説話の舞台は「河原院(かはらのゐん)」。平安時代半ば既に住人はいなくなり荒れ果てて廃屋化していた頃。
「河原院(かわらのいん)」。北は平安京を東西に走る「六条坊門小路(ろくじょうぼうもんこおじ)」。当時の道幅は約十二メートル。現在位置は今の五条通(ごじょうどおり)に当たる。南は「六条大路(ろくじょうおおじ)」。今の下京区六条通(ろくじょうどおり)に当たるが、六条通の名が残るのは河原町通から堀川通に至る区間のみ。さらに、東は「東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)」。ほとんど聞かれない名前だが今の寺町通(てらまちどおり)に当たる。北上すれば京都市役所本庁舎西端を過ぎ、さらに京都御苑の東端を通る。西は「万里小路(までのこおじ)」。当時の道幅は約十二メートル。今の柳馬場通(やなぎのばばどおり)に当たる。もっとも、「万里小路(までのこうじ)」は平安京の南端・九条通(くじょうどおり)まであったはず。が、五条通以南は都市開発が激しく繰り返されたため今や跡形もない。また平安時代前半は鴨川がしょっちゅう氾濫していたようで、おそらく「河原院(かわらのいん)」は当時の平安京の最東端に位置したと考えられる。すぐそばの鴨川河川敷は「六条河原(ろくじょうがわら)」といって長く刑場として利用された。古代から中世にかけての常識として、或るテリトリーと他のテリトリーとの境界線の一つに刑場の設置が上げられるというケースに相当するだろう。
或る時、名誉ある爵位を買うため東国の赴任先から京へ上ってきた官僚一行がいた。夫とその妻とを中心に馬に乗り、従者らを引き連れている。妻は京(みやこ)見物を兼ねて同行したらしい。金銭で爵位が買える地方官僚といえば今でいう都道府県知事クラスである。さて、何か行き違いでもあったのか当てにしていた宿舎に泊まることができず、ちょっとした縁を頼って管理人に会い、旧邸宅と化している「河原(かはら)ノ院(ゐん)」を借りることにした。荒廃してはいるが住人はおらず、そもそも一時の仮の宿舎である。上京してきた主人は邸宅内の人目に付きにくい場所を選び、その南面にだけ庇(ひさし)を付けた部屋を囲む形で幕を巡らしてしばらく居付くことにした。
「河原(かはら)ノ院(ゐん)ノ、人モ無カリケルヲ、事ノ縁有(あり)テ、其ノ預(あづかり)ノ者ニ語(かたら)ヒテ借(かり)ケレバ、借(か)シテケレバ、隠レノ方(かた)ノ放出(はなちいで)ノ間(ま)ニ、幕(まく)ナド云フ物ヲ引廻(ひきめぐら)シテ主(あるじ)ハ居ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十七・121」岩波書店)
従者らは土間に馬を繋いで世話をしたり食事の支度にかかる者もいた。そんなふうに過ごし始めて数日経った。或る日の夕暮時、夫のいる庇の間と隣室とを繋ぐ妻戸(つまど=開き戸)が突然開いた。隣室に誰かいるのだろうと思っていると、何者とも知れぬ物の手だけがにゅっと出てきた。手は素早く妻を掴まえると妻戸の内側に引っ張り込んでしまった。慌てた夫は妻を追って妻戸を開けようとして扉を引けども引けども、たちまち閉じてしまった扉はもうまったく開こうとしない。
「夕暮方ニ、其ノ居タリケル後ノ方ニ有ケル妻戸(つまど)ヲ、俄(にはか)ニ内ヨリ押開(おしあけ)ケレバ、内ニ人ノ有(あり)テ開(あく)ルナメリト思フ程ニ、何(な)ニトモ不思(おぼ)エヌ物ノ、急(き)ト手ヲ指出(さしいで)テ、此ノ宿(やどり)タル妻(め)ヲ取(とり)テ、妻戸ノ内ニ引入(ひきいれ)ツレバ、夫驚(おどろ)キ騒(さわぎ)テ引留(ひきとど)メムト為(す)レドモ、程モ無ク引入(ひきいれ)ツレバ、怱寄(いそぎより)て妻戸(つまど)ヲ引開(ひきあ)ケムト引ケドモ、程無ク閉(とぢ)ツレバ、不開(あか)ズ成(なり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十七・121」岩波書店)
河原院はもともと寝殿造。その場合妻戸は東西南北の四箇所に設置されている。夫はいずれの箇所の扉も精一杯引き開けようと奮闘した。さらに格子や引き戸など単なる隙間に過ぎないところも開かないものかと試してみたが一度閉じた扉は一向に開く様子を見せない。もっとも、掛金は内側から掛けてあるため外側から開けようとしても開くはずがあろうか、と思いもする。
「皆内ヨリ懸(かけ)タレバ、開(あ)カムヤハ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十七・121」岩波書店)
そこで近くの民家へ助けを求めて走り回ってみると、近所の人々がどやどやと集まってきた。周囲は荒れているというものの人っ子一人住んでいないわけではなく、名も無い人々は最底辺生活を営みつつ結構暮らしている。どこか開いていそうなところはないかと皆で河原院をうろうろ探ってみた。しかし開いている箇所はどこにもない。そのうち夜になった。
