは開催されていたようだ。スラヴ地域もその色合いが濃かったわけだが、同時に信仰生活は日常生活の環境要因に根付いたものであり、そのぶん近代合理性と土着的で非合理的な要素の衝突は起こるべくして起こってきた。スケープゴートの風習は文明化後もギリシアでは長く続いた。

ギリシアの植民地の中でもっとも賑やかで華やかな町マッサリアマルセイユ)が疫病に襲われたときは、つねに貧民階級の男がひとり、スケープゴートとしてわが身を捧げた。彼はまる一年間公費で養われ、選り抜きの清い食事を与えられた。そして期限が来ると、神聖な衣装を着せられ、聖なる枝葉で飾られ、人民のすべての害悪がこの男の上に下るようにと祈りが唱えられるなか、町中を連れ回された。そしてこの町から追い出されたのである。アテナイ人はつねに大量の堕落した無用な人間たちを公費で養っていた。そして疫病や旱魃や飢饉といったなんらかの災難が町を襲うと、これらの浮浪者の中から二人をスケープゴートとして生贄に捧げた。ひとりは男たちのため、ひとりは女たちのために捧げられた。前者は首に黒いイチジクを通した紐を、後者は白いイチジクを通した紐を巻いた。ときには女たちのために殺される生贄が、女となることもあったらしい。生贄は町を連れ回された後に殺されるが、町の外で、石で殺されたように思われる」(フレイザー金枝篇・下・第三章・第十五節・P.264~265」ちくま学芸文庫

しかし一人の人間を神格化するために一年間も養うのは費用がかさんでくる。それを考えると古代の未開集落で行われていたシャーマニズムはもっと手っ取り早い方法だったかもしれない。孤立、苦行、追放、神格化といった一連の流れは歴史以前的社会から存在していた。

「シャーマンになろうとする者は、奇妙な行動によって人目をひくようになる。いつも夢見がちになる、孤独を求める、森や荒地を好んで徘徊する、ヴィジョンを見る、眠りながら歌を歌う、等々である。ときには、こうした準備期はかなり激しい症状で特徴づけられる。ヤクート人のあいだでは、そうした若者は性格が狂暴になり、容易に意識を失い、森にひきこもり、木の皮を食らい、水や火の中に飛び込み、ナイフで身体に傷をつけたりする。世襲シャーマンの場合でも、シャーマン候補者が選定される前には、その者になんらかの行動の変化が見られる。祖先のシャーマンの魂が、一族中からある若者を選ぶ。すると、その若者はぼんやりした状態になり、夢見がちになり、孤独を求めるようになり、預言的なヴィジョンを見たり、ときには意識を失うほどの発作を起こす。この失神のあいだ、ブリヤート人の言うところでは、魂は精霊に拉致されて神々の宮殿に迎えられるのである。魂はそこで、祖先のシャーマンからシャーマン職の秘密や神々の姿と名前、精霊の名前とその儀礼等について教えを受ける。この最初のイニシエーションがすんで、ようやく魂は肉体に戻ることができる」(エリアーデ世界宗教史5・P.40」ちくま学芸文庫

こうした方法が世界各地に残っていたことは、すでに古代ギリシア神話の中に登場する最初期の神々が演じている様々な行為が実際にあったのであって、それに事後的な修正が加えられつつ、こんにちの祭祀の形で今なお反復されているということなのだろう。

とはいえ、エリアーデにしてもフレイザーにしてもその採集・報告の多様性にもかかわらず、取り扱われている資料はどれも皆あっさりしている。古代ギリシア=ローマ時代の「ディオニュソス祭=サトゥルヌナリア祭」は熱狂的祝祭の理想的モデルとして取り上げられているにせよ、十九世紀後半に突如発生しマゾッホが文学作品化した近代スラヴ地域異端信仰におけるドラゴミラの場合のような狂信的情念の躍動ではない。では一体それはいつどこで世界史の中へ入ってきたのか。第一にキリスト教の世界化が前提にある。第二に近代社会の成立=資本主義の世界化に伴って出現した点が上げられる。とりわけスラヴ地域で大量発生し絶え間ない宗教殺人が続出した。さらにマゾッホがモデルとしたガリーシャ地方(ウクライナからハンガリー東端部)の神秘主義教団の惨劇などは、第一と第二の条件にスラヴ地域古来の「森の聖霊信仰」という土着の宗教観が混交しつつもしかし、結果的に相容れることなく当事者たちはダブルバインド状況に叩き込まれたまま狂信化せざるを得ず、また国家自身がそのような状況を軍事的=警察的圧殺を用いてしか乗り越えることができなかった近代という痛ましい社会的過程の挫折の一つだったと考えることができるだろう。

BGM