Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

Blog21への序章7

放浪の旅の長期化の要因が同僚たちの劣等感(ルサンチマン)から果てしなく湧き起こってくる讒言(ざんげん)・陰口(かげぐち)だったためだろう、打ち続く漂泊の旅も鬱屈した心情ばかりで虚空を彷徨っているかのような状態に陥る。激しく憔悴し心身ともに枯れ木のように脆くなってきた。

屈原既放 遊於江潭 行吟澤畔  顔色憔悴 形容枯槁

(書き下し)屈原(くつげん) 既(すで)に放(はな)たれ 江潭(こうたん)に遊(あそ)び、顔色(がんしょく) 憔悴(しょうすい)し、形容(けいよう) 枯槁(ここう)す  

(現代語訳)屈原(くつげん)は宮廷から放逐されると、水辺を彷徨(さまよ)い、詩を吟じつつ水沢地帯を歩いていた その顔色は憔悴し、姿かたちからは生気が失われていた」(「楚辞・漁夫 第七・P.417」岩波文庫

「楚辞」の「漁夫」は「漁師」ではなくて「隠遁者」のこと。だから「水辺を彷徨(さまよ)い」とあるのは「漁夫=隠遁者」との対話形式で語られる章を意味する。

「衆人皆醉 我獨醒 是以見放

(書き下し)衆人(しゅうじん) 皆(み)な酔(よ)いて、我(われ) 独(ひと)り醒(さ)む 是(ここ)を以(も)って放(はな)たる

(現代語訳)人々がみな酔っぱらっている中で、わたし一人が醒めている さればこそ追放されたのだ」(「楚辞・漁夫 第七・P.418~419」岩波文庫

王族と周囲の高級官僚たちが自分の地位と権力という名の「酔い」に身を任せながら政治を執り行っている。自分もまた泥酔して踊っている場合だろうか。そう思って醒めた気持ちを抱いていると逆に国外追放されたというもの。

「寧赴湘流 葬於江魚之腹中 安能以皓皓之白 而蒙世俗之塵埃乎

(書き下し)寧(むし)ろ湘流(しょうりゅう)に赴(おもむ)き、江魚(こうぎょ)の腹中(ふくちゅう)に葬(ほうむ)らるるも 安(いず)くんぞ能(よ)く皓皓(こうこう)の白(しろ)きを以(も)って、世俗(せぞく)の塵埃(じんあい)を蒙(こうむ)らんや

(現代語訳)たとえ湘水(しょうすい)の流れに身を投じ、魚の餌となって身を亡ぼすことになるとしても輝くような純白が世俗の塵埃に汚されることに、どうして耐えられよう」(「楚辞・漁夫 第七・P.421」岩波文庫

水辺の隠遁者は隠遁者ならではの生活態度を勧める。しかし政治に関わる者としてそう簡単に徹底的隠遁生活を選択するわけにはいかない。例えば「論語」では、世の中全体が洪水のような乱れ方を呈している時にただ一人立ち向かっても馬鹿馬鹿しい。どうせ隠遁するなら孔子のような態度で歩き回っているよりもいっそのこと世の中全体から隠遁してしまってはどうか、と勧められる箇所がある。しかし屈原はそこまでとことん逃げ去ってしまう態度もまたどうかと首をひねらざるを得ない。

「收恢炱之孟夏兮

(書き下し)恢炱(かいたい)の孟夏(もうか)を収め

(現代語訳)生命(いのち)に溢れた夏の始めの盛んさは失われ」(「楚辞・九辯 第八・P.435~437」岩波文庫

この「九辯」の章はもう屈原の死後の作品とされる傾向が通例。というのは、例えば一つに「史記」の記述がある。

屈原が死んでしまった後、楚の国に宋玉(そうぎょく)・唐勒(とうろく)・景差(けいさ)らの人びとがあって、みな文辞をよくし、賦(ふ)の作者として名を知られた。けれどもすべて屈原の平静な美文を師として、率直な諫(いさ)めとする者は、いつまでもなかったのである。そののち楚の国は削りとられて数十年、あげくのはては秦に滅ぼされた」(「屈原・賈生列伝・第二十四」『史記列伝2・P.109』岩波文庫

屈原の後継者と見なされた「宋玉(そうぎょく)」によるものでは、と言われている。また他にもおそらく宋玉によるものとする研究者が多い。なるほどこの章から後は文章に冗漫な飾りが見受けられるのは確か。しかし思いも寄らなかった効果が後から出現した。宋玉(そうぎょく)の手によるものであるにもかかわらず、ではなく、宋玉(そうぎょく)の手によるがゆえにかえって師・屈原の言おうとしていた精神が煌々と輝いて語られることになったという逆説である。宋玉は弟子の中でも第一というべき高弟であり、むしろそれゆえ自らの保身に走って師を裏切ったことになるが、その後ろめたい気持ちをひた隠しに隠そうとしたため、より一層派手に屈原の態度をこれ以上ないほど立派に書きまくることになってしまった。後ろ暗い「負い目」が生んだ美文といった感じか。それはそれとして「九辯」は「九辯・九歌」から引き継がれたタイトル。「山海経」に見えるものと同じ。

