Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

Blog21・短編「火夫」とKとの邂逅

カールはヨーロッパからアメリカへ<非定住民>としてやって来る。そのきっかけを作ったのは<女中>との関係である。カールは自分で自分自身を<非定住民>へ変換するために<女中>との性的関係を欲望し、この変換装置を用いて<非定住民>になる。カールは<欲望する>ことで自分で自分自身を変化させた。「誘惑した側か誘惑された側か」という問いは始めから無効である。どちらが正解かという問いは<位置決定不可能性>によってあらかじめ消去されている。

文章は「女中に誘惑され」とあり、そして「女中に子供ができてしまった」とある。カールが<女中>に「誘惑された」からといって「女中に子供ができてしま」う必然性は必ずしもない。なぜならカールの欲望が目指しているのはアメリカへの<非定住民化>=<移民化>=<逃走>であって、<女中>が演じる機能は「城」のフリーダや「審判」のレーニのようにKのために誘惑し誘惑されるべくして登場するやKを行き詰まった困難な状況から逃走させることだからである。またヨーロッパとアメリカとは隣接している。とりわけ「審判」で重要な出来事はいつも隣接した場所(Kの隣人ビュルストナーの部屋・ティトレリのアトリエの隣室・廷吏の家の隣の部屋など)で起こっているように、ヨーロッパとアメリカとの位置関係が<隣接>している限りでカールは他のどの地域でもなくほかでもないアメリカへ移動する。

「女中に誘惑され、その女中に子供ができてしまったのだ。そこで十六歳のカール・ロスマンは貧しい両親の手でアメリカへやられた。速度を落としてニューヨークの港へ入っていく船の甲板に立ち、おりから急に輝きはじめた陽光をあびながら、彼はじっと自由の女神像をみつめていた」(カフカ「火夫」『カフカ短編集・P.116』岩波文庫 一九八七年)

船はニューヨークの港に入る。けれどもカールは下船することができない。忘れ物を取りに下の部屋へ戻ろうとしたところ、「手近な通路が閉ざされていた」。さらに「いくつもの船室や、次々とあらわれる小階段や、たえず脇へとそれていく廊下や、書き物机がポツンと放置されている空き部屋を巡り歩かなくてはならなかった」。また「やがて自分がどこにいるのか、かいもく見当がつかなくなってしまった」。煩雑この上ない官僚機構が船内を支配しているかのようだ。「城」でクラムを探して走り回るバルナバスが行けども行けども目的のクラムにたどり着くことはできず、仮にクラムと呼ばれている人物が本当にクラムなのか疑えば疑うほどますます判別不可能に陥ってしまうように。

「下へきてみると、船客はひとりのこらず下船させるための必要からだろうが、手近な通路が閉ざされていた。彼はやむなく、いくつもの船室や、次々とあらわれる小階段や、たえず脇へとそれていく廊下や、書き物机がポツンと放置されている空き部屋を巡り歩かなくてはならなかった。そんなところはこれまで一度か二度、それも何人かといっしょのときに通ったことがあるだけだったので、やがて自分がどこにいるのか、かいもく見当がつかなくなってしまった。カールは途方にくれて立ちどまった。頭上では切れ目なく長い列をつくって歩いていく人々の足音がするというのに、下には人っこひとりいないのである。停止した機関の最後のうめきを思わせる吐息のようなものを耳にしたとたん、彼はおもわず手近にあったドアをめったやたらに叩きはじめた」(カフカ「火夫」『カフカ短編集・P.117』岩波文庫 一九八七年)

目的の部屋はすでにどこにあるかさっぱりわからなくなっている。そこへたどり着くまでの通路は「城」の官僚機構内部に設定された<柵(さく)>と同じく<可動的>になっている。「たどり着くことは<できる>」と「たどり着くことは<できない>」とが併存する世界のパラドックス

「『確かに、彼は、官房にはいっていきます。でも、これらの官房は、ほんとうのお城でしょうか。官房がお城の一部だとしても、バルナバスが出入りを許されている部屋がそうでしょうか。彼は、いろんな部屋に出入りしています。けれども、それは、官房全体の一部分にすぎないのです。そこから先は柵(さく)がしてあり、柵のむこうには、さらにべつの部屋があるのです。それより先へすすむことは、べつに禁じられているわけではありません。しかし、バルナバスがすでに自分の上役たちを見つけ、仕事の話が終り、もう出ていけと言われたら、それより先へいくことはできないのです。おまけに、お城ではたえず監視を受けています。すくなくとも、そう信じられています。また、たとえ先へすすんでいっても、そこに職務上の仕事がなく、たんなる闖入者(ちんちゅうしゃ)でしかないとしたら、なんの役にたつのでしょうか。あなたは、この柵を一定の境界線だとお考えになってはいけませんわ。バルナバスも、いくどもわたしにそう言ってきかせるのです。柵は、彼が出入りする部屋のなかにもあるんです。ですから、彼が通り越していく柵もあるわけです。それらの柵は、彼がまだ通り越したことのない柵と外見上ちっとも異ならないのです。ですから、この新しい柵のむこうにはバルナバスがいままでいた部屋とは本質的にちがった官房があるのだと、頭からきめてかかるわけにもいかないのです。ただ、いまも申しあげました、気持のめいったときには、ついそう思いこんでしまいますの。そうなると、疑念は、ずんずんひろがっていって、どうにも防ぎとめられなくなってしまいます。バルナバスは、お役人と話をし、使いの用件を言いつかってきます。でも、それは、どういうお役人でしょうか、どういう用件でしょうか。彼は、目下のところ、自分でも言っているように、クラムのもとに配置され、クラムから個人的に指令を受けてきます。ところで、これは、たいへんなことなのですよ。高級従僕でさえも、そこまではさせてもらえないでしょう。ほとんど身にあまる重責と言ってよいくらいです。ところが、それが心配の種なのです。考えてもごらんなさい。直接クラムのところに配属されていて、彼とじかに口をきくことができるーーーでも、ほんとうにそうなのでしょうか。ええ、まあ、ほんとうにそうかもしれません。しかし、ではバルナバスは、お城でクラムという名前でよばれている役人がほんとうにクラムなのかということを、なぜ疑っているのでしょうか』」(カフカ「城・P.291~292」新潮文庫 一九七一年)

