Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

言語化するジュネ/流動するアルトー67

しばしば唐突に差し挟まれるジュネによる論考。やっていることは反省なのだが、日本でいう「反省」とは全然意味が異なる。日本で「反省」といえば「謝罪」や「土下座」といった誰にでも可能な単なる演技でも間に合う形ばかりのものを指していわれることが多い。ところが世界的な水準の社会的倫理を基準に述べると違ってくる。“reflection”(鏡に映った鏡像、反射、反映、熟慮)において「自己をかえりみる」ということは前提としてすでに含まれており、むしろ社会的な意味で、どんな個人も社会的な相関関係の中に巻き込まれているのであり、何をどう考えるにしても「社会的な人間関係」あるいは「他者への関係」なしに考える(熟慮する、回想する)ことはできないという意味が込められている。

「この書物が文学にすぎないことは自分でもよく承知している、だがこれを通して私は自分の苦痛を高揚させ、ついにはそれをそれ自体から抜け出させーーーちょうど花火が炸裂のあと消え去るようにーーーもはや存在しなくなるようにさせたいのだ。私が、それともジャンが、それによって益することが大事なのだ」(ジュネ「葬儀・P.277」河出文庫

ジュネの欲望は「炸裂」である。「私」であろうが「ジャン」であろうがその両方ともにであろうが、言語によって捉えることが《できる》というのはこの上ない幸運というべきなのだが、ただ単に書物の中に封じ込めておくだけでなく、「炸裂」において閃光と化してもはや地球のみならず宇宙へも飛び散ってしまうことが大事なのだ。そして閃光は閃光以前には存在しない、二度と訪れることのない至高の瞬間でなくてはならない。そのことがジュネとその数々の分身にさらなる力を与える。

「この作品はたぶん私の単純化に役立つだろう。自分を単純化することを、すなわち自分を設計図のようなものに仕立てることを私は願っている。そのためには私の存在はそれが透かせて見せる品々によってしか存在しない、水晶のような特性を身につけねばならない」(ジュネ「葬儀・P.277」河出文庫

しかし単純化言語化あるいは意識化においてすでになされている。

「言語はもろもろの大きな先入見を含んでおり、また維持している、たとえば、《一つの》語でもって表わされるものは当然また《一つの》出来事であるという先入見がそうである。意欲、欲求、衝動ーーーこれらは複雑なものなのだ!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・三三・P.28」ちくま学芸文庫

なぜそうなってしまうのか。

「私たちは推定上の、《出来事の絶対的流動》を見てとるに足るほど《繊細》ではない、言いかえれば、《持続するもの》は私たちの総括し平板化する粗雑な諸機関によって現存するにすぎず、そういったものは実は何ひとつとして現存しないのだ、と。樹木はあらゆる瞬間ごとに何か《新しいもの》である。〔樹木の〕《形式》といったものが私たちによって主張されるのは、私たちが最も微細な絶対的運動を知覚することができないからである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三・P.53~54」ちくま学芸文庫

しかしジュネは「水晶」のようでありたいと願う。このことはジュネの考える「聖性」と関係がある。といっても宗教でいう「聖性」とは何の関係もない。宗教でいう「聖性」はすでに人間と合成化された人為的なものでしかない。ジュネの考える「聖性」は「ある」とか「ない」とかいう物品のような次元ではとてもではないが言い表すことができない。それはジュネが用いているようにあくまで《暫定的に》「聖性」という言語でしか言い表しようのないものである。或る瞬間において稲妻のような閃光として出現するが、気づけばたちまち消えてしまっていてもはやないという或る流動性の予期せぬ暴発的出現のような雷光としてしか認めることができない。人々はたまたまそれを見る機会を得たとしても、常に後から、あれは「聖性」だったという過去形において捉えることしか不可能なのだ。「泥棒日記」にこうある。

「聖性がわたしの目標であるが、わたしにはそれがいかなるものであるかを言い表わすことができない。わたしの出発点は、この、倫理的完全に最も近い状態を指す、聖性という言葉それ自身なのである。それについては、わたしは、ただそれが得られなければわたしの生涯が空(むな)しいだろうという以外、何も知らないのである」(ジュネ「泥棒日記・P.303」新潮文庫

ジュネは「聖性」を定義不可能なもの、「美と同様」のものとして考えている。それは「各瞬間ごとに創造」し「創造」されていくほかないような流動性において存在し得る希有の瞬間だ。

「聖性をーーー美と同様ーーー定義することができない状態のまま、わたしは各瞬間ごとにそれを創造したいと思う、すなわち、わたしのあらゆる行為がわたしの知らないこの聖性なるものに向ってわたしを連れてゆくようにしたい、と」(ジュネ「泥棒日記・P.303~304」新潮文庫