「名は夏后開(啓)。開は三人の女官を天帝にたてまつり、九弁と九歌(楽名)を手に入れて(天から)かえった」(「山海経・第十六・大荒西経・P.165」平凡社ライブラリー

要するに天上の詩歌・音楽というわけである。そう考えると屈原は実際、天上に召されてしまった、と後から事実を言ってしまっていると取れるだろう。

「何今俗之工巧兮 背縄墨而改錯 却騏驥而不乗兮 策駑駘而取路

(書き下し)何(なに)ぞ時俗(じぞく)の工巧(こうこう)なる、縄墨(じょうぼく)に背(そむ)きて改(あらた)め錯(お)く 騏驥(きき)を却(しりぞ)けて乗(の)らず、駑駘(どたい)に策(さく)して路(みち)を取(と)る

(現代語訳)なんといまの世の人々の処世の巧みなことよ、設計図を無視して部材を配置し駿馬は退けて乗らず、駑馬(どば)を鞭打って、しゃにむに進もうとする」(「楚辞・九辯 第八・P.441~445」岩波文庫

ここも「楚辞」ならではの思想的原則が述べられている。第一章「離騒」で次のようなほぼ同様の文章が見られる。

「背縄墨以追曲兮 競周容以爲度

(書き下し)縄墨(じょうぼく)に背(そむ)きて以(も)って曲(きょく)を追い 競(きそ)いて周容(しゅうよう)するを以(も)って度(ど)と為(な)す

(現代語訳)墨縄(すみなわ)による直線は無視して、曲がった方向へと歩を進め 互いに馴れ合うことを生き方の基本としている」(「楚辞・離騒 第一・P.37」岩波文庫

馴れ合い政治。それが結果的に国家を破滅させてしまう。讒言(ざんげん)を放ち流言蜚語(りゅうげんひご)を撒き散らす臣下ばかりを登用し、逆に本当に実力のあった屈原を追放した楚も例外なく滅亡した。

「願皓日之顯行兮 雲濛濛而蔽之

(書き下し)皓日(こうじつ)の顕行(けんこう)を願(ねが)うも、雲(くも) 濛濛(もうもう)として之(こ)れを蔽(おお)う 

(現代語訳)白日のごとく輝かしく行動することを願っても、もくもくとした雲がそれを覆ってしまう」(「楚辞・九辯 第八・P.454~455」岩波文庫

鬱屈の程度も並でなく投身自殺するほかなかった屈原の心の中が見えてきそうだ。

「驂白霓之習習兮 歷群靈之豐豐 左朱雀之茇茇兮 右蒼龍之躍躍 屬雷師之闐闐兮 通飛廉之衙衙

(書き下し)白霓(はくげい)の習習(しゅうしゅう)たるを驂(さん)とし、群霊(ぐんれい)の豊豊(ほうほう)たるを歴(ふ) 朱雀(しゅじゃく)の茇茇(はつはつ)たるを左(ひだり)にし、蒼龍(そうりょう)の躍躍(やくやく)たるを右(みぎ)にす 雷師(らいし)の闐闐(てんたん)たるを属(つら)ね、飛廉(ひれん)の衙衙(ぎょぎょ)たるに通(つう)ぜしむ

(現代語訳)意気盛んな白い霓(にじ)を副(そ)え馬とし、数限りない神々のもとを遍歴すべく出立いたします 高く飛ぼうとする朱雀(すじゃく)を左に配し、駆けだそうとする蒼龍(そうりょう)を右に配してゴロゴロ鳴る雷神を後に従え、快足の風神には道案内をさせます」(「楚辞・九辯 第八・P.462~464」岩波文庫

もうこの世とはおさらばするしかないと決めた屈原。どこへ向かうのか。「群靈之豐豐」=「数限りない神々のもと」へ。「飛廉(ひれん)」=「風神(ふうじん)」が連れて行ってくれるだろうと。

このように見るも無惨な「政・財・官」の世の中に陥ってしまったのには理由がある。極めて単純かつ露骨な理由が。昔、「伯封(はくほう)」という名の「豕(ぶた)のように貪欲、非道」な無駄に放蕩に耽る馬鹿息子がいた。そのため一族は滅亡し、その父・后夔(こうき)が積み重ねてきたすべての遺産も無意味なものと考えられてしまい、「祀られなくなりました」。

「昔、有仍(ゆうじょう)氏に女(むすめ)が生まれ、髪は黒々として美しく輝き、鏡にして映せるほどだったので、『玄妻』と名づけられました。楽正(楽官)の后夔(こうき)がこれを妻に迎えて、伯封(はくほう)が生まれた。が、これが豕(ぶた)のように貪欲、非道に限りがないので、『封豕(ほうし)』(大豚)とよばれ、有窮(ゆうきゅう)の后羿(こうげい)が〔有仍氏を〕滅ぼすと、以後、夔(き)も祀られなくなりました」(「春秋左氏伝・下・昭公二十八年・P.286」岩波文庫

そしてまた、どこへ行っても、そういうことには事欠かない世の中へ加速していると思うほかない。

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