Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

Blog21・皇剡剡(こうえんえん)の系譜

「楚辞」に次の文章がある。

「百神翳其備降兮 九嶷繽其竝迎 皇剡剡其揚靈兮 告余以吉故

(書き下し)百神(ひゃくしん)翳(おお)いて其(そ)れ備(とも)に降(くだ)り 九嶷(きゅうぎ)繽として其(そ)れ並(なら)び迎(むか)う 皇剡剡(こうえんえん)として其(そ)れ霊(れい)を揚(あ)げ 余(われ)を告(つ)ぐるに吉故(きつこ)を以(も)ってす

(現代語訳)〔巫咸に従う〕多くの神々が、空を覆わんばかりにして、そろって降下し九嶷山(きゅうぎさん)の神々は、みんなして、それを迎えた 〔巫咸は〕きらきらと輝きつつ、その霊能を発揮すると わたしに、新しい出発が吉であると告げた」(「楚辞・離騒 第一・P.83~84」岩波文庫

古代シャーマニズム特有の現象「皇剡剡其揚靈」=「皇剡剡(こうえんえん)として其(そ)れ霊(れい)を揚(あ)げ」=「〔巫咸は〕きらきらと輝きつつ、その霊能を発揮する」。仏教輸入とその定着以後、それは古代中国のみならず日本でもまた「鬼道(きどう)」として排斥されていく。倭国(日本)で最初に鬼道の専門家として部族国家を治めたのは女性であり、「卑弥呼(ひみこ)」と呼ばれた。

「名づけて卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす」(「魏志倭人伝」『魏志倭人伝・P.49』岩波文庫 一九五一年)

卑弥呼がシャーマンだったことはもはや常識。様々な伝説がまとわりついて今なお語り継がれているけれども、その「気高さ」は世界の他の地域で見られたシャーマニズムの祭祀に共通している。「楚辞」の用語を借りれば「靈偃蹇兮姣服 芳菲菲兮滿堂」=「神が憑依した巫女は、気高くも、身に着けた服飾をきらきらと輝かせ 芳香が建物いっぱいに広がる」となる。

「靈偃蹇兮姣服 芳菲菲兮滿堂

(書き下し)霊(れい) 偃蹇(えんけん)として姣服(こうふく)し 芳(かお)り 菲菲(ひひ)として堂(どう)に満(み)つ

(現代語訳)神が憑依した巫女は、気高くも、身に着けた服飾をきらきらと輝かせ 芳香が建物いっぱいに広がる」(「楚辞・九歌 第二・P.111~112」岩波文庫

当時、祭祀というものは古代ギリシア神話にあるとおり、祭りにせよ葬いにせよ、いずれも歌舞音曲が付き物だった。「後漢書」の「倭(わ)」の条にこうある。「当類(とうるい)」は死者の親族。死者の亡骸(なきがら)を家に留めている間、歌舞を奏して皆で踊る。また「骨を灼(や)きて以(も)って卜(ぼく)し」とあるのは、古代中国の殷代からあった骨占い・太占(ふとまに)のこと。

「其(そ)の死には喪(なきがら)を停(とど)むること十余日、〔死者の〕家人は哭泣(こくきゅう)して酒食を進めざるも、当類(とうるい)就(つ)きて歌舞し楽(がく)を為(な)す。骨を灼(や)きて以(も)って卜(ぼく)し、用(も)って吉凶を決す」(「後漢書・倭(わ)」『倭国伝・P.27』講談社学術文庫 二〇一〇年)

歌舞音曲がどのようなものだったかは「楚辞」にこうある。

「羌聲色兮娛人 觀者憺兮忘歸

(書き下し)羌(ああ) 声色(せいしょく)の人(ひと)を娯(たの)しましむ 観(み)る者(もの) 憺(たん)として帰(かえ)るを忘(わす)る

(現代語訳)ああ、音楽と美人たちの舞いとが人の心を魅了することよ それを観る者たちは、時間を忘失し、帰ることを忘れてしまう」(「楚辞・九歌 第二・P.151~153」岩波文庫

三国時代東北アジアでは大興安嶺(大シンアンリン山脈)の東に「夫余(ふよ)」という国があった。「天」を祭っていたとあるので仏教はまだ浸透していない。神仙思想が主流だったようだ。戦争になると「諸加(しょか)」=「貴族」が先頭に立って戦ったが、死者が出た場合、「人を殺して徇葬(じゅんそう)せしめ」るのが通例だった。殉死の風習だが多い時には百人を殉死させたとある。

「軍事有るときも亦(ま)た天を祭り、牛を殺し蹄(ひづめ)を観(み)て以(も)って吉凶(きっきょう)を占い、蹄の解けたるは凶と為(な)し、合いたるは吉(きち)と為(な)す。敵有れば、諸加(しょか)自(みずか)ら戦い、下戸(げこ)は倶(とも)に糧(かて)を担(にな)いて之(これ)に飲食せしむ。其(そ)の死するときは、夏月には皆(みな)氷を用う。人を殺して徇葬(じゅんそう)せしめ、多きは百もて数う」(「三国志・夫余(ふよ)」『倭国伝・P.39』講談社学術文庫 二〇一〇年)

日本でも垂仁天皇二十八年に殉死禁止の詔勅が出ている。その時はまだ残っていた。卑弥呼が死んだ時も百余人が殉死したとある。

卑弥呼以て死す。大いに冢(ちょう)を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人」(「魏志倭人伝」『魏志倭人伝・P.53』岩波文庫 一九五一年)

さて朝鮮半島高句麗三国時代には倭国同様「鬼神」を祀るシャーマニズムが主流だったようだ。「霊星(れいせい)・社稷(しゃしょく)を祀(まつ)る」の「霊星(れいせい)」は農耕を司る星を意味し、「社稷(しゃしょく)」は土着の農耕の神のこと。

「其(そ)の俗は食を節し、好みて宮室を治(おさ)む。居(す)む所の左右に於(お)いて大屋を立て、鬼神を祭り、又(また)霊星(れいせい)・社稷(しゃしょく)を祀(まつ)る」(「三国志高句麗」『倭国伝・P.45』講談社学術文庫 二〇一〇年)

朝鮮半島東海岸に沿って「濊(わい)」と呼ばれる地域があった。その信仰は山や川の神を尊ぶもの。暁方の星を望みその年の収穫を予測する。毎年十月になると「天」を祀り、飲食歌舞音曲で祝う。この行事を「舞天(ぶてん)」といった。また、虎を神として祭っていた。さらに豹の皮も多く獲れた。虎はアムール・トラ、豹はアムール・ヒョウのこと。百年ほど前までは長白山地域に多数生息していた。今はいずれも絶滅危惧種

「暁(あかつき)に星宿を候(うかが)い、予(あらかじ)め年歳の豊約(ほうやく)を知る。珠玉を以(も)って宝と為(な)さず。常に十月の節を用(も)って天を祭り、昼夜、飲酒歌舞す、之(これ)を名づけて『舞天(ぶてん)』と為(な)す。又(また)虎を祭り、以って神と為(な)す」(「三国志・濊(わい)」『倭国伝・P.73~74』講談社学術文庫 二〇一〇年)

次に「韓(かん)」。朝鮮半島南部(今の韓国)。ここでも鬼神を祀っていた。五月に種蒔きの祭り、十月に収穫祭。「鐸舞(たくぶ)」は大型の鈴を持って舞う雑舞の一種。それでリズムを合わせる。秋の収穫祭には天神を祭る司祭を立ててそれを「天君(てんくん)」と呼ぶ。

「常に五月を以(も)って種(たね)を下し訖(おわ)るや、鬼神(きしん)を祭り、群聚(ぐんしゅう)して歌舞し、酒を飲みて昼夜休(や)むこと無し。其(そ)の舞、数十人倶(とも)に起(た)ちて相随(あいしたが)い、地を踏(ふ)みて低昂(ていこう)す。手足相(あい)応じ、節奏は鐸舞(たくぶ)に似たる有り。十月に農功畢(おわ)るときも、亦(ま)た復(ま)た之(かく)の如(ごと)し。鬼神(きしん)を信じ、国邑には各(おのおの)一人を立てて天神を主祭せしむ。之(これ)を天君(てんくん)と名づく」(「三国志・韓(かん)」『倭国伝・P.82』講談社学術文庫 二〇一〇年)

弁辰(べんしん=韓国南西部)は土地が肥沃で、また死者の葬礼の際は大鳥の羽を飾りつけ、死者が天へ飛翔するよう祈る。

「大鳥の羽を以(も)って死を送り、其(そ)の意は死者をして飛揚せしめんと欲するなり」(「三国志・韓」『倭国伝・P.85』講談社学術文庫 二〇一〇年)

再び倭人について。様々な年中行事が行われていると確認されている模様。旅行にしても外出にしてもすべての言動に関し吉凶を占う習慣がある。先に触れたように「骨を灼(や)いて卜(ぼく)」す風習は残っているが、その時に発する言葉は「令亀法(れいきほう)」のようだとある。「亀」とあるとおり、その割れ目を見て吉凶を占う。

「其(そ)の俗、事を挙げ〔もしくは〕行来(こうらい)に、云為(うんい)する所有らば、輒(すなわ)ち骨を灼(や)いて卜(ぼく)し、以(も)って吉凶を占(うらな)う所を告げ、其(そ)の辞(ことば)は令亀法(れいきほう)の如(ごと)し。火坼(かたく)を視(み)て兆(ちょう)を占う」(「三国志倭人(わじん)」『倭国伝・P.99』講談社学術文庫 二〇一〇年)

なお「令亀法(れいきほう)」について「春秋左氏伝・文公十八年(紀元前六〇九年)」にこうある。

「叔仲恵伯(けいはく=叔彭生)が卜う内容を亀に告げ、卜楚丘(ぼくそきゅう)はこう判じた」(「春秋左氏伝・上・文公十八年・P.391」岩波文庫 一九八八年)

隋の時代に入ると朝鮮半島の地図に「高句麗新羅百済」と見える。倭国も九州の太宰府・奈良の飛鳥が知られる。ちなみに高句麗(高麗)は以前と一貫して鬼神を祀る。葬礼の際には歌舞音曲を奏し、土着の民間信仰も多い。

「死者は屋内に殯(ひん)し、三年を経て、吉日を択(えら)びて葬(ほうむ)る。父母及び夫の喪(そう)に居るには、服は皆(みな)三年、兄弟は三月。初めと終わりには哭泣(こくきゅう)し、葬するときは則(すなわ)ち鼓儛(こぶ)し楽を作(な)して以(も)って之(これ)を送る。埋め訖(おわ)らば、悉(ことごと)く死者の生時の服玩(ふくがん)、車馬を取りて墓側に置き、会葬する者は争い取りて去る。鬼神を敬い、淫祠(いんし)多し」(「隋書・高麗(こうらい)」『倭国伝・P.131』講談社学術文庫 二〇一〇年)

次に「流求国(りゅうきゅうこく)」。琉球(りゅうきゅう=沖縄)のことではなく「台湾(たいわん)」を指す。山の神・海の神を敬う。戦闘の際には殺害した敵を神に捧げ祀る。また山間部が多いからか、樹木の茂った場所を選んで敵の髑髏(どくろ)を晒し箭(や)で射る。また王の住居は多くの髑髏で飾り立てられ尊敬を得る。俗人は人間の髑髏でなく獣類の髑髏を住居の門戸の上に飾って魔除けとする。

「俗は山海の神に事(つか)え、祭るに酒肴を以(も)ってし、闘戦して人を殺し、便(すなわ)ち殺す所の人を将(も)って其(そ)の神を祭る。或(ある)いは茂れる樹に依(よ)りて小屋を起(た)て、或いは髑髏(どくろ)を樹上に懸(か)け、箭(や)を以(も)って之(これ)を射る。或(ある)いは石を累(かさ)ねて幡(はた)を繋(か)け、以(も)って神主(よりしろ)と為(な)す。王の居る所には、壁の下に多くの髑髏(どくろ)を聚(あつ)めて以って佳(よ)しと為す。人間(じんかん)にては、門戸の上に必ず獣頭の骨角を安(やす)んず」(「隋書・流求国(りゅうきゅうこく)」『倭国伝・P.178』講談社学術文庫 二〇一〇年)

日本でも古代から江戸時代一杯を通して馬の髑髏(どくろ)を石塔の中に安置したり家の入口に魔除けとして飾り付ける風習が続いていたことは柳田國男の報告にある。

駿河安倍郡大里村大字川辺ノ駒形神社ノ御正体モ亦(マタ)一箇ノ馬蹄石ナリ〔駿国雑志〕。此ハ多分安倍川ノ流レヨリ拾イ上ゲシ物ニテ、元ハ亦磨墨ノ昔ノ話ヲ伝エ居タリシナラン。此ノ地方ニ於テ磨墨ヲ追慕スルコトハ極メテ顕著ナル風習ニシテ、此ノ村ニモ彼(カ)ノ村ニモ其ノ遺跡充満ス。前ニ挙ゲタリシ多クノ馬蹄石ノ外(ホカ)ニ、安倍川ノ西岸鞠子宿(マリコシュク)ニ近キ泉谷村ノ熊谷氏ニテハ、磨墨ノ首ノ骨ト云フ物ヲ数百年ノ間家ノ柱ニ引キ掛ケタリ。其ノ為ニ此ノ家ニハ永ク火災無ク、且(カ)ツ病馬悍馬(カンバ)ヲ曳キ来タリテ暫(シバラ)ク其ノ柱ニ繋ギ置クトキハ、必ズ其ノ病又ハ癖ヲ直シ得ベシト信ゼラレタリ〔同上〕。之ニ由リテ思ウニ、諸国ニ例多キ駒留杉、鞍掛杉、駒繋桜ノ類ハ恐ラクハ皆此ノ柱ト其ノ性質目的ヲ同ジクスルモノニシテ、之ヲ古名将ノ一旦(イッタン)ノ記念ニ托言スルガ如キハ、此ノ素朴ナル治療法ガ忘却セラレテ後ノ家ノ祖先山ニ入リテ草ヲ刈ルニ、其ノ馬狂ウトキ之ヲ此ノ木ニ繋ゲバ必ズ静止スルニヨリテ、之ヲ奇ナリトシテ其ノ庭ニ移植スト云エリ〔大日本老樹名木誌〕。此ノ説頻(スコブ)ル古意ヲ掬(キク)スルニ足レリ。更ニ一段ノ推測ヲ加ウレバ、此ノ種ノ霊木ハ亦馬ノ霊ノ寄ル所ニシテ、古人ハ之ヲ表示スル為ニ馬頭ヲ以テ其ノ梢ニ掲ゲ置キシモノニハ非ザルカ。前年自分ハ遠州ノ相良(サガラ)ヨリ堀之内ノ停車場ニ向ウ道ニテ、小笠(オガサ)郡相草村ノトアル岡ノ崖ニ僅(ワズ)カナル横穴ヲ堀リ、馬ノ髑髏(ドクロ)ヲ一箇ノ石塔ト共ニ其ノ中ニ安置シテアルヲ見シコトアリ。ソレト熊谷氏ノ磨墨ノ頭ノ骨ノ図トヲ比較スルニ、後者ガ之ヲ柱ニ懸クル為ニ耳ノ穴ニ縄ヲ通シテアル外(ホカ)ハ些(スコ)シモ異ナル点無ク、深ク民間ノ風習ニ古今ノ変遷少ナキコト感ジタル次第ナリ。羽前ノ男鹿(オガ)半島ナドニハ、今モ家ノ入口ニ魔除(マヨケ)トシテ馬ノ頭骨ヲ立テ置クモノアリ〔東京人類学雑誌第百八号〕」(柳田國男「山島民譚集(一)」『柳田国男全集5・P.235~237』ちくま文庫 一九八九年)

同じく日本の訴訟の様子が記されている。自白しない場合、犯罪に問われた者は弓の弦で頸(くび)をぐりぐりと鋸(ひ)かれたりした。一方、判決が決められないようなケースでは、ぐつぐつ沸騰した熱湯の中に両者の手を入れさせ、火傷で爛れた側が嘘を吐いているとされたり、蛇を入れた甕(かめ)に手を突っ込ませて蛇に噛まれた側が嘘つきだとされたらしい。

「毎(つね)に獄訴を訊究(じんきゅう)するに、承引せざる者は、木を以(も)って膝(ひざ)を圧し、或(ある)いは強弓を張りて、弦を以(も)って其(そ)の項を鋸(ひ)く。或いは小石を沸騰中に置き、競(きそ)う所の者をして之(これ)を探ら令(し)め、云(い)う、『理の曲(きょく)なる者は、即(すなわ)ち手爛(ただ)る』と。或いは蛇を甕中(おうちゅう)に置き、之(これ)を取ら令(し)めて、云う、『曲なる者は、即(すなわ)ち手螫(さ)さる』と」(「隋書・倭国」『倭国伝・P.190』講談社学術文庫 二〇一〇年)

隋書には「阿蘇山(あそさん)」の名が登場する。当時の人々はもちろん火山のシステムを知らない。だから地面の下から焔がちらちらと見えていたり、しばしば噴火することをとても神秘的な現象として捉えていた。ゆえに祈祷や祭祀を欠かさない。遣隋使を通して仏教が輸入され始めた時期に当たっているからか、「如意宝珠(にょいほうしゅ)」と呼ばれる玉があり、夜になると光を発し倭人はそれを「魚の眼」と呼ぶとある。

阿蘇山(あそさん)有り。其(そ)の石故(ゆえ)無くして火起こり、天に接する者(こと)あり、俗(ぞく)、以(も)って異と為し、因(よ)って禱祭(とうさい)を行う。如意宝珠(にょいほうしゅ)有り、其(そ)の色青く、大きさは鶏卵の如(ごと)くして、夜には則(すなわ)ち光有り、云(い)う、『魚の眼精(まなこ)也(なり)』と」(「隋書・倭国(わこく)」『倭国伝・P.191~192』講談社学術文庫 二〇一〇年)

シャーマニズムアニミズムの伝統は近代日本になってからも引き続き人々を惹きつけることになった。例えば「聖火」とは何か。「火祭り」とは何か。「鬼神」とは何か。「楚辞」の時代すでに「皇剡剡」とあるように恐ろしく遠い古代人の眼に映った何物かが今なお延々と引き継がれている光景を見ないわけにはいかない。

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