Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

Blog21・「太平記読み」と「太平記乗り」

足利直義の死を記録に残すのは文字言語だが、それを人々の記憶に刻み付け刻み込むものは文字言語を詩として、「名調子」として音楽的に翻訳され歌い継がれる際の「リズム」であり「抑揚」である。用いられている文章は同じでも、それが聴く側、聴衆の耳にテンポ良く入っていくならもうその時点で「太平記」はそのイデオロギーを広く世間に浸透せしめた、少なくとも浸透せしめつつあったし、結果的に浸透させたと言えるだろう。直義の死去についての場面。籠(ろう)=牢(ろう)にも等しい狭く暗い場所へ幽閉されている。

「籠(ろう)の如く(なる)屋形の、荒れて久しきに、警固(けいご)の武士を居(す)ゑられて、事に触れたる悲しみのみ耳に満ちて、心を傷(いた)ましめければ、今は浮世(うきよ)の中に長らへても、よしや命を何にかはせんと思ふべき。わが身さへ用なき物に歎(なげ)き給ひけるが、幾程(いくほど)なく、その年二月二十六日に、忽(たちま)ちに死去し給ひにけり」(「太平記5・第三十巻・十一・P.62」岩波文庫 二〇一六年)

だがかつて足利直義(ただよし)は大塔宮(おおとうのみや)=護良(もりよし)親王を鎌倉の二階堂(今の神奈川県鎌倉市二階堂)の獄に幽閉し暗殺したことがある。

建武(けんむ)二年五月五日に、宮を直義朝臣(ただよしあそん)の方(かた)へ渡されければ、佐々木殿判官入道(ささきどのほうがんにゅうどう)を始めとして、数百騎の軍勢を以て路次(ろし)を警護し、鎌倉(かまくら)へ下し奉つて、二階堂谷(にかいどうのやつ)に土の獄(ひとや)を掘つて、置きまゐらせける」(「太平記2・第十二巻・九・P.278」岩波文庫 二〇一四年)

建武二年(一三三五年)とあるが、護良親王逮捕は史実では建武一年(一三三四年)十一月。そして建武二年(一三三五年)七月、足利直義の命令で淵野辺甲斐守義博(ふちのべかいのかみよしひろ)が護良親王を斬首する。淵野辺義博が護良親王の頸(くび)を斬り落とそうとすると抵抗した護良親王淵野辺の刀の先を喰い切ってしまう。とっさに淵野辺脇差を抜いてまず護良親王の胸元を二度突き刺す。次に新王の髪の毛を鷲掴みにして持ち上げ、頸(くび)を掻き斬り落とした。明るいところへ引き出して見ると、護良親王は口の中に食いちぎった刀の先をまだ含んでおり、さらにその眼光は生きている時と変わらない形相だったという。

「宮は、いつとなく闇夜(やみよ)の如くなる土の籠の中にて、朝(あした)になりぬるをも知らせ給はず、なほ燈(とぼしび)を挑(かか)げ、御経(おんきょう)を遊ばして御座ありけるが、淵野辺(ふちのべ)が御迎ひに参つて候ふ由(よし)を申して、御輿(おんこし)を庭に舁(か)き居(す)ゑたりけるを御覧じて、『汝(なんじ)は、われを失ふべしとの使ひにてぞあるらん。その旨(むね)心得たり』と仰せられて、淵野辺、持つたる太刀を取り直して、御膝(おんひざ)の辺(あた)りをしたたかに打ち奉る。半年ばかりの籠の内に居屈(いかが)まらせ給ひたりければ、御足も快く立たざりけるにや、御心は弥猛(やたけ)に思(おぼ)し召(め)しけれども、うつ臥(ぶ)しに打ち倒されて、起き上がらんとし給ひける処(ところ)を淵野辺、御胸(おんむね)の上に乗りかかり、腰の刀を抜き、御頸(おんくび)を掻(か)かんとしければ、宮、御頸をば縮(つづ)めて、刀の先をしかとくはへさせ給ふ。淵野辺も、したたかなる者なりければ、刀を奪はれまゐらせじと引き合ひける間、刀の先一寸余り折れて失(う)せにけり。淵野辺、その刀を投げ捨て、脇差(わきざし)の刀を抜いて、先(ま)ず御心本(おんむなもと)を二刀(ふたかたな)差す。宮、少し弱りて見え給ひける処を、御髪(おぐし)を爴(つか)んで引き上げ、則ち御首(おんくび)を掻き落とす。籠の前に走り出でて、明(あか)き所にて御頸を見ければ、食ひ切らせ給ひける刀の先、未だ御口の中に留(とど)まつて、御眼(おんまなこ)は生きたる人の如し」(「太平記2・第十三巻・五・P.324~325」岩波文庫 二〇一四年)

さて今度は護良親王を暗殺した足利直義が幽閉され殺される番である。文和一年(一三五二年)、「忽(たちま)ちに死去し給ひにけり」と先に述べられている。しかし不審死であるらしい。死の原因は肝機能障害による「黄疸(おうだん)」だと公表されるが世間では毒殺ではないかという噂が打ち広がった。

「俄(にわ)かに黄疸(おうだん)と云ふ病(やまい)に犯(おか)されて、はかなくならせ給ひぬと、よそには披露(ひろう)ありながら、実(まこと)は鴆(ちん)に犯(おか)されて、逝去(せいきょ)し給ひけるとぞささやきける」(「太平記5・第三十巻・十一・P.62」岩波文庫 二〇一六年)

