Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

Blog21・プルーストがもたらす<再創造・新発見>と<断片>の複数性

プルーストは「日によって」アルベルチーヌの顔が変わると書いている。「流謫(るたく)の身を悲しんでいるように見え」たり、「紫がかったシクラメンのようにな」ったり、「背徳的」にも、「不健全」にもなると。ただ単にそう見える怪しげな女性だということを暴露しているのではない。一人の女性がどんどん様々な人物へ何重にも分割されているとしか思えないという意味でアルベルチーヌという女性にはもはや同一性は認められず分裂していくばかりだということを<暴露>している。だから<私>の側も「アルベルチーヌのひとりひとりが異なる」のに合わせて「嫉妬深い男、つれない男、官能にふける男、憂鬱な男、怒り狂う男」になったと認識する。この事態についてプルーストは「私は、場合によって」、「再創造された」、と述べる。

さらにアルベルチーヌについて「たとえ同じひとつの想い出でも、その想い出を評価するときに介在する確信の度合いの違いによって再創造された」と述べる。アルベルチーヌが無数に変化した以上に<私>の側はもっと多く「再創造」されたと。何度も繰り返し「再創造」された回数に限って言えばアルベルチーヌよりもむしろアルベルチーヌを見ている<私>の側だというわけで、従って「アルベルチーヌのことを考えたときのさまざまな私にも、ひとりずつべつの名称を与えるべきだろう」と厳密さを強調する。

「さまざまなアルベルチーヌのひとりひとりが異なるのは、ダンサーが舞台に登場するたびに、投光器の光が無数に変化し、そのせいでダンサーの色彩も形も性格も変わるのに似ている。この時期に私がアルベルチーヌのうちに眺めた存在はあまりにも多様であり、のちのちの私も、どのアルベルチーヌを想いうかべるかによって自分がべつの人間となる習慣を身につけたのかもしれない。私は、場合によって嫉妬深い男、つれない男、官能にふける男、憂鬱な男、怒り狂う男になったが、これらはよみがえる想い出のつれづれに再創造されただけではなく、たとえ同じひとつの想い出でも、その想い出を評価するときに介在する確信の度合いの違いによって再創造されたのである。つねに立ち返るべきはこのことであり、たいていの時間われわれの心を気づかないうちに満たしているこの確信であるが、この確信はわれわれの幸福にたいして、われわれが実際に見ている相手より重大な役割を果たすのだ。というのもわれわれが人を見るのもこの確信を通じてであり、見ている相手にそのときどきの重要性を与えるのもこの確信だからである。厳密に言うなら、のちにアルベルチーヌのことを考えたときのさまざまな私にも、ひとりずつべつの名称を与えるべきだろう」(プルースト失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.642」岩波文庫 二〇一二年)

まるで根拠のはっきりしない「暴露合戦」ならプルースト自身が所属する上流社交界で嫌というほど見てきた。そんなプルーストがわざわざ「厳密に」と断った上であえて<暴露>せずにいられないのは「再創造」というものがまさしく<諸断片>から成るモザイクでしかないからである。アルベルチーヌの顔は無数の<断片>の組み合わせによって何度も変貌するパッチワークだと言うだけでなく、アルベルチーヌの変貌以上にそれを見る<私>の側はもっと無数に分裂した<断片>をせっせと「再創造」したモザイクに過ぎないと述べる。だからそれくらい多数の顔貌を持つ「さまざまな私にも、ひとりずつべつの名称を与えるべきだろう」と言って<私>の多様性を隠そうとしない。また、この種の<暴露>には特徴があって、「暴露だ暴露だ」と騒ぎ立てがちな読者自身に向けて、「では読者はどうなのか」と問いかける効果を持つ。「再創造」されるためには一度「解体」されていなければならない。顔は最低でも一度は<諸断片>への分裂を起こしていなければならない。その上で始めて「再創造」の可能性が出現する。そして「再創造」されるたびにそれぞれの顔貌が異なっている以上、アルベルチーヌを見る「さまざまな私」に「ひとりずつべつの名称を与えるべきだ」というのが本来的に妥当ではないかと問う。こうもいう。「それにもまして私の前にあらわれた、一度として同じであったためしのないさまざまなアルベルチーヌにも、ひとりずつべつの名称を与えるべきだろう」。