迷子になってしまったカールはたまたま目の前の部屋のドアを前後の見境いなしに叩き始めた。まるで監獄から出してくれと泣き喚く囚人ででもあるかのように。するとドアの中から声がした。ドアに鍵はかかっていないという。そこでカールが開けてみようとすると、鍵がかかっているものとばかり思い込んでばんばん叩きつけていたドアはあっさり開いた。中には一人の船員が突っ立っている。恐ろしく狭い窮屈な船室。「弱い明かりが差し落ちてい」るばかりの「みすぼらしい」部屋だ。

「『なぜそうむやみに叩くのだ』。大柄な男がほとんど顔も上げずに声をかけてきた。どこかに天窓でもあるらしく、細々と上方から洩(も)れてくる弱い明かりが差し落ちていた。みずぼらしい船室だった。ベッドと戸棚と椅子が一つずつ、それに当の男が窮屈そうに居並んでいる」(カフカ「火夫」『カフカ短編集・P.118』岩波文庫 一九八七年)

偶然尋ねてみた部屋の隣室が一つの目的に当てはまる事情は、「審判」の場合、審理の行われるホールを探し歩いていたKと廷吏の妻との会話によって導かれる。

「六階にかかる前で彼は探索を放棄しようと決心し、彼をさらに先へ案内しようとしていた若い親切な労働者に別れを告げて、下へおりだした。それからしかし、この企て全体の何の役にも立たなかったことに腹が立って、彼はもう一度引き返し、六階の最初のドアをノックした。彼がその小さな部屋で見た最初のものは、すでに十時をさしている大きな掛時計だった。『ランツという指物師はこちらですか?』、と彼は聞いた。『どうぞ』、と黒い輝く目をした若い女が言った、そしてちょうど子供の下着を洗濯だらいで洗濯していたところだったので、その濡(ぬ)れた手で隣室のあいているドアを指さした」(カフカ「審判・最初の審理・P.64」新潮文庫 一九九二年)

カールが船員の部屋に入ると男はすばやくドアを閉めようとする。男はいう。「通路からのぞかれるのがいやなんだ」、「通りすがりにちょいとのぞきこむ。いらいらするぜ」。

「男はやにわにドアの取っ手をつかむと、カールを船室に押しこむようにして勢いよくドアを閉めた。『通路からのぞかれるのがいやなんだ』。またもやトランクをいじりながら男が言った。『通りすがりにちょいとのぞきこむ。いらいらするぜ。我慢ならない』。『でも通路には誰もいませんよ』。ベッドの足もとは身動きもままならない。窮屈そうに立ったままカールが言った。『今はな』と、男はこたえた」(カフカ「火夫」『カフカ短編集・P.119』岩波文庫 一九八七年)

しかし「覗く側と覗かれる側」との間に等価性はない。問題はそういうことではなく<監視>する目的が達成できればこの装置は十分なのである。逆に「誰が」という主語は散り散りばらばらに砕け散っているほうが<監視する>方法としては遥かに都合がよい。フーコーは<パノプティコン>についていう。

「<一望監視装置>(パノプティコン)は、見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである。これは重要な装置だ、なぜならそれは権力を自動的なものにし、権力を没人格化するからである」(フーコー「監獄の誕生・第三部・第三章・P.204」新潮社 一九七七年)

またこの船室は船底付近に位置するらしい。下級乗務員の部屋なのは明らかなのだが上下左右とも余りにも狭いため、男は簡単な肉体労働をする余地しかなく、カールにベッドの上へ上がるよう勧める。カールは言われたとおりベッドの上に這いのぼった。

「『ベッドに上がって足をのばすがいい。その方がらくだ』。カールはそそくさと這(は)いのぼった」(カフカ「火夫」『カフカ短編集・P.120』岩波文庫 一九八七年)

狭すぎる部屋。そこには男性二人だけがいてそのうちの一人はもうベッドの上。「審判」で画家ティトレリとKとの同性愛関係が示唆されていたように、である。

「しかし彼を不快にしたのは実は暖さでなく、むしろそのほとんど息もつけないような澱(よど)んだ空気なのだった。部屋はおそらくもう長いあいだ換気されたことがないのだ。画家が自分は部屋に一つしかない画架の前の椅子に坐って、Kにはベッドに腰かけるよう頼んだことも、Kの不快感をさらに強めることになった。しかもKがベッドの端にしか坐らないのを画家は誤解したらしく、もっと楽にしてくれとすすめ、Kが躇(ためら)っているとご本人が出むいてきて、むりやり彼をベッドとふとんの奥深く坐らせてしまった」(カフカ「審判・弁護士・工場主・画家・P.205」新潮文庫 一九九二年)

短編「火夫」は長編「アメリカ」の冒頭部分「第一章」として書かれた。しばらく見ておこうと思う点が幾つかある。

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