Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

Blog21・差異化の運動としてのアルベルチーヌと奇妙な報告者<私>/横断的「水陸両棲」のアルベルチーヌ

プルーストは「重苦しい倦怠」と「身震いするほどの欲望」とが「交互にあらわれた」と書いている。一方の極からもう一方の極へ、両極を目まぐるしく往復することを何度も繰り返し反復する。プルースト自身の持病だった喘息の発作の形態変化だと言われてみればなるほどそんな気もする。特定疾患を患っていなくても人々は呼吸運動から逃れることはできない。恋愛の運動もそれに連れて動くように出来ているのだろうか。わからないとしか言えない。

 

「こんなふうにアルベルチーヌのそばで感じるいささか重苦しい倦怠と、輝かしいイメージと哀惜の念にみちた身震いするほどの欲望とが交互にあらわれたのは、アルベルチーヌが私の部屋でそばにいるかと思えば、ふたたび自由を与えられ、私の記憶のなかの堤防のうえで例の陽気な浜辺の衣装をまとって海鳴りの楽奏に合わせて振る舞うからで、あるときはそうした環境から抜け出し、私のものとなって、さしたる価値もなくなり、あるときはその環境へ舞い戻り、私の知るよしもない過去のなかへ逃れて、恋人である例の婦人のそばで、波のしぶきや太陽のまばゆさに劣らず私を侮辱する、そんなアルベルチーヌは、浜辺に戻されるかと思えば私の部屋に入れられ、いわば水陸両棲の恋の対象だったのである」(プルースト失われた時を求めて10・第五篇・一・P.389」岩波文庫 二〇一六年)

 

反復という点でみると、プルーストは恋愛を、ただ単なる同じ過程の繰り返しではなく、繰り返されるたびに新たな違い(差異)を発生させる差異化の運動であることに注目している。

 

「そもそも恋心とは不治の病で、リューマチが治まると代わりにしばらくして癲癇(てんかん)状の偏頭痛がおこるといった特異体質に似ている」(プルースト失われた時を求めて10・第五篇・一・P.185」岩波文庫 二〇一六年)

 

或る記号が別の記号を呼び寄せ呼び集め、さらに次々と記号の系列を踏破・横断していく。そしてそれら<諸断片>の間には必ず断層が見られる。プルーストで典型的なケースを上げれば睡眠がそうだ。或る状態と別の状態との間を分断する睡眠という事態。

 

「そんな熟眠から醒めてしばらくは、自分自身がただの鉛の人形になってしまった気がする。もはやだれでもないのだ。そんなありさまなのに、なくしたものを探すみたいに自分の思考や人格を探したとき、どうしてべつの自我ではなく、ほかでもない自分自身の自我を見つけ出すことができるのか?目覚めてふたたび考えはじめたとき、われわれの内部に体現されるのが、なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか?何百万もの人間のだれにでもなりうるのに、いかなる選択肢があって、なにゆえ前日の人間を見つけ出せるのか不思議である」(プルースト失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一三年)

 

この「なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか?」という問いに対する明確な根拠は今なお一つもない。ただ「習慣」という形へ飼い慣らされた<信仰>を信じ込んで疑わないでいる限りでのみ、自分は自分自身と同一であると思い込んでいられる。しかしプルーストは、<疑う余地がなくごく当り前の普遍的な常識>だと思い込まれているこの<信仰>に疑問を呈する。文学の言葉では引用箇所のようになる。もっと端的な言葉ではニーチェになる。

 

「『統一』として意識されるにいたるすべてのものは、すでにおそろしく複合化している。私たちはつねに《統一の見せかけ》をもつにすぎない」(ニーチェ「権力への意志・下・四八九・P.33」ちくま学芸文庫 一九九三年)

 

にもかかわらず誰もなかなか気づかないことについて。

 

「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫 一九九三年)

 

ともかく、ここで始めに述べられているように、アルベルチーヌと海辺のイメージとが接続されている点は動かない。

 

「その一方でアルベルチーヌは、私にとってきわめて大切な一連の海辺の印象をひとつ残らず身のまわりに巻きつけていた。この娘の両頬に接吻するのなら、バルベックの浜辺の全体に接吻できた気がするだろうと私には思われた」(プルースト失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.58」岩波文庫 二〇一四年)

 

だからとって、アルベルチーヌと海辺のイメージとの接続はア・プリオリに可能なのではまるでない。第一のバルベック滞在時を通して一方のアルベルチーヌともう一方の海辺のイメージとが事後的に接続されたというのが実質的な過程である。さらに海辺のイメージはアルベルチーヌの同性愛志向の発見へも接続されている。

 

「私は浜辺で、すらりとした若い色白の美人を見かけた。その目の中央からは幾何学的な明るい光が放射され、そのまなざしを前にすると、なにやら星座を見ている気になる。私はこの若い女のほうがアルベルチーヌよりずっと美人ではないか、アルベルチーヌを諦めたほうが賢明ではないかと考えた。ただしこの若い美人は、ひどく下品な暮らしのなかでたえず姑息な策を弄してきたらしく、顔にはそんな暮らしの目には見えぬ鉋(かんな)がかけられていたせいか、顔のほかの部分よりもずっと高貴なその目からは、ただものほしげな欲望の光だけが放たれていた。ところが私はその翌日、カジノで私たちから非常に遠く離れた席にいたこの若い婦人が、あたりをくるくるかわるがわる照らすまなざしの光をたえまなくアルベルチーヌに注いでいるのに気づいた。まるで目を灯台にしてアルベルチーヌに合図を送っているふうである」(プルースト失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.556~557」岩波文庫 二〇一五年)

 

アルベルチーヌが同性たちから送られる熱視線を意識しつつ余裕で応え、知らない身振りを振りまく性格については他の箇所でも何度か言及されている。逆にアルベルチーヌが好みの同性たちに向けて注ぎ込む眼差しは苦しみに歪み、耐えがたい苦行にかろうじて耐えているかに見えるほど暗く熱いものがこもっている。だが<私>はアルベルチーヌの身振り(言葉・振る舞い)を評するコタールたちの言葉を介して始めてアルベルチーヌの同性愛とトランス(横断的)両性愛とに気づいたのであって、言葉の仲介なしに<私>の認識はなく、<私>が苦しむこともなく、プルースト作品自体、それ以上延々と続いていくこともなかった前提をなしている点に留意する必要があるのは間違いない。

 

また<私>は、<私>だけに限って一切不変であるなどと思ってはいない。<私>は<私>の変動によってもなお事態がどんどん転変していくことに気づいている。

 

「小説家は、主人公の生涯を語るさい、つぎつぎと生じる恋愛をほぼそっくりに描くことによって、自作の模倣ではなく新たな創造をしている印象を与えることができる。というのも奇をてらうより、反復のなかに斬新な真実を示唆するほうが力づよいからである。さらに小説家は、恋する男の性格のなかに、人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべきであろう」(プルースト失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.537」岩波文庫 二〇一二年)

 

だから報告者としての<私>は、<私>(男性)に向けられた同性(男性)の眼差しについても述べておかなければならない。

 

「祖母の義兄弟のひとりに修道士がいて、私には面識のない人だったが、所属する修道会の責任者のいるオーストリアにまで電報を打って特別の計らいで許可を得たからと、その日やってきた。その人は悲しみに打ちひしがれ、ベッドのそばでさまざまな祈禱と瞑想の書を読みあげたが、そのあいだも刺すような鋭い目をいときも病人から離そうとしない。祖母の意識がなくなったとき、この祈る人が悲しむすがたに胸が痛んだ私は、その人をじっと見つめた。相手はそんな私の憐憫に驚いたふうであったが、そのとき奇妙なことがおこった。相手は、辛い想いに沈潜する人のように合掌して顔を覆ったが、私が今にも自分から目をそらすのを見てとると、合わせた両手の指のあいだにわずかの隙間をつくった。そして、私のまなざしが相手から離れようとした瞬間、私は、相手の鋭い目が、両手の影に隠れて、私の悲嘆が真摯なものかどうかを見極めようとしているのに気づいた。まるで告解室の影に隠れるように、そこに潜んでいたのだ。相手は私が見ているのに気づくと、すぐさま、すこしだけ開けていた指の格子窓をぴたりと閉じてしまった。私はのちにこの修道士に再会したが、ふたりのあいだでこの一刻のことが話題になったことは一度もない。修道士が私をのぞき見していたことに私は気づかなかったという暗黙の合意ができていたのである」(プルースト失われた時を求めて6・第三篇・二・二・一・P.365~366」岩波文庫 二〇一三年)

 

アルベルチーヌの特徴をプルーストは「水陸両棲」と書いている。<私>がゲルマントとメゼグリーズとの両極を横断するようにアルベルチーヌは水と陸との両極を横断する。プルーストは横断性という問いを絶えず繰り返し強調しないではいられない。