夫は考えあぐねた末、とうとう斧を持ち出してきた。妻が引きずり込まれた部屋目がけて思い切り斧を振り下ろし、扉を叩き割った。そして灯火で内部を照らし出してみると、どうすればこういうことになるのかさっぱりわからない風景が目に入った。妻は擦り傷一つ負っていない。ただ、普段は着物を掛けておく棹に妻の体がぶら下げられて死んでいた。話を聞いた人々は「鬼ノ吸殺(すひころし)テケルナメリ」と噂し合った。
「夜ニ入(いり)テ暗ク成ヌ。然レバ、思ヒ繚(あつかひ)テ、𨨞(をの)ヲ持(も)テ切開(きりひらき)テ、火ヲ燃(とも)シテ内ニ入(いり)テ求メケレバ、其ノ妻(め)ヲ何(いか)ニシタルニカ有(あり)ケム、疵(きず)モ無クテ、棹(さを)ノ有(あり)ケルニ打懸(うちかけ)テナム、殺シテ置(おき)タリケル。鬼ノ吸殺(すひころし)テケルナメリトゾ、人々口々ニ云ヒ合(あひ)タリケレドモ、甲斐(かひ)無クテ止(やみ)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十七・第十七・121」岩波書店)
柱の穴から手が出てきて人を呼び招く説話は前に「巻第二十七・桃園柱穴指出児手(ものぞののはしらのあなよりさしいづるちごのて)、招人語(ひとをまねくこと)・第三」で述べた。さらに「放出(はなちいで)ノ間(ま)」について、上東門院(じょうとうもんいん=藤原彰子)が京極殿(きょうごくどの=藤原道長の邸宅)で出産準備に入っていた時、その「放出(はなちいで)ノ間(ま)」で和歌を吟じる謎の声が響き渡った説話も前に「巻第二十七・於京極殿(きやうごくどのにして)、有詠古歌音語(ふるうたをながむるこゑあること)・第二十八」で述べた。しかし今回引いた説話はそのどれともほとんど関係がないように思える。熊楠は古典の中で「魂」がよろよろと出入りする箇所を幾つか挙げて論じているが、古人の価値観から言えば「魂」はしっかり「魂結び」しておける場合もあればそうでない場合もある点に興味を示している。前者はこう。
「『伊勢物語』に、情婦の許より、今霄夢になん見え給いつると言えりければ、男、
思ひ余り出でにし魂(たま)のあるならん、夜深く見えば魂結びせよ
と詠みし、とあり」(南方熊楠「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」『南方民俗学・P.262』河出文庫)
後者は「日本書紀・巻十一」に掲載されており熊楠は次のようにいう。
「大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)自殺して三日なるに、みずから髪を解き屍に跨り三呼せしに、太子蘇り、用談を果たして薨じたまえる由を載す。ただし、魂を結び留めしこと見えず」(南方熊楠「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」『南方民俗学・P.264』河出文庫)
ところで妻を殺された夫は今以上の爵位を貨幣で買うためにわざわざ東国から京へ上って来た。一方、鬼はその妻を「吸殺(すひころし)」て消え去った。何を吸ったのか。「魂」だというほかない。死体には傷一つ残されていなかったのだから。そこで考えたいのは夫が用意してきた貨幣だが、それは上位の爵位に変化するはずだった。一方、妖怪〔鬼・ものの怪〕も貨幣同様、他の何にでも変態可能であることを特徴とする。
この説話の場合、一方に地方官僚が用意した一定程度の貨幣がある。他方、他の何物にでも変態可能な妖怪〔鬼・ものの怪〕がいる。地方官僚は貨幣を差し出す直前である。妖怪〔鬼・ものの怪〕の側は差し出されるはずの貨幣を見てそれと等価性を持つと考えられる他のものとの交換関係を取り結ぶ。妖怪〔鬼・ものの怪〕は或る一定程度の貨幣を見てその等価物を目の前に見出したと考えられる。それこそ夫に付いて京(みやこ)見物でもしようと思っていた妻の魂だったと思われるのである。貨幣は今まさに他人の手に渡ろうとしている。その直前、僅かの差で妖怪〔鬼・ものの怪〕はその貨幣価値と同等のものを「吸殺す」ことで返答に置き換えた。妖怪〔鬼・ものの怪〕がとっさに成し遂げたことは何か。二箇所引いておこう。第一にマルクスから。資本主義は間違っても「魂」とは言わない。「労働力」という。
「彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)
第二にニーチェから。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)
ニーチェの場合、「《債権者》と《債務者》との間の契約関係」だけでなく、そもそも「売買とは何か」という問いを含んでいる点に注目したいと思う。とすると、この鬼は地方官僚が持参した貨幣に対して「その妻の《死を与えた》」と言うことができる。既に商品交換は済んでいる。「子殺し・親殺し」は日常茶飯事でありなおかつ「人身売買」が常識だった時代のエピソードだ。鬼は何らの勘違いも犯していないと十分に言えるだろう。
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