とはいえ近現代の医療的見地からすれば、毒物による死の場合、肝機能が急激に障害され黄疸(おうだん)が出ることは当たり前。黄疸で死んだのかそれとも毒を盛られたがゆえに死んだのか、いずれにしても肝機能障害による黄疸の出現は必然的結果である。そのような近現代医学がまだ知られていなかった頃に毒物暗殺説が世間の噂として囁かれるのは「太平記的語り」の特徴の一つとして上げられるだろう。「鴆毒(ちんどく)」による暗殺は古代中国で流行し、さらに日本へ入ってからもポピュラーな殺害手法。

「唯母為后、而子為王、則令無不行、禁無不止、男女之楽不滅於先君、而万乗不疑、此鴆毒扼昧之所以用也

(書き下し)唯(た)だ母は后と為りて子は王と為らば、則ち令は行なわれざる無く、禁は止(や)まざる無く、男女の楽しみは先君に減ぜず。而して万乗を擅(ほしい)ままにしいて疑わず。此れ鴆毒(ちんどく)扼(やく)昧(まい)の用いらるる所以なり。

(現代語訳)母が太后となり、子が君主となりさえすれば、命令はすべて行なわれ、禁令はすべて守られて、男女の間の楽しみごとも先君の生前よりも自由になり、大国を思いのままにあやつってはばかることもない。それこそ、君主に対して鴆毒(ちんどく)の暗殺や絞殺・首斬りが行なわれる理由である」(「韓非子1・備内・第十七・二・P.313~315」岩波文庫 一九九四年)

ちなみに「史記」の時代、呂不韋の酖毒自殺は有名なところ。

呂不韋はしだいに自分の権勢が削られてゆくだろうと察し、死刑の憂(う)き目にあうことを恐れ、やがて酖毒(ちんどく)をあおいで自殺した」(「呂不韋列伝・第二十五」『史記列伝2・P.129』岩波文庫 一九七五年)

殺した側が今度は殺される側に廻っていく「太平記」の世界。和漢の書籍から幾つものエピソードを引用し盛り込みつつ語りはいよいよ名調子を帯びていく。次に漢詩が引用される。

「三過門間(さんかもんかん)の老病死(ろうびょうし)、一弾指頃(いちだんしきょう)の去来今(きょらいこん)」(「太平記5・第三十巻・十一・P.62~63」岩波文庫 二〇一六年)

蘇東坡の詩である。

「三過門間老病死 一弾指頃去来今

(書き下し)三(み)たび門(もん)を過(す)ぐる間(かん)に 老・病・死 一弾指(いちだんし)の頃(けい) 去(こ)・来(らい)・今(こん)

(現代語訳)三たびの訪問の間に、あなたは老・病・死の三相を現(げん)じられた。一たび指をはじくまに、過去・現在・未来の三世(さんぜ)は過ぎる」(「蘇東坡詩選・過永楽文長老已卒・P.123~125」岩波文庫 一九七五年)

こうしてテンポ良く抑揚を付けながら語り継がれていく点で、後に「太平記読み」と言われる人々へそのバトンが渡される。幕末になると「太平記読み」の名調子はもはや民衆芸能の一角に食い込んでいた。その「調子」を体に叩き込まれた世代が徳川幕府打倒・明治維新実現を果たす。だが速やかに帝国主義的軍事体制を整える必要性に迫られていた明治新政府は、言文一致運動と同時に出来上がった「太平記読み」的忠君愛国主義に便乗してもはや世の中に知れ渡っていた「皇国史観」を打ち立てる。その前後、「南北朝」という呼び名は歴史教科書から抹消され、「吉野朝」という呼び名へ置き換えられた。そして敗戦後、再び「南北朝」という呼び名へ巻き戻される。この点で見ておきたいのは「南北朝」か「吉野朝」かというイデオロギー闘争ではなく、歴史記述は置き換え可能だという間違いようのない事実である。そして「太平記」のケースでいえば、どんどん民衆の気持ちを掴んだのは書物「太平記」というより「太平記読み」による文体の「リズム・テンポ・調子・抑揚」といった芸能性にあったというべきだろう。もし「源氏物語」ならこうはいかない。ニーチェはいう。

「一つの言語を他の言語に翻訳するのに最も困るのはその文体の《テンポ》である。文体はその種族の性格のうちに、生理学的に言えば、その種族の『新陳代謝』の平均的な《テンポ》のうちに根拠をもつものである。几帳面(きちょうめん)なつもりの翻訳でも、原文の格調を心ならずも俗悪なものにしているために、殆ど偽作に近いものがある。これは単に、事柄や言葉におけるすべての危険なものを跳(と)び越え、逃げ去らせる原文の雄勁(ゆうけい)な快調な《テンポ》が翻訳されえなかったからにすぎない。ドイツ人はその言語において殆ど《快速調(プレスト)》を用いることができない。従って、自由な、自由精神的な思想の最も愉(たの)しく最も大胆な《ニュアンス》の多くを出すこともできない、と言われるのは正鵠(せいこう)を射たものであろう」(ニーチェ善悪の彼岸・二八・P.51~52」岩波文庫

ニーチェはドイツ独特の重厚長大な重々しさが好きでなかった。だからモーツァルトのような軽快さを好み、ドイツの重々しい音楽を批判した。それが「《快速調(プレスト)》」の必要性を説くニーチェである。ところがニーチェ亡き後、ナチス・ドイツにせよスターリンのロシアにせよ、重々しく厳粛な序曲や器械体操のような行進曲をどんどん用いて民衆を戦争に動員していくようになる。ともあれ、「太平記」から戦国末期まで、まだ間がある。そこでようやく田楽衆・山水河原ノ者・茶の湯の者など、新しい文化の担い手として頭角を現わす人々らを見ていきたい。そのためにはまだもっと「太平記」の多層性を覗き見る必要がありそうに思われる。

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