「それにもまして私の前にあらわれた、一度として同じであったためしのないさまざまなアルベルチーヌにも、ひとりずつべつの名称を与えるべきだろう。それは海にもーーー便宜上、私は単数で海と呼んでいるがーーーじつは複数の継起する海があるのと同じで、そのさまざまな海を前に、もうひとりのニンフたるアルベルチーヌが浮かびあがったのである」(プルースト失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.642~643」岩波文庫 二〇一二年)

この箇所で部分的に有名なフレーズが出てくる。「便宜上、私は単数で海と呼んでいるがーーーじつは複数の継起する海がある」。海は一つだけだろうか。もし一つだけだとすればなぜ海には幾つもの名前が与えられているのかわからなくなる。「便宜上、幾つもの名前が与えられているに過ぎず、一括すれば確かに一つだ」という言い方はよく用いられる。だが「一括すれば確かに一つ」だということが本当なら、どんな海にせよいずれもが誰かの所有に帰属しているのはおかしいのではという疑問が生じる。わざわざ一括しなければならないくらい、そもそもよほど複数なのだろうか。記憶の場合も「じつは複数の継起する<記憶>」がその都度移動したり置き換えられたりしながら複合し合っているのではないだろうか。プルーストがいっていることは記憶は「あいまい」だということではなくて、記憶というものはそもそも「いつでも瞬時に移動するもの、置き換えられるもの、そういうもの」だといっているように思える。ゆえにプルーストは自分の「確信」に誠実であればあるほどアルベルチーヌもそれを見る<私>の側もともにその都度名前を変更しなければならなくなるのではというのだ。

しかしもっと「名称を与えるべきは、私がアルベルチーヌに会うそれぞれの日に私の心を占めて、あたりの人びとの雰囲気や外観までをつくりあげていた確信であろう」という。

「だがなによりもーーー物語のなかでこれこれの日はどんな天気だったと示されるように、いや、それより有益にーーー名称を与えるべきは、私がアルベルチーヌに会うそれぞれの日に私の心を占めて、あたりの人びとの雰囲気や外観までをつくりあげていた確信であろう。それは、さまざまな海の外観がほとんど目に見えない雲に左右されるようなもので、雲が集まったり揺れ動いたり拡散したり消え去ったりするだけで、目の前のひとつひとつの色合いが一変してしまう」(プルースト失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.643」岩波文庫 二〇一二年)

こんなふうに「雲が集まったり揺れ動いたり拡散したり消え去ったりするだけで、目の前のひとつひとつの色合いが一変してしまう」ものがいつも同一の名称で呼ばれているのはなぜだろう。まるで違った容貌を見せるにもかかわらず、いつも同一の名称が与えられていて動かない。一体どこがそれほどまで同一なのか。同様に、どこまでがミクロネシアでどこからがメラネシアなのか。ミクロネシアの風はどこでどのようにメラネシアの風になるのか。ミクロネシア内部だけを見てもそれこそ無数の部分に分割されているのはなぜか。そもそも「統一」という観念からして妄想の産物だったのではないか。

「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下・一一六・P.86」ちくま学芸文庫 一九九四年)

エルスチールの身振りは無意識的に<私>の期待を裏切ることで娘たちの一団を遠ざける。紹介してもらえなかった時のことだ。ところが「その娘たちが遠ざかると突然そのイメージがいっそう美しく輝いて見えた」。プルースト作品ではたびたび出てくるケースである。

「そんな確信の雲はーーー例の娘たちに出会って足を止めたエルスチールが私に娘たちを紹介してくれなかったある夕べ、その娘たちが遠ざかると突然そのイメージがいっそう美しく輝いて見えたように、エルスチールによって引き裂かれた雲もあればーーー、数日後、私が娘たちと知り合ったとき、ふたたび形を成して娘たちの輝きを覆いかくし、娘たちと私の目のあいだにウェルギリウスのレウコテアにも似た不透明な優しい身を割りこませたのである」(プルースト失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.643~644」岩波文庫 二〇一二年)

しかし何度か見ているのに見えていなかったバルベックの断崖の風景を、絵画という形式へ置き換えることで<私>の目の前で可視化したのもエルスチールである。その意味で芸術への次元移動もまた「再創造」と言えるだろうし、それ以上に「新発見」というべきかもしれない。

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