それは固定された社会的地位とはまったく何の関係もない。非固定性であり各瞬間においてのみ創造可能な閃光であり雷光としてしか捉えることができない。稲妻といい閃光というも、それは一つの作用である。ジュネはその唯一性を知っていた。身に染みて知っていた。

「あたかも一般人が稲妻をその閃きから引き離し、閃きを稲妻と呼ばれる一つの主体の《作用》と考え、活動と考えるのと同じく、民衆道徳もまた強さを強さの現われから分離して、《自由に》強さを現わしたり現わさなかったりする無記な基体が強者の背後に存在しでもするかのように考えるのだ。しかしそういう基体はどこにも存在しない。作用・活動・生成の背後には何らの『存在』もない。『作用者』とは、単に想像によって作用に附け加えられたものにすぎないーーー作用が一切なのだ。実際を言えば、一般人は稲妻をして閃めかしめるが、これは作用を重複させるのだ。それは作用=作用とも言うべきものであって、同一の事象をまず原因として立て、次にもう一度それの結果として立てるのだ。自然科学者たちは、『力は動かす、力は原因になる』などと言うが、これもより勝れた言い表わしではない。ーーーあらゆる彼らの冷静さ、感情からの自由にも拘らず、現今の科学全体はなお言語の誘惑に引きずられており、『主体』という魔の取り換え児の迷信から脱却していない」(ニーチェ道徳の系譜・P.47~48」岩波文庫

だからジュネは閃光としてしか、雷光としてしか存在したくないがゆえに、そのためには他の誰でもない固有で孤独なものそのものとなることを目指してひたすら「泥棒、裏切り、性倒錯」を繰り返し反復する。その先にもし光り輝く陽光が見えたとしよう。そのときすでにジュネは何かを目指してさまよっているわけではなくむしろ光り輝く陽光それ自身である。ジュネはもはや美《について》語るのではなく美《として》語るのだ。あるいは音楽として。

といっている暇もなく、今度は、ジュネが収監された刑務所で暴動が起きた。単純にいえば、ただ単に囚人たちが反乱したということになるわけだが、ところが事態はずいぶん混み入ってくる。重要な役割を与えられるのはピエロだ。刑務所長の前に引っ張り出されたピエロに変化が起こる。いつどこでどのようにして身につけたのかさっぱりわからないのだが、ピエロの精神、裏切り者としての精神が発揮される。ピエロは暴動の主犯格ならびに首謀者たちを次々に密告し出す。ジュネに言わせると「なすりつけた」ということになるわけだが。

「別の若者たちがつづき、おだやかに、或いは乱暴に、訊問された。誰ひとり口を割らなかった、というのは誰ひとり知らなかったからだ。ピエロが入ってきた。彼は囚人のうちの二十八人を摘発し、罪をなすりつけた」(ジュネ「葬儀・P.292」河出文庫

暴動首謀者の系列が出現する。次の通り。

「刑務所長と、隊長と、典獄と、四人の看守にともなわれて彼は、監房の前を全部ひとわたり通りすぎた。そのひとつひとつの前で彼は、暴挙を計画した男たち、先頭に立って扉に体当たりした若者たち、特に気負い立った連中ーーーつまり首謀者たち、向こう見ずな男、大胆に振舞った男、狂暴に振舞った男を指摘するのだった」(ジュネ「葬儀・P.292」河出文庫

何か感じないだろうか。「向こう見ずな男」「大胆に振舞った男」「狂暴に振舞った男」といった系列。ジュネ作品の中で重要な役割を担ってきたごろつきどもの諸特徴が列挙されている。これらの傾向は幾つかの濃淡の組み合わせを経てスティリターノ、ジャヴァ、アルマン、クレル、セブロン、マリオ、ジャン、エリック、リトンといったそれぞれの登場人物に分割されて出現し、出現した後もなおそれぞれの登場人物は作品の中で交雑したり分裂したりを繰り返している。だからといってそれらすべてを単純に総合してみてもけっしてジュネにはならない。ジュネ的な部分もあればそうでない部分も大いにある。ただ単に言語的アナロジー(類似、類推)だけから出現してきた登場人物もいる。この先を述べるに当たってジュネは自分が見た一つの夢を挿入しておく。次のようなものだ。

「五つの鍵がそなわった特殊な貞操帯に私は或る若者の性器をとじ込め、つぎに、《憎しみ》から(これから述べる行為を私にやらせた感情も憎しみであったのを私はおぼえている)そしてまた取り返しのつかぬことがらをやってのけるのが好きなために、その鍵を私は濁流のなかへ投げ棄てるのだった」(ジュネ「葬儀・P.293」河出文庫

想像してみるとなるほど、ひどいといえばひどい夢なのだが、ジュネはそんなにもひどいだろうか。ジュネはそういう夢を見ただけに過ぎない。現実社会ではどうだろう。ジュネが夢にしか見なかったことを実際に行なっている人間は数知れないという事実を忘れてはいけない。というより、余りにも残酷で凄惨な日々にまみれている現実社会をやさしいヴェールで包み込んでやるために、「泥棒、裏切り者、性倒錯者」として社会から《拒否された権限》でもって、ほんの少し夢のエピソードを語って見せただけなのかもしれない。

さて、アルトーヘリオガバルスは自分の詩と思想とを現実化する皇帝であり、もっぱらそのために生まれてきたかのようだ。詩とは何か。何でもよいというわけにはいかない、と人々は思っている。果たしてそうだろうか。何でもよいわけではないのなら、では一体何でなくてはならないか。韻を踏むとか踏まないとかいった形式から解き放った上で、その後にも何か残るものでなくてはならない。そういうものであるには違いない。形式上の制約は詩を詩に仕上げるのに役立つが、それと同じほどしばしば詩を殺してしまう。少なくとも、形式の内部に凝固し固定しステレオタイプ化して窒息させてしまう。ヘリオガバルスの考える詩は逆に形式化不可能なものだ。すでに解き放たれたものか、これから解き放たれて始めて目に見えることになるようなものだ。前に引用した箇所に「潜在性」とあったが、ヘリオガバルスの場合、「潜在性」は無意識的ということを意味しない。世間では一般的に目に見えていないけれどもすでに見据えている人間には常に見えているものだ。ヘリオガバルスは世間一般のあいだでも十分目に見えるものにしたいと思い、是非そうすべく試行錯誤している。だからヘリオガバルスにおける「潜在性」は無意識的ということとは本来的に意味が異なっている。すでに見えている人間にはとっくに見えている或る種の詩を、まだなお見えていない人間の前でさえ目の当たりに暴露しすっかり晒して見せつけてやることが皇帝の務めであり、むしろ正当にも、それを務めとするがゆえに始めて皇帝は名ばかりではない本当の皇帝になり得るにちがいないとおもっている。しかしその方法について、皇帝であるにふさわしい行動として行なうにはどうすればよいのか。考えてみると思い当たることがある。要するに、詩は本来的に逆説的なものだという性質について、である。

「どんな詩のなかにも本質的な矛盾がある。詩とは、粉砕されてめらめらと炎をあげる多様性である。そして秩序を回復させる詩は、まず無秩序を、燃えさかる局面をもつ無秩序を蘇らせる。それはこれらの局面を互いに衝突させ、それを唯一の地点に連れ戻す。すなわち、火、身振り、血、叫びである」(アルトーヘリオガバルス・P.157」河出文庫

詩は第一に多様性である。単純にいえば、詩は世界である。そして世界は多様性としては詩であってなおかつ詩でしかない。第二に詩は秩序化する。言語的秩序へ復帰させるために働かなければならない。けれども秩序化するためには今ある無政府状態を解体する必要性がある。今ある無政府状態を解体し息の根を止めてしまうためにより一層アナーキーな無秩序を導入して制圧してしまうほかない。詩の逆説性は、秩序回復のためにさらなる無秩序を導入することにある。もっとも、詩ではなく法によって、と主張することにはなるほど正当性がある。ところがしかし、今ある無政府状態の出現を許したのは詩ではなくそもそも法とその適用ではなかったか。法による秩序回復が不可能になるやいなや詩による秩序回復が要請されるのだ。そして詩はそれを実現するために要請された条件を満たすものでなくてはならず、また実現できるのである。詩によって緊急招集された諸条件とは何か。「火、身振り、血、叫びである」。後に描かれるように、堕落しきったマクリヌス皇帝軍を潰走させたのはそれらであって、法律などというものではまったくない。逆に、詩による「火、身振り、血、叫び」の導入によってのみ、馬鹿げきった乱痴気騒ぎに明け暮れているマクリヌス皇帝軍を潰走させヘリオガバルスのローマ入城を堂々と執りしきることが可能となった。しかし秩序はいつどこで復帰したか。マクリヌス皇帝の敵前逃亡ではない。ただ単なる敵前逃亡ならそれはほんの一時的な戦略的撤退として考えられるからである。ほんの一時的な戦略的撤退なら闘いながら徐々に自分たちの陣営あるいは支配地域へ巧みに退いていけばよいだけのことだ。だが法が、ではなく、詩が要請される局面に立ち至っている以上、法は法自身の無効性をさらに見せつけるばかりでしかない。では何がものを言ったのか。皇帝という唯一の地位が賭けられている戦場において、秩序復帰の瞬間を決定づけたのはマクリヌス皇帝自身の「身振り」だった。マクリヌス皇帝の敵前逃亡の「身振り」を目の当たりにしたマクリヌス皇帝軍兵士。マクリヌス皇帝軍兵士がヘリオガバルスの側へ向き直って熱狂的な万歳三唱の歓呼を上げたのは、敵前逃亡に際して見せたマクリヌス皇帝の「身振り」がマクリヌス皇帝軍兵士に対する「裏切り行為」として決定的であったかぎりで確実となった新しい皇帝の承認だった。この「身振り」については後の戦闘シーンを待たねばならないが。

「その実在そのものが秩序への挑戦である世界のなかに詩と秩序を連れ戻すことは、戦争と戦争の永続性を取り戻すことである。熱烈な残酷さの状態を取り戻すことであり、諸事物と諸局面のアナーキーを取り戻すことであるが、それら事物と局面は、統一性のなかにあらためて沈み込み、融合してしまう前に覚醒する」(アルトーヘリオガバルス・P.157~158」河出文庫

無政府状態を秩序へ復帰させるために要請された詩。詩とその逆説性。より一層過酷な残酷さの導入。そのことで統一性が出現する。ところがこの統一性は秩序回復であると同時に戦争状態の永続性を可能にしてしまう逆説でもある。しかし逆説を含まない詩はない。法はすでに長いあいだ無効化されていたのだ。ゆえに要請された詩であり実現されるべくして導入された詩である。事実、秩序はいったん回復される。ところが詩は常にアナーキーはものだ。いつも犠牲(いけにえ)を探し求めて止まない。だからこういえる。

「この危険なアナーキーを目覚めさせる者はつねにその最初の犠牲(いけにえ)である。そしてヘリオガバルスはひとりの熱心なアナーキストであり、まず自分自身を貪り食らい、最後に自分の糞便を貪るのだ」(アルトーヘリオガバルス・P.158」河出文庫

ヘリオガバルスの最後はよく知られている。ローマ市民によってとことん追い詰められて糞便だらけの堀に飛び込み、ローマ市民と軍隊とによって虐殺され内臓をかき回され、母ユリア・ソエミアの虐殺死体とともにティベリス河へ続く下水溝に放り込まれる。しかしそのような事態になるまでにはまだ述べておかねばならないことがある。

なお、「自分の糞便を貪る」とあるけれども、糞便だらけの便所に飛び込んだことを指して言われているわけではない。糞便はすでに解体作業過程に含まれている自然への回帰過程の一つだという疑いようのない事実であることを思い起こそう。一個の有機体として重苦しく蓄積されてきたヘリオガバルスの身体はすでに糞便化しつつ死とともにとことん解体され、有機体から解放され、めちゃめちゃにかき回された内臓や糞便とともにそもそもの自然の多様性へ回帰していくだけのことだ。その意味では、ヘリオガバルスの闘争はただ単にローマ帝国を舞台としてありとあらゆる強度を解放しあちこちへ移動させただけのことだとも言える。それでは、移動した強度はその後いったいどこへ行ったのか。ティベリス河へ流れ込んだのはもう強度のほとんどを失って加速的な解体過程にある死体に過ぎない。ところが同様の事態は、現代の地域紛争だけでなく姿形をまったく置き換えて大都会の真ん中でも依然として闘われている。紛れもなく大量の死者を出し続けて止むことがない。要するに、今日の生き残りは明日の死者予備軍である。その意味でヘリオガバルスは今なお人々の目の前を通過しているといえる。無数に交錯し「自分自身を貪り食らい」つつ同時に「自分の糞便を貪る」ヘリオガバルスが。都会であればあるほど過剰に。

現代の闘争は古代の戦争と比較するとほとんどまったくそうは見えないという特徴を示している。地球に満ち溢れる力の総量は変わっていないにもかかわらず。それではおかしくないだろうか。いったん満ち溢れた力の総量は地球上を隈なく流動する強度をなしつつ常にうごめきうねることしか知らない。善悪を知らない。ただ移動する強度としていきなり地上で暴発する。暴発するまでは目に見えないという特徴を身につけてもいる。たとえば、国家間へ分割されて役割を果たしているような場合、一見戦争には見えないでむしろ逆に和平に見えもするという顕著な瞞着性を全面に押し出して見せる。マスコミに関していえば、一方で統一を強調して報道すれば中国や北朝鮮に見える。もう一方で無政府主義アナーキーを強調して報道すればアメリカや中東諸国に見える。ふと気づくと世界は突然一九七〇年代の臭いに満ちているように思